一滴一滴・・・を「今ここ」を大切に生きようね。

先日の中西、おかまのMくんとのつながりは、16年前、
つまり天真庵を改装している時にさかのぼる。ある意味「くされ縁」だ。

ある日、おかまのM君が改装現場にやってきた。「山口にいるお花の先生が、東京で稽古場を
探しているので、天真庵を紹介したんだけど、どうかしら」という。
中西くんと相談して、壁にベンガラ色の和紙を張り、ガラスで置き床をつくる、ということにして
お花の稽古場風に仕上げた。

お世話役の武内さんが、天真庵が始まった2007年の春にきてくれて、原田先生の「お花の会」
が始まった。先生が召されるまで6年近くお花を教えていただいた。N郷のYさん、ピアノの赤松林太郎、吉若さん(BCN専務)
玉名創成館の橋本館長、有名な料理人や、旅館のスタッフ・・・各界で活躍する多士済々の人が集まって、花を生けた。
お世話役の武内さんも、まだ五十路の花道を闊歩中だったけど、クリスマスの日に昇華された。彼女も花ある人生やった。

武内さんは、編集の仕事をしていた関係もあり、花の会報誌を「一雫(ひとしずく)の会」と命名し、自身で取材・編集に尽力された。
その会のメンバーは、ぼくたち「弟子」とともに、福岡や山口、東京の「文人」のような人たちも名を連ねた。
福岡の「珈琲美美」の森光宗男さんの名前もあった。珈琲業界のレジェンドだった。韓国でドリップ珈琲の指導
にいった帰りの空港で帰らぬ人となる。奇しくも彼の師匠の標(しめぎ)さんと同じ享年67歳。
IT時代に、福岡の大名に提携先があり、そこにいく前は、歩いて「美美さん」にいって珈琲を飲んだ。
最初にいった時は、閉店まじかで、奥さんがネルドリップのネルを縫っておられ、森光さんは焙煎の準備みたいで、
生豆を洗っておられた。厨房の壁には、「滴一滴」と揮毫された扁額。まさに彼の珈琲人生の座右の銘。

今年も天真庵の玄関先に「ほととぎす」が、咲いた。武内さんの家があった吉祥寺の庭にあった花が根付いた。
毎年紫色の花を開いて楽しませてくれる。それを、渡り(中国からきた骨董)の煎茶椀に投げ入れ、
カウンターの上の鉄製の馬具にのせた。夕方珈琲を飲みにきた「お世話しあうはうす」の女将さんが
「このほととぎす、どこから飛んできたの?」と問う。「天国からです」と答えると、「マスターは、
まるで珍品堂主人ね」といって笑った。珍品堂主人とは、井伏鱒二が、秦秀雄さん(
魯山人とともに星岡茶寮を経営していた人)
をモデルに書いた小説だ。「珈琲美美」という屋号も、その秦さんが命名親なのである。
人生はつかの間の「一滴」みたいなもんだ。

そういえば、建築家の白井晟一さんの自宅も「滴々居」といった。その後に建てた江古田の「虚白庵」
の前の自宅。天真庵の柱時計は、そこで使われていた古時計だ。「生」と白井さんが揮毫した額も
今も生きている。感謝。

今日明日は12時から16時まで営業。
その後は「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」

押上ゴールデン梯子

水曜日は、ひさしぶりに「なにもない一日」だった。
「中西くん」に電話して「UFO珈琲を飲みにこない」
と誘った。天真庵を改装してくれた親方?。出会ったころは、芸大の建築を
卒業したてのやんちゃだったけど、もう50を超え、いいおっさんになった。
炭火を囲炉裏(最近手にいれた青銅のやつ)におこし、能登の霊水を
薬缶にいれ、五徳にのせる。蘇東坡の心境だ。

UFOの最新版・・・250g焙煎できる「新型UFO」で、モカを焙煎。
ひとつ課題のある、豆の入口が焙煎の途中に出口になって、熱い豆が
そこからでる、という問題も「針金」を上手に工夫することによって解決。
15分もすれば、モカのシティーローストができあがる。
しかも、豆を入れるドラムが能登の珪藻土でつくられているので、遠赤効果、輻射熱効果
がハンパなく、カリッとした珈琲豆ができる。充分、「プロ」でも通用するすぐれもの。
カフェやレストランなどをやっている人も、「今日から自家焙煎」の看板をうちたてられる。
「能登で始める3日坊主の焙煎塾」に入門すると、3日後に「焙煎士」になれる。
天気がよければ、「タコ釣り指南」も同時にできる。

