「茶」が世界に優美に広がっていく!

お坊さんが、筆を使って丸く揮毫する。「円相」という。雑念想念をなくすときれいな〇になる、という?
江戸時代に仙厓和尚という奇僧が博多にいた。「海賊と呼ばれた男」
のモデル・出光佐三(出光石油創業者)が、仙厓の書を蒐集し、出光美術館をつくった。
その中に、円相の横に、「これ喰って茶飲め」という絵がある。
〇を饅頭にみたて、坊さんや茶人とくったっくして、形骸化した「茶の湯」を風刺したものだ。

座っているカエルが「座って仏になれるなら・・・」というのもある。座禅や読経にあけくれ
「形」にとらわれすぎる禅林を皮肉ったものだ。なにごとも「原理原則」にとらわれると窮屈だ。
皇居の近くの見晴らしのいいところに「出光美術館」がある。スカイツリーにくるよりもよっぽど
面白い。佐三翁が生前に「日本人にかえれ」などという本を著した。「日本人にかえれる場所」の美術館。

先日、近所の長屋の二階に住むフランス人から「煎茶を教えてほしい」とのお呼びがあった。
彼女はもうすぐ帰国する。その前に煎茶を習いたいとのこと。
煎茶の世界も、「点前」にとらわれすぎる傾向は変わらず、5年ほど前に教室の緞帳を下げ、
茶道具もすべて、処分したので、「無手勝手流でよければ」ということで、長屋の二階でお茶を喫することになった。
「茶葉はあるの?」と聞くと、「静岡の新茶をゲットしました」と返事があり「それだけでOK牧場」と返した。
お国の「エヴィアン?」(硬水)では、煎茶がまずくなるので、「能登の藤瀬霊水」をペットボトルにいれて持参した。

長屋の二階は、「茶室」にうってつけだ。昔の家には、「床の間」があるし、なければ箪笥でも置いて、その上の空間に
気に入った「絵」でも飾ればいい。「掛け花」などあればいいけど、なければ、「蹲」か・・・
なんにもなければ徳利か牛乳瓶に季節の花を投げ入れれば、そこは立派な「茶室」だ。

お邪魔すると、狭いながらもきれいに掃除され、ちゃぶ台と横に二人掛けのソファ。壁には、風景画の額。
ちゃぶ台の上には、お国のティファールの黒い湯沸かし器と赤い漆の茶櫃。茶櫃の中には、染付の煎茶椀2個。木の茶托2個。
常滑の急須。カバ細工の茶入れに、静岡の新茶が入ってある。現代の日本の家には、絶滅の憂き目になったようなモノが
揃っている。
「袱紗と扇子はもってきたけばってん、あなたが自分流でお茶をいれちゃってんない」と、九州なまりの片言英語で
いうと、さっそくティファールの湯沸かしで能登の霊水をわかし、急須や茶わんにいれ、茶巾で拭いた後、新茶を急須にいれ、
染付の茶わんに茶を注ぎ、茶托の上において、「どうぞ」とお辞儀してニッコリしてくれた。
お茶請けは、到来もののスコーン(友達からもらったらしい)。懐紙をだして、ひろげ、そのスコーンを
のせる。それを小さなソファーにふたり並んで喫した。不思議な煎茶の日仏版「けいことまなぶ」か?

彼女は禅にも興味があって、鈴木大拙や仙厓和尚も大好きだという。
彼女は日本語がまったくしゃべれず、こちらもフランス語もフランスワインの名前も、いまだに彼女の名前も憶えていない。
でもお茶や、禅の世界になると、言葉を超越して、わかりあえる。中国から渡来したお茶。もう一度、アジアといわず、アメリカ、
ヨーロッパの人と、胸襟を開いて「喫茶去」を興じる和が広がれば、「平和」という言葉もいらないくらい平和な星にもどれるのでは
ないかしらん。