中西くんと3杯づつ珈琲を飲みながら談論風発。彼は天真庵を改装するまで、谷中に住んでいた。
そして、天真庵を改装途中に、「うちの物件も改装して・・」という話がきて、「ぶんかん」
や、長屋を改装して、アトリエ、民泊、カフェなどをつぎつぎと手がけた。
珈琲は3杯が限度なので続いて「珈琲韻」(カフェイン)を飲む。UFOで少し深めに焙煎したモカを
「キンミヤ」につけこんでつくる。
3杯くらい飲んだら、お互いにいい気持ちになった。「昼飯喰いにいこう」
となり、千鳥足で「きらきら橘通り」を歩く。17年前にふたりで、「この街をこんな風にしよう」
と夢を語りながら歩いた道だ。

お寿司屋を改装して「うどんや」(1000REN・・センレンというお店)を
はじめた店があるらしいのでそこを目指した。製麺機は、廃業したそばやでもらった、らしい。
「ナポリタン ハンバーグ オムライス・・が好き」という大人が多く、寿司屋や蕎麦屋が、苦戦している。
上のみっつは、小さくして並べると、まんま「お子様ランチ」になる。つまりみんな「子供のまんま?」

その店に入ろうとすると、おかまのMくんがチャリンコで通りかかった。「いっしょにうどん食べようか?」
と誘ったら、「さっきほかのお店で食べたわよ。何よふたりとも昼まから酔っ払って・・・」
「ま、いい・・ビールでも飲めや」というと「私が下戸なの知ってるでしょ。」と笑う。
そのまま、無理やりお店に連れていて、Mくんをサンドイッチして、カウンターの端に座って、
うどんとビールを飲む。なかなかいい感じだ。明治通りにある「おでんや」と同じ経営者らしい。
そのおでんやは、中西くんが改装したものだ。Mくんは、マンゴジュースを飲みながらテンションをあげて、
カウンターの中の若い女将に「カラオケないの?」とかバカなこといってる。
マンゴジュースを飲むながら、十八番(おはこ)の恋は赤いバラを歌うと、「デキン」になる。

♪二人でマンボ抱かれてマンボ 燃やしてマンボ今宵こそ 結ばれて二人でマンボ
*ここのオチで必ず、マンボの「ボ」を「コ」に変えて歌うバカがいる。

3人で5000円の勘定を払い、お開きにしようと思ったら、おかまのMくんが、
「もちこみや」という昼間からやっているお店の前で「一度このお店にいってみたいの。どう?」
というので、入る。5人くらいの先客が、昼間から(人のこと言えないけど)飲んでいる。
「自分で調理したおつまみをもちこんでも」「近くのおそうざいや(そのお店の主人の奥方がやっている)からもちこんでも」OK牧場
というシステム。基本は「セルフ」なので、Mくんが、ぼくの財布をもって(笑)、いろいろ注文しにいき、トレイに
「飲物・つまみ・おしぼり」をもって、テーブルにもどってきた。そして、高級クラブのホステスよろしく、床にひざまずいて、
「どうぞ」とおしぼりを広げた。お店のよっぱらいたちが、大笑いする。彼だけが素面・・・大した役者でもある。

しばらくそこで飲んで、近くの珈琲屋でコーヒーを飲んでお開き。
天真庵・うどんや・もちこみや・喫茶店・・・・押上のゴールデン梯子パターン。

ぼくはそれから店に帰って、新型UFOで2度焙煎、その後、いつもの炭火焙煎を3回廻して焙煎。
そして、夕飯は押上駅前の「なおよし」という、居酒屋というより「小料理屋」みたいなお店まで徘徊散歩してUFOを飲む。
ここは、衣被(きぬかつぎ)みたいな、ちょっと気のきいた酒肴や、魚料理がうまくて、ときどきいくお店。
UFOというのは、能登の地酒「遊穂」。UFOで町おこしに成功した羽咋(はくい)の酒蔵。その後は、福井の地酒を燗にしてもらった。
こんなお店が近くにあるのも、うれしい。感謝。

TOGISO・・・口に出して発すると、運がよくなる?