「今日の授業料」といって、静岡の新茶を一袋いただいた。お返しに「懐紙」一束と久保さんの新作の志野皿を一皿。
「sino!」といって喜んでくれた。太宰なら「いっしょに死の~」といいそうな場面だ。
「国にかえったら、ギャレットでもつくって、この志野皿にのせて、茶を飲め」と日本語でいった。
ギャレットに反応して、「ありがとう」と満面の笑顔でお辞儀した。 フランスの北西にあるブルターニュ地方が発祥のガレット。
あちらでは「ギャレット」というのだと、昔フランスから帰国したピアノの赤松林太郎くんが教えてくれていた。
奇妙キテレツな煎茶の会だったけど、林太郎くんがよく弾いてくれたスカルラッティーよろしく、すがすがしい気分で十間橋通りを歩いてかえった。

今日は、すみだトリフォニーホールで、友達の愛理朱(アイリス)さんが、コンサートをやる。
林太郎君が12年くらい前にやった小ホール。彼女の声は、銀河の果てまで届きそうな
不思議な波動に満ちている。感謝。

クリックよりスナック…姉ちゃんよりネー・・・

毎朝、PCを立ち上げると、ジャンクメールがいっぱいきている。
「迷惑メール」のところに入れて、「二度とくるな」と言いながら、消去するのが朝いちばんの仕事だ。
ときどき、飲み過ぎて目覚めの悪い日には、大事なメールまでクリックする時がある。
「クリックよりスナック」だけど、飲みすぎは注意だ。

先月のある日。いつものように、そんなジャンクメールをじゃんじゃん消していたら、「?」
という気になるのがひとつあった。「迷惑メール」に捨てたメールをもう一度もどした。
「昭和の時代にお世話になりましたSです。35年以上ご無沙汰していますが、覚えていましたら、お会いしたい」
というようなメールだった。すぐに「OK牧場」と返事をだして、昨日35年ぶりに再会した。

昭和56年にソフトバンクに入り、翌年に早期退職して、秋葉原に「エービックジャパン」という会社をつくった。
郷ひろみが♪エキゾチックジャパン・・・とか歌ってい時代。「負けてたまらじ」と、ぼくの名前を、エー(ーをイチとみたて)、
つまり「栄一は日本一になるぜ~」よろしく若気の至りそのまんまな社名。社是は「クリックよりスナック」(笑)
そんな時に、知り合いを介して青山の飲み屋でSにあった。当時Sは青山学院の学生だった。彼曰く「ぼくをアルバイトとして、拾い上げ、大学と大学院までバイト代でださせてもらった」と、事あるごとに口癖のように言う青年だった。昨日もそんなことを二度いった。
とんでもない誤解だ。彼がつくってくれたパソコン学習ソフト「パソコンらくらくレッスン」(当時は定価30000円)
が、日経パソコンの学習ソフトのランキングで3年くらい、ぶっちぎりの一位で、ぼくは浮かれて、夜な夜なカラオケで「ゴゴゴー」
と郷ひろみも物まねをして♪エーイチビックジャパンと唸っていた。

つまり、いきなり大ヒットのソフトをつくってくれたのがSだ。
お世話になったのは、こっちのほうだ。
大学院を卒業した後も、超電導とかナノ世界や、X線などの高度な研究を続け、千葉大や東大でも教えていたらしい。昨日ひさしぶりにお店にきてくれて、名刺を交換した。「のむらさんがITで上場したんじゃないかと思っていました」と真顔でいう。
「見たとおり、しょぼい喫茶店の店主よ」と返した。「ぼくもしがない研究者です」と謙遜する彼の名刺には、ぼう国立大学の
教授で、博士と記載されている。奇才で天才のS、唯一無二の「らしい」道を邁進しているようだ。

社是を大事にして、スナックで、かわいらしい姉ちゃんたちといっしょに飲んだS。
ぼくはまだその道を卒業してないけど、彼は姉ちゃんを卒業して、ネーチャーに論文を書いたりする立派な研究者になった。
なんだかうれしくなって、昨日は近くのスナックで一杯やった。さすがに、もう「ゴゴゴー」の年ではないばってん、
まだまだ「未見の我」が待っているような気がしてきた。いくつになっても、GOGOGOだ!

今日は16時まで営業。
近所に住むフランス人のお姉ちゃん(名前を失念)に「煎茶を教えてほしい」といわれ、今日の夕方は、
近くの長屋で、煎茶を教えることになった。感謝。

明日の朝(8-10)は「卵かけごはん」

クリックよりスナック!

今朝の新聞の一面は、昨年生まれた赤ちゃんがわずか77万人だった、という記事と、
2024年問題の「来年はトラックの運転手が足りなくなり、流通に支障がおきる」
という記事。

政府も異次元の少子化対策といって、お金のばらまきを決めた。でも一向に、子供
が増える気配はない。もう少し、おつむをつかって国民に将来の夢の青写真を見せて
いかないと、このままだと、おつむもおむつも、出番が少なくなりそうだ。
それと日本人ひとりひとりが意識を向上させないとね。
根っこに「右肩上がりの経済」とかいう妄想が消えていないのも問題だと思う。
まっとうに考えれば、お金より大事なもや宝物がいっぱいまわりにある。気づかないだけ。

毎月、10日あたりに高速を使って能登を往復する。東名高速ほどではないけど、
びっくりするほどトラックの数が多い。パーキングにいくと、普通車のところを二つ三つ使って、
トラックが駐車していたり、それでも足りなくて、それ以外の道に駐車してたりする。
帰りは、東京近くのパーキングは、12時まで待機のトラックであふれている。
日付がまたがると、深夜割引で高速代が3割安くなるからだ。
民主党が政権をとった時に「高速道路の無償」をマニュフェストに掲げたけど、そろそろ本気で
そんな提案がでてもいいかもなんばん。
そうすれば、二か所暮らしや、多か所暮らしが、ぐっと現実的になり、大都市中心で地方都市が過疎になったり、
、日本中が過疎になるリスクもなくなる。同時に空き家問題も軽減すると思う。

そもそもトラックが多くなった一番の原因は、みんなが家でクリックして、アマゾンとかで買い物を
するようになったから。コロナが流行してますます加速した。楽天が、送料無料のサービス(といっても、送料は出展者負担)
をだし、競争相手もそれに準じて、ますますネット通販が日常になった。
トラックが左右にふらふらしながら走行するのも日常になった。「何時までに配達」とか、時間に追われれ
疲れて居眠り運転に加え、運転しながらスマホ操作で右左佐生しているのも多い。高速での事故もそれが原因で増えているようか気もする。

なんでもクリックひとつで、本やモノや、食べ物が家に届くような時代になった。
そして、ひとり暮らしの若者も、家の中で届いたポテトチップをボリボリ食べながら、酒を
飲み、エロサイトを見ながらマス。それでは、子供が増えないわね。
やはり、クリックよりスナックだ。かわいいお姉ちゃんとバカいいながら、楽しもう。

今年は梅茶翁の梅林の梅がならなかった。普段は200キロくらい収穫できるのが、先月みたら、全体で10粒
くらいしか実がならなかった。よって今年の梅林ガールズたちの「梅仕事」が急遽、「畑仕事」や「タコ釣り」に変更。
ちゃんと春先に白い花は咲いた。それを受粉してくれる蜂が減ったのが原因みたい。
野菜や果物も、「みばえ」とか効率を優先させるにまかせ、日本は世界一の農薬とか化学肥料を使うようになっている。
生態系が壊れるのは、自明の理。「あ、きれい」「かわいいー」とかいって、ボリボリしている間に、この星が悲鳴をあげて
いるのだ。