能登の赤崎という漁港に、古民家を改装した宿「TOGISO」
という「宿」がある。検索すると、きれいな海や囲炉裏や、新設
したカフェの写真がある。オーナーの佐藤さんは、山形の出身で、
東京で新しい形態の不動産業みたいなことをやりながら、東京・能登
の「二股暮らし」(デュアルライフ)を楽しんでいる。

「管理人制度」というのがあって、そこの宿泊の人のために、釣り場を案内したり、
時には、いっしょに釣りや「もぐり」をしたり、釣った魚を囲炉裏で焼いたり、酒を
組み交わしながら談論風発したり、「ただの民泊」ではなく、「能登暮らし体験型の宿」だ。

カフェのオープンの日には、「一日店長」をお願いされ、桐の箱でつくった「珈琲器具入れ」
を持参して珈琲を淹れた。カウンターの中でちゃねって、その道具箱が「水出し珈琲の器具」(和っち珈琲)が
誕生した。佐藤さんが東京で仕事をしている時は、江戸川区に住むまどかちゃんが管理人をつとめる。
「能登里山空港」まで飛び、それから「乗合タクシー」で「TOGISO]にいく、という交通手段で
東京と能登の「二股暮らし」をしている。時間があえば、いっしょに「橋本食堂」にいったり、
こないだは、「漁師さんにいっぱい魚をもらった」という電話があり、包丁と能登ワインを持参して、
料理をつくり、ワインを楽しんだ。外浦は夕陽がきれいで極楽浄土を体感する気分。東京ではできない「贅沢な宴(うたげ)」である。

能登で一番栄えているのは、和倉温泉のある七尾地区。そのおかげもあって、まだ鉄道が生きていて、
道すがらの地域(中能登あたり)や終点の穴水までは、古民家を改装してカフェや民泊施設などが、あまたできている。
それとは反対に外浦といわれる志賀町は、交通手段が車しかない。でもその不便さが、とてもいいのだ。
東京と同じ感覚で生きていってもしかたない。便利さよりも、不便であることによる自然の恩恵とか、
できることは自分でする、という人間本来の「生」の喜びみたいなものを享受すること多しなのだ。
「TOGISO」というのは、「富来荘」。志賀町の赤崎やぼくが住む前浜地区は、合併されて「志賀町」になる
前は、「富来(とぎ)」という地名だった。船乗りさんを輩出したり、漁師たちで栄えた街で「富(とみ)が来る」
という縁起のいい地名。土地の人たちも、そんな旧地名に誇りをもっていることを知った佐藤さんが
その名を冠した名前で「TOGISO」をつくった、というわけだ。

その志賀町のキャラクターが「あかりちゃん」。日本一古い木造の灯台がある「福浦」
という港にある灯台がモデル。北前船が寄港したり、渤海(ぼっかい)との交易で栄えたところで、
遊郭の跡なども残っている。なんとなく、亀戸・鳩の街など「花街」の残り香がする「押上地区」
と共通の雰囲気が漂う街だ。前日、そば打ちにきたMちゃんが、自作の「醤油」と「のざわな」を
もってきてくれた。「福浦あたりの古民家を改装して、オフグリッドな『カフェ』をやるってどう?」と投げたら、
「おもしろそう」といって、笑っていた。
映画「リトルマエストラ」の舞台になった素敵な港。

朝まずめにタコを釣る 朝ごはんの跡はUFOで焙煎 タコが釣れた日は メニューに「あこがれのタコガレあり」
が加わる。海が見える3席のみのカウンター。少し都会で疲れた人たちが、一息つきにくるお店・・
夕陽が沈むころがかんばん。そこからは沈む夕陽を見ながら、能登ワインを飲む・・・・そんな暮らし。

風の時代・・・・自分「らしさ」を、それぞれがやっていく時代がきているかもなんばん。感謝。

蕎麦屋の二階・・ていつも「時代の始まり」

12月になるとテレビで「忠臣蔵」などをやる。
「時は元禄15年12月14日 江戸の夜風を震わせて、鳴るは山鹿流の陣太鼓!」
討ち入りの計画をたてるのが、蕎麦屋の二階。
チェーン店やコンビニのない時代、歴史を揺るがすような密談とか、
男女の逢瀬(これも、場合によっては歴史を変える)など、蕎麦屋の
二階で酒を飲みながら・・・というのが一般的だった。