今年は、ワカメなどの海藻もピンチ。海苔が絶滅危惧種になりそうだ。雑魚さへも庶民の暮らしには高嶺の花になりつつある。
能登には古式の「揚げ浜式製塩」が残っている。でもこれも後継者が少ない。
2024年問題は、トラック業界だけではない。見渡せば、どこの業界も、毎日食卓にあがる食べ物や調味料の
世界もみんな「人が足りない」のだ。加えて日本人の「足るを知る」の精神がなくなっている。

昔から、禅林や絵描きが「寒山拾得」の絵を描いた。
ボロをまとい、粗食に暮らすふたりの清貧の生き方を理想にしてきたのだ。
そんな絵を見ながら、日本人は「足るを知る」を学んで生きてきた。ちょっとだけ、
時計を逆回りする必要があるかもなんばん。感謝。

今日は16時まで。それから「UFO焙煎塾」「そば打ち道場」

銀座 赤坂 新橋  ゴールデン梯子

昨日は、「UFO焙煎塾」。
珪藻土焙煎機「UFO」を使って、手取り足取りで、シングルオリジンの珈琲豆を焙煎し、
ネルドリップで落とし、飲み比べる。新茶の玉露も飲む。まかないの昼食は、「タコ飯」と「ガレット」
昨日は、モカマタリとモカイルガチェフ。珈琲ルンバにもあるマタリ。ソ連のゴルバチョフと
間違えそうなイルガチェフ。デカマラと同義語みたいなガテマラ。
珈琲というのは、ヤクザな男にどこか似ている。知力と色気を兼ね供えている?

途中、陶芸家の久保さんから新作の器が届く。銀座の「隕石屋カフェ」から注文された「隕石粉入りの器」
がどさっと届いた。店主の「王子」に、ハガキを書いた。「(略)・・・オマケの黄瀬戸の皿は、能登の珪藻土を混ぜて
つくった新作です。感謝。」で〆て、コンポ。
ニャンニャンとなくクロネコさんが、「まいど」といって、もっていってくれた。そこに、入れ忘れの「黄瀬戸の皿」
がポツンと残った。ハガキを書いて、荷物に入れる時に、入れ忘れたらしい。5分前のことは、まだなんとか覚えているけど、
やはり「認知の気配」のする年ごろになった。

夕方に赤坂のTBSの近くの中華で、中学校時代の「プチ同窓会」が予定されていたので、銀座にそのお皿を届け、
700円の「アメリカーナ」(なぜだか、ここの珈琲は、ぼくが焙煎した豆)を飲み、赤坂にいく。
「隕石屋カフェ」の正式名称は「Star Comes Coffee Powered by BigBang 隕石直売所 銀座本店」
少し時間があったので、山王日枝神社にお詣りして、会場の赤坂離宮へ。
前回はコロナ前なので、3年ぶりだ。当たり前だけど、みんな3年歳をくって、今年67歳組。
後期はつかないけど、みな立派な高齢者。しかもみな現役で、会社をやっていたり、大きな会社の役員だったり、
国会議員さんもいる。でも半世紀以上も、「ノンチン(ぼくの渾名)、マッチャン、マッタイ、スエクン・・」
と呼び合う。酒がすすむと、普段は「先生」と呼ばれている国会議員のスエクンに対して「おまえは・・」
などとため口で、口論をしたり・・・・無礼講というより、ヤクザの飲み会。
昨日は、ぼくら仲間ででマドンナだったSさんも特別参加で、紅一点、泥沼に咲く蓮みたいに華やいで盛り上がった。
「6月17日・・・TBSの番組にでるっちゃけど・・」
みたいな話をしたけど、みんな馬耳東風(笑)で自分の近況やら昔の恋の話やら・・その後、新橋の居酒屋で2時まで飲んだ。「歳を考えろ」とお酒の神様の声がした。
また逢う日のありやなしやの歳になって飲む竹馬の友たちとの酒は、本当に美味い。

京都から東京にでてきてソフトバンクに在籍したのが、昭和56年。翌年57年に赤坂のホテルニュージャパンの火災があり、多くの人が亡くなった。
傍若無人なホテルの社長・横井英樹というのが、よくテレビにでていた。その横井を殺そうとした男がいる。
安藤組組長・安藤昇。結局、この事件で逮捕され、組は解散になった。その後は、ヤクザ映画などにでたりしていた。
晩年の石原慎太郎が「あるヤクザの生涯」という本で安藤を書いた。
安藤が好きな言葉として、本の帯に紹介された文がいい。安藤が石原に語ったものだ。

あんた「雪後の松」という詩を知っているかい。昔、ある坊主から教わったんだ。「雪後に始めて知る松柏の操、事難くしてまさに
見る丈夫の心」とな。男というのは普段の見せかけがどうだろうと、いざと言う時に真価がわかるものだ。松の木は花も咲かず
暑い真夏には枝を折るほどの雪が積もっても、それに耐え、青い葉を保っている。それが本物の男の姿だというのだ。
俺はこの詩が好きなんだ。

異世界蒲田

今朝の天声人語は「週刊朝日」の休刊。
100年の歴史に緞帳を下げることとあいなった、らしい。時代を感じる。
散髪屋でくらいしか週刊誌にふれることはないけど、どの雑誌も
「のぞき見」みたいに、皇室から芸能人、政治家のスキャンダラスな記事や、
エログロな記事で「売り上げをのばそう」としているものばかり。そんな中にあって、高校野球よろしく、
丸坊主で、時代のテーマソングにあわせて、整列しながら行進するような清さがあって、ぼくは
好きな雑誌だった。でも、ネット社会になって、だれはばかることなく、隠しどころのない赤裸々な人間模様
を、いつでもどこでも覗き見できるような時代には、無用なものになったのかもなんばん。

新聞の中のページに写真入りで、今話題のマンガが紹介されていた。
「異世界蒲田」・・・お笑い芸人の「ライス田所」さん原作で、人気らしい。作者も蒲田生まれで今も住んでいるとのこと。
うちの筆子さんの生まれ育った町でもあり、よくいく街でもある。飲み屋の人口密度?が、新宿のそれを超えていて(今は知らない)、
普通の家の一階がスナック、みたいなところが、当たり前。そんな猥雑なところが魅力だ。
そんな猥雑な下町に、唯一無二な寿司屋や中華屋やとんかつやがあったりするアンバランスな不思議がまたいい。

筆子さんの家の墓参りの時などに、立ち寄る銭湯がある。二階が食堂になっていて、ときどき土佐周りの演歌歌手
がきて、新曲のキャンペーンをやったりするので、壁にはいろんな歌手のポスターが飾ってある。
スポットライトを浴びた歌手とは違った人間ドラマが垣間見れて、とても居心地がいい。そこで演歌を聞くと、ジャズ
みたいに心臓の鼓動と波長があう。
山頭火の「まっすぐな道でさみしい」がわかる。

あまり教えたくないばってん、「聖兆」という中華やさんがある。前は駅前のアーケドー街の片隅に
あった。そこが再開発になり、6年半のブランクがあったけど、東口にオープンした。
六本木などに作ったら間違いなく「見知らぬ」の星がつきそうなレベルの包丁さばき。でも彼は「蒲田」なのだ。だから
誰も見知らぬ名店。そんな店を知っているのは、とても幸せなことだ。
そんな「聖兆」があったりするのも「異世界蒲田」の魅力かもなんばん。感謝。

雨が空から降ると・・・角煮が食べたくなる?

昔、台所の中心に竈(かまど)があった。
今回の珠洲の地震で、珪藻土七輪の「丸和工業」さんの工場と窯が
甚大な被害を受けた。ちょうど5年くらい前に、丸和さんの工場の隅っこに
古色蒼然とした「珪藻土の竈」を見つけた。時代に置いていかれたように、
ポツンと寂しそうだったので、5個あったのを全部買っておいた。

そんな時代おくれの竈が、月曜日に大活躍。
炭火で、珪藻土の竈の上に、羽釜をおいて炊くごはんの美味さは、筆舌を超えた味だ。
おこげは、またなによりの御馳走だ。茶人たちが茶事で、それをふるまっていた歴史の滋味がする。
電子レンジや、電気釜は確かに便利だけどね・・?