天真庵の改装をしてくれたのは、中西くんを中心とした芸大を卒業してすぐの
若者たちだった。彼は芸大の建築。16年たったので、中西君も50の坂を超え、手伝いの人
たちも「人生の中仕切り」を迎えている。

昨日はそんな繊細でちょっと世間ずれしている芸大出の学生の中にあって紅一点の
女子だったMちゃん。まだ五十路の手前で、バリバリ内装や改装をしている。
近くの元・蕎麦屋を改装した縁で、そこの二階、つまり「蕎麦屋の二階」に住んでいる。
長野出身ということもあって、無類の蕎麦好きで、ときどき蕎麦を手繰りに天真庵にくる。

「50までに、そば打ちをやってみたかった」ということで、昨日念願かなって「そばもん」
の仲間になった。「水回し」をやっているフンイキで、「これはただもんじゃないな」といオーラが漂っている。
ヨネクラボクシングジムの故・米倉会長が「新人がジムにくる日。靴の脱ぎ方、着替え、縄跳び・・の雰囲気で
チャンピオンになれるとか、だいたいわかる」といっておられた。まさにそんな感じかな?

長野の小学校時代に、先生が「毎日食べてもあきないのは、カレーですか蕎麦ですか?」と質問したらしい。
彼女だけ「そば」と答え、残りの生徒は「カレー」に手をあげたという。
今どきの話ではあるけど、「そば」に手をあげた彼女に拍手したい(笑)

とても寒い日になったけど、令和版の蕎麦屋の二階から「新しい歴史の一ページが始まる」みたいなものを感じた日曜日。感謝。

年越しそばを自分で打つ・・令和の常識!

毎年、そんなイベントをやっている。
10年くらい前、12月30日に、4人グループの新人が年越しそばを打ちにきた。
とっても寒い日で、外は雪が降っていた。
ひとりづつそばを打つ。残りの3人は、土間に立ったまま、見ている。
最初は楽しそうにしていたけど、だんだん口数も減り、笑い声もすくなくなり、笑顔が
消えた。新人の「そばもん」は、だいたい2時間くらいかかるので、4人で8時間。
終わった時は、次の日だった。31日だったら、年をまたいで「年越したそば」になるところだった。

そんなこともあって、12月31日は「一時間でそばが打てる」と認定した人に限っている。
29日30日は、「もうすこしかかる人」が占める。
どちらにしても、自分で打つそばは美味い。
年越しそばを田舎に持って帰る人も多く、お土産かわりに「ほぼぶらじる」の人も多く、
「年越し珈琲」の需要も多い。でも、今年はそんなお客さんたちも「UFO焙煎器」
を使いはじめたりしているので、今年は「生豆」がオミヤの定番になるかもなんばん。

昨日の「そば打ち教室」に、3年目の女子がきた。
毎年29日か30日にきていたばってん、「今年は31日に打ちたい」とのこと。
少し肌寒い日だったけど、額に汗かきながら、水回し、菊練り、ネコ手などを駆使して、
さて、包丁で切り、の時に一時間経過した。「だめですか?」というので、
「切るのを3分でやれれば、一時間3分。なんとかなるでしょ」ということで、31日の午後に
くることになった。今日の「そば打ち教室」には、新人女子がくる。「今年の年越しそばを自分で打ちたい」
と元気に宣言していた。元蕎麦屋の建築をリノベして住んでいる長野県出身。

今日は東京は昼間も10度いかないみたい。
そばって、不思議で今朝のそばは加水がよく、そば粉の半分の量の水が足りなかった。
珈琲の焙煎も、そば打ちも、天気とか温度とか湿度とかで、微妙に変わってくる。
そんな「奥の深さ」を旅するように探求していくと、人生も旅してるような気分になるから不思議だ。
なんでも「インスタント」な時代だけど、回り道してみると、以外な出会いや気づきがあるものだ。

人のいく裏に道あり花の山

今日も12時から16時まで営業。
それから「UFO焙煎塾」「そば打ち教室」

明日は月曜日。
月曜日の朝は、珪藻土の竈でごはんを炊く日。8時から10時に「玉子かけごはん」
をやっている。竈で炊くごはんを食べる時、「日本人に生まれてよかった」と思う。感謝。

政治家のパーティーで飲む水割りいっぱい2万円。

ジャズの「大石学トリオ」で、ドラムをやっていたセシル・モンロー
が、隣の隣に住んでいた。過去形なのは、10年ちょっと前の夏に、千葉の海で
亡くなった。なくなる一週間前に「墨田ジャズフェス」があり、その休憩時間に
天真庵のカウンターに、大石さんとセシルが座って、「クロキリのロック」を二杯づつ飲んだ。
そして本番にもどる時、セシルが「ここ、押上はブルックリンみたいにきっとなるね。大石学をよろしくね」
と言って笑った。それが最後だった。あとから考えると、予言めいて、遺言みたいなひとことやった。

先月の月末3日前、少しアーティスティックな青年がカウンターに座った。
20年くらいブルックリンで「革細工」の仕事をしていたらしい。亀戸に住む母親が年老いたこともあり、日本に
もどってきて、この界隈でアトリエを探している、という話だった。
「押上もブルックリンみたいになってきましたね」とセシルみたいなことをいった。

ニューヨークのソーホーで、南條さんの「寒山拾得」の個展を2000年にやった。その縁で、しばらく毎年の
ようにニューヨークにいった。「日米陶芸コンテスト」のお手伝いをするようになり、久保さんの作品を
向こうのギャラリーで展示するようなことも何度かやった。そのころのソーホーは、貧乏なアーティストたちが、住まい兼アトリエを
DIYでつくり、作品を展示するような機運がまだ残っていて活気があったけど、その地域の家賃が高騰するようになり、少し大きな資本で
ギャラリーとかレストラン、カフェなどができるようになり、若い貧乏なアーティストたちには住めなくなって、家賃の安い
ブルックリンに移り住むようなトレンドだった。日本の「谷根千」というわれる地区もそんな傾向にあるし、清住白河
界隈も、アメリカのなんやらいうカフェができたりして、「カフェの聖地」なんて呼ばれるようになった
けど、どんどん家賃が上がっていて、両国とか、その果てに「押上」に多くのお店ができるようになってきた。

そんな意味では、押上は「ブルックリン」?

話は変わって、最近政治家の資金集めのパーティーが問題になっている。ぼくも若いころ、ITの業界団体の理事長、という
危うげな看板を10年背負っていて、よく「政治家のパーティー」にいった。四半世紀も前の話だけど、
そのころも会費は2万円だった。せこい話だけど、300人集まる場(だいたいが港区のホテル)に、立食の「すし」とか「そば」とか、オードブルが並んでいたけど、100人ぶんあればいいとこだ。入口にビール、水割り、ソフトドリンクが用意されていて、
ぼくはいつも「水割り」を頼んだ。お歴々が、美辞麗句を並べ、天下国家の話をする。それに引き換えの「おもてなしの原価」
というか、料理はわびしすぎた。だいたい一般的に、年をとると、体力も食欲も減退するもんだが、
演説が終わったあと、「すし」のブースで年寄の「財界」や「政界」の人たちは、普段から「人を喰ってる」
ような妖怪みたいな連中なので、動物園?みたなパーティー景色を2万円入場券で楽しませてもらった。
コロナの後、今は食べ物のブースもださず、「鳥の唐揚げ」だけが相場で「2万円で原価1000円」
と新聞にかいてあった。もっと進化している(笑)

なにがいいたいか・・「やらずぼったくり」というか、「濡れてに粟」みたいな錬金で金を集め、使う金は領収書(ときには、空の領収書)
みたいな毎日をおくっている連中に、今の国民が、衣食住にどれほど苦しんでいるということなど、わかるはずがない。

ここ押上も、家賃が高騰している。原価が1000円で2万円になるような商才?
がないと、生き延びていけないかもなんばん。でもその前に、こんな貧相な政治家しかいない国が存続するのかね~?

昨日、そのブルックリンの青年がきて、「押上にきまりました」とのこと。
不思議な縁だけど、香取神社の裏で宝石をやっていたマー君が、那須に引っ越し準備中で、
その「あとがま」に、ブルックリンくん(また勝手にあだ名をつけようとしている)にきまったみたい。
ちょっと、おせっかいな手伝いをしたら、そんなことになった。ブルックルリンと押上に共通の地縛霊がいたのか、無駄のない縁
で、また新しいドラマが始まるかもなんばん。

今日明日は12時から16時まで営業。それから「UFO焙煎塾」&「そば打ち教室」

「骨なし灯篭」に泣さかれたバイ!