今日は朝から雨。雨の日はまたいい。
宋の詩人・蘇軾(そしょく)が、政治的に流罪先で、粗食に耐えながら?
「晴れて好く雨も奇なり」という詩をよんだ。飄々として自然体な詩をたくさん残した。
彼がつくったもので、今でも中華料理としても、長崎にきて卓袱料理として、ラーメンや
で角煮になって今でも残っている料理がある。
東坡肉(トンポーロ)  蘇軾の号が、蘇東坡。彼がつくったので東坡肉。
雨の日は、トンポーロが食べたくなる。アジア人は、お客さんが来ると、豚を一匹つぶして、歓待した。

昔から茶事は基本的に、肉をださない。
煎茶の世界も普茶料理という精進料理をだすのが基本だけど、蘇軾の「赤壁の賦」などに憧れる茶人たちは、
料理のひとつに、東坡肉を入れたりすることがある。いいじゃない。
原理原則にこだわりすぎると、窮屈になる。茶の席に「肉」があってもOK牧場のような気もする。
みんなが、そのあたりの文化圏までさかのぼって、言葉が違っても「茶」を楽しむようになれば、
戦争になったりするリスクが9割かたなくなるのではなかろうか。感謝。

国民総移住が始まった?

昨日はそんなことを感じる一日やった。
朝いちばん、友達が「戸隠に古民家を見に行く」、と元気な笑顔で旅立った。
前から松本とか、界隈の古民家物件を見に定期的に長野に通っていた。
どうやら、機が熟したようだ。

午後、香取神社の近くにアトリエがあるMくんが、「那須に移住することになった」
と挨拶がてら、そばを手繰りにきた。「将来はカフェみたいなこともやってきたい」
というので、UFOを使って、とびきり美味いアイスコーヒーをつくる技を伝授した。
なにをかくそう、彼が、UFOの最初の購入者。モカマタリの生豆をいっぱい買っていかれた。

そして、閉店後の「そば打ち道場」の時、師範代な風格のそばもんになったお弟子様が
「佐渡に古民家を買いました」とのこと。その古民家の納屋にあった漆塗りの「おかもち」を
持参して、手打ちそばを入れて、出前にいくように帰っていった。佐渡おけさでも聞きながら、そばを手繰って
みたくなった。
なんとも、うらやましい人たち・・・・・・こちらは、2か所暮らしが6年目に入るけど、
最近は家の修理や片づけも一段落、器や絵などもおおかた能登の家におさまったので、すこし手持ち無沙汰ぎみ。
京都の花瀬あたりの古民家でも見つけて、「三か所暮らし」に挑戦しようか・・などと企んでいる。
でも、あちこちにお弟子さまが移住を始めたら、それこそ、そこをまわるだけで、「ノマドな生活」
になるかもなんばん。

今日は16時まで営業。それから「そば打ち道場」「UFO焙煎道場」
二階では「ゆるゆるヨガ」  ぼくは、女子たちがヨガってる間に、そばの準備をしながら「カレー」
を食べる日。ちょっと水かげんをあやまり、ごはんが「ゆるゆる」になった。こちらも坊さんみたいに
「おかゆ」にしてみようかな?