昨日、渋谷のユーロライブで「骨なし灯篭」の試写会を観た。
熊本の山鹿では、毎年お盆に「灯篭祭り」といって、女性が1000人で
頭に灯篭をのせて踊る幻想的なお祭りがある。
オーバーツーリズム現象みたいなもので、博多の山笠やどんたく、小倉祇園祭りは
「こげんこんでもよかとに・・」くらい人がくる。旅行も、博多より、山鹿とか、長崎なら五島列島のほうが10倍楽しいヨ!!

熊本も敬老の日にある「ぼした祭り」(藤崎宮秋の大祭)は、熊本市内の中心部で
やるし、牛も登場するにぎやかな祭りなので人が集まる。
ばってん、一回山鹿にいってみんしゃい。人生感がかわるばい。
移住を考えている人も、糸島とか阿蘇とか、「誰でも考えるとこ」は避けて、
自分らしいとこを見つけたほうがいい。「風の時代」ばい。「自分らしく」「なんかウキウキする」を中心にせなあかんばい。

この映画の脚本・監督は「木庭撫子(こばなでしこ)」、プロデューサーがたみちゃんこと「木庭民夫(こばたみお)」。
おふたりは、天真庵が押上にくる前からのつきあい。天真庵のそばもよく食べてくれた。
ぼくらは、20年くらい前「福島」に移住しようと、何度も現地に足を運んだ。
彼らも、一度同行したことがある。でも「風の時代」になって、
ぼくたちは、能登に移住をきめ、木庭さんたちは、2年前にたみちゃんの実家を
改装して、山鹿に移住した。
映画にも登場する「板家」という古色蒼然とした家が、彼らの実家。
移住前に、たみちゃんは「そこでそばやをやる」といって、ぼくの特訓を受けたけど、
約束不履行で、映画ができた(笑)。しかもそばよりも、うまい。

オランダとかロスの映画祭で、賞をもらったみたい。手弁当でやっているので、
「ジャニーズ系」や「有名どころ」の役者はおらんばってん、方言訓練の必要でない
「くまもん俳優」がいい味をだしている。これからの「映画の原点」がそこにある。
地元の小学生たちが、エキストラで「朝のあいさつ」をする場面が、感動的ちゃ。
そこの小学校の標語が「はや寝 あいさつ あさごはん」・・・すばらしかろ!
余談だけど、能登の珠洲にみさと小学校があり、そこの標語が「はやね はやおき 朝ごはん」
今の文科省や家庭がわすれている「躾の原点」もそこにある。「しつけ」、しつけはし続ける、ことによって、身が美しくなる。
くもんよりくまもん。そして「はやね はやおき あいさつ あさごはん」ばい。大人になったら「クリックよりスナック」バイ。

今日は大阪梅田の「ブリーゼプラザ」で18時開場 18時半上映で試写会がある。
26日にもう一度、東京渋谷の「ユーロライブ」で9時半開場 10時上映の試写会がある。

お問い合わせは、「熊本やまが映画プロジェクト 電話0968ー41-5566 tamiokoba0802@gmail.com

深煎りの珈琲に、チェットベーカがよく似合う?

「楽ちんUFO」で、今日も250gづつ、いろんな豆を焙煎。

まだ扱いになれていない(音や煙の色、でかた・・など)ので、微妙に
深くなったりして、おもしろい。新鮮に失敗も喜んでいる。

夕方、モカを焙煎したら、陽がくれたこともあって、少し深い煎りになった。
さながら表参道にあった「大坊珈琲」を彷彿させる。

まだ京都にいたころ、開店したばかりの大坊珈琲を訪ねたことがある。
東京に住むようになって、あの店のカウンターに座ると「あ、東京にいる」と思った。
「織田流煎茶道」の稽古場の近くでもあって、よくお茶の後輩たちも連れていった。
彼の珈琲は、茶道に通じるものがあった。もうお店は閉じられたけど、今だにこの業界の
レジェンド。お店を閉じる一年くらい前、大坊さんが天真庵に珈琲を飲みにきてくれたことがある。
第一声が「骨董屋さんみたいなカフェですね」。
お店の常連さちが「あ・・・大坊さん・・・がなぜ天真庵に・・」みたいな顔をしていた(笑)

そんなことを思い出しながら、少し深煎りのモカを飲みながら、チェットベーカを聴いていたら、
珈琲のお弟子様が、採れたて野菜をもってきてくれた。3年くらい前から、千葉に畑を借りて、
「百姓修行」をやっておられる。

頭の中は、四六時中、「楽ちんUFO」のことばかり考えていて、「ありがとう」いって、お返しに
「そばかす」(蕎麦切りした時にでるもので、素揚げしてビールのつまみや、ガレットの材料になるもの)
をあげた、だけ。
「楽ちんUFO」を見せてあげられなかったけど・・・ま、近くでカフェ「リッタ」をやっておられるので、また次回・・

まだ試作段階みたいなもんやけど、「楽ちんUFO」は、すごい!
もう少し若かったら、これもって、ブルックリンかそのあたりで、勝負したるけどな~!?
天真庵のカウンターに、置いてあるので、ぜひ見てやってください。
これを使って、「隕石カップ」や「隕石ドリッパー」で珈琲を淹れたら
「銀座の隕石カフェ」に負けないレベルの「カフェ」ができるかもなんばん。
天真庵のHPの「うめ星」の部屋に、銀座の隕石カフェを訪ねた「有名人」のコメントを紹介している。
暇なとき、覗いてみてやって(笑)感謝!

♪ラララ・・バラの花束車に積んで・・・

昨日の夕方、新しい「楽ちんUFO」(仮称)で、250gのモカを焙煎した。
UFO焙煎機は、焙烙型で、60gの生豆を入れて焙煎する。
50gくらいの珈琲豆(水分が蒸発するので)ができあがるので、二人分(25グラム)
が焙煎できる。「楽ちんUFO」は4倍以上の豆を、楽ちんに焙煎できる。

「楽ちんUFO」は、いわゆる「手廻し焙煎機」の鉄のドラムのところを、能登の珪藻土で
久保さんの陶芸用の穴窯で焼成してつくってもらった。
昨日のお昼は、近所のスパイスカフェのおかあさんがきて、「おいしいパンみたい」といって、笑いながら回していた。
能登の珪藻土七輪は、「わかるひとにはわかる」「めあき千人めくら千人」の「めあき」
の人たちに、優美に伝わっている。まるで、珪藻土の輻射熱(ふくしゃねつ)と同じように、「じわじわ」と。

SNSなんかで、バズったりして、市場を席捲するようなものが世の中にあふれているけど、本来の「くちこみ」
で、「このひとが使っているから」とかいう感じで、ゆっくりと
広がればいいな~、と思う。故人であっても、そんな「このひと」を持っている人は、孤独にならない。

「UFO焙煎器」は、おかげさんで、いろいろなところへ嫁ぎ、「今年のヒット商品」(といっても、日経とかの雑誌ではなく、
天真庵広報のかわら版で)だったけど、「楽ちん」は、「これから自家焙煎をしたい」と思っている「こーひーや」
さんとか「カフェ」に使ってほしい。宣伝や営業はかけないばってん。

昨日、N響のYさんが玉子かけごはんにこられた。
ちょうど、新しい「楽ちんUFO」で焼きあがったモカを飲んでもらった。
「ブラボー」(本来こちらが彼らの演奏を聴いて発するもの・笑)みたいな顔を
されたので、調子にのって「焙煎機のストラディバリウスになれるといいな」
といったら、大笑いされた。

仕事が終わりモカを少し濃いめに淹れて、チェットベーカを聴きながら飲んだ。
キクジーに20年くらい前にもらったCDだ。
「天真庵」で検索すると、「BCN・+R・・なんじゃら」とかいう、キクジーが主催の雑誌のインタビュー
記事がでてくる。彼と握手してる写真のところに書いてあるけど、天真庵開店の時、ジーからバラの花束が届いた。
今はなき「ヨネクラボクシングジム」の米倉会長からも、存命中は「筆子さんの誕生日」に、バラが届いた。
いろんなポイント制とやらで、浮足だっている昨今とは、一味も二味も違う温かみのある「おくりもの」があった。

今は「Each Day is a Gift」な気分。そんな至福な時間の片隅に「一杯の珈琲」
があってほしい。そのためには、この星が平和という言葉がいらいくらい平和でなくてはならない。感謝。

玉子かけごはん いっぱい 550円

月曜の朝は玉子かけごはん。みなさんの朝ごはんは、なに食べました?
能登の珪藻土竈でごはんを炊き、手前味噌で具だくさんの味噌汁をつくり、
「平飼いの玉子」と、自家製の香の物、ふりかけは、そばの汁を作った時の鰹節を粉砕
してだして、550円。100円追加すると、UFO珈琲を、隕石入りデミタスカップでだす。
でも、仕送りを受けている大学生の一日の予算が660円。10円しかあまらないの?

能登へいく時、新潟の「新井」というパーキングにいく。
そこは、そとの「道の駅」まで歩いていけるシカケ(そんなパーキングがいくつかある)
になっている。「ひだなん」(ずっと、ひなだん、だと勘違いしていた)という「直売所」があって、
山菜とかキノコなどが販売されていたり、そば粉や米、おもちなども売られている。
朝8時すぎに商品がそろう(冬は雪がすごくて、天気しだい)ので、時間があったら、
並びの「すき家」で朝食をとる。

ぼくは「焼き魚 玉子かけごはんセット」みたいなものをいつも注文する。
ごはん、みそ汁、サバ(か、鮭)の焼いたもの、玉子、漬物で480円。
さすが、吉野家を凌駕している。メニュー構成と安い値段にびっくり。
町の「食堂」とか「純喫茶」のモーニングが、消えていくのがわかるような気がする。
すき家と吉野家をあわせると、年商約900億円。
この物価高の中、エンゲル係数を下げるのに一躍かっているに違いない。

天真庵の近くに大学と専門学校ができた。じいちゃん、ばあちゃんしかいないような街に
若者が闊歩するようになった。
新聞に書いてあったけど、仕送りをうけている学生の一日に使えるお金が「660円」だそうな。
「きみのことすっきゃねん・・」とかいって、朝のデートをすき家で食べて、ふたりぶん払ったら、
家計は赤字に転落する。ほんとうに、日本という国が「後進国」になりさがっているのだなあ~と
つくづく思う。

半世紀くらい前だけど、ぼくが京都で学生だったころ。仕送りの平均が5万円だった。
ほとんどの学生が「風呂なし」の三畳か四畳半の一間で暮らし、銭湯にかよっていた。
岩倉とか、洛北に部屋を借りた人たちは、比叡山鉄道にのって、銭湯に通っていた。
イノダやからふねやの珈琲が、いっぱい280円。天下一品のラーメンが400円くらい。
会計の時、レジで「学生です」といえば、50円くらい負けてくれた。
ぼくは天下一品の本店から100mくらい上った「からふねや北白川店」の店長をやっていて、
天一の社長(そのころは彼が白川の本店にいた)たちに、顔を知られていたので、一度も
「学生です」とはいえへんかった(笑)

からふねやのアルバイトは、たしか自給300円くらい。まかないに、珈琲はタダで飲めたけど、
一時間働くと、イノダでもからふねやでも、珈琲が飲めた計算になる。
最低賃金が1000円の今は、銀座や青山や、ニューウェーブなお店以外だったら、1000円で
おつりがくる。うちは、「ほぼぶらじる」がいっぱい500円なので、おつりで「すき家」の
朝亭が食べれる計算。

でも、各地で戦争モードになり、異常気象(毎年なので、異常が通常になりつつある)のせいで、
食べ物の値段が高騰して、エンゲル係数が逼迫している感が強くなってきた。
冷静に考えたら、「大変な時代」をみんな生きているね!

今朝は、能登の家の柿を「干し柿」にして、お客さんにさしあげている。
100個ほどつくった。ほんとうは、300個でも500個でもできる。
田舎のほうは、高齢者ばかりが増え、柿の木、栗など、たわわになっている成果物を
収穫できないままのものだらけ。
どの世界も、それを「なりわい」レベルにしようと思ったら、それなりに大変だけど、
来年あたりは、もっともっと「エンゲル係数」が、逼迫するだろうから、
そろそろ「そのあたりのこと」を、それぞれ頭にいれておく時代がきたように思う。

大企業のサラリーマンの街だけど、「ほんとうに、東京に住む意味あるのかしらん?」感謝。