明日の朝は「卵かけごはん」
週に一度だけ、能登の珪藻土の竈(かまど)で、炭火を使ってごはんを炊く。
そのごはんは、冷めてもうまいし、おにぎりはもちろん、炒飯や雑炊にしても、異次元の味。

異次元といえば、「異次元の少子化対策?」がかしまし娘だ。
どの政策も「お金を渡しとけば、子供も増えるだろう」みたいな、うわっぺらなものに感じてならない。
ベトナムの少数民族の部落を旅したおじいちゃんが、現地のあふれんばかりの若者のいとなみを見て
「どうして、こんなに若者がいるのですか?」と尋ねたら

1・テレビやスマホは、極力みない
2・男は朝から酒を飲んだり遊んで、英気を蓄える(武田鉄也みたいな子供が増えそうやけど?)
3・子供たちは財産なので、血のつながりを超えて、見守り育てる

と答えが返ってきたらしい。少し前の時代にもどしていくことが大事。「今」という時代そのものが異次元なのかもなんばん。感謝。

♪この道は いつかきた道

天真庵には、「道」という白井晟一さんが揮毫した書を飾ってある。
もともとは、首がころがっている象形文字。人生という旅路で、人は100%死ぬ。病死や野垂れ死・・・
老衰やガンやコロナになったから死ぬのではない。生まれてきたから、みな死ぬのだ。それでいいのだ。
それぞれの道程が、これ人生。

昨日は旅好きなじいさんふたりがそれぞれカウンターにとまって「昼酒セット」で独酌。
ひとりは、能登へも年二回ペースで車でこられる。宿は天真庵のHPにもリンクしているけど、「湖月館」。
昔から文人墨客に愛された宿だ。白井さんの息子で、ぼくの友人でもあるIさんも、学生時代に泊まったらしい。
とてもいい宿で、ときどき、ぼくも泊まりにいく。大女将・女将と話をしていると、ついつい「ながっちり」
になりそうなくらい、時間をわすれてしまう宿だ。

車でどこでも旅する彼は、先月馬籠とか旧中仙道を車で旅したらしい。いつも旅には、ライカを道連れにして、
名もない里山の風景や古刹、風雪に耐えながら立っている路傍の石仏などを、写真に収める。「湖月館」の玄関にも彼の
写真集が置いてある。「寄る年波かな~ 今回は旧道を走っていて、車を石にぶつけた」とのこと。
最新のいい車は、障害物があると、勝手にピーピー警告してくれるけど、慣れっこになると、オオカミ少年みたいに
「またか」という気持ちでうっちゃっておいたら、ゴツンとなったらしい。旅はみな茨の道だ。

もうひとりのじいちゃんは、後期高齢者になったばかり。いつも下町界隈を散歩する途中に寄ってくれ、
そば前で一献、そば後にほぼぶらじるの「昼酒セット」(文膳という)をやる。
興に入ると「そばやの〇〇は、こうでなくっちゃ」を連呼される癖がある(笑)。昨日は3杯目のお酒を所望された時にだした
「新じゃがの肉じゃが」を食べながら、「新じゃがが、皮のまま入っているのがいいね。そばやの肉じゃがは、こうでなくちゃね」
と言って笑っていた。24日にベトナムの旅から帰ってきたばかりらしい。ベトナムといっても、サイゴンからジープにのって、2時間
くらいかかる少数民族の棲む寒村を旅したということだ。大学で哲学を学んだ彼は、インドや、アジアの寒村あたりを旅するのが
ライフワークになっておられる。「旅は哲」そのものの人生。

分け入っても分けいっても青い山   山頭火

いっしょのツアーに参加した89歳の四国の老人が、あまりにも元気なので、「後期高齢者というのを死語にした」
といってかかと笑った。その老人が「ぼくはせっかく生を受けたのだから、命もお金も使いきろうと思っている」
といったらしい。その翁の人生もまた道也。

最近、「女時」(めどき)」というか、女性の元気さばかりが目につく。でもまだまだ矍鑠(かくしゃく)としたモジ(モダンジーサン)
もいっぱいいらっしゃる。来月は久しぶりに、横須賀からフェリーにのって門司にいき、里帰りをする。
小生66歳。彼らに比べたら、鼻たれ小僧だ。モジモジしている場合じゃない。いろいんな意味で、この山頭火が染みる年ごろになった。

まっすぐな道でさびしい    山頭火

今日明日は16時まで。それから「そば打ち道場」「UFO焙煎道場」

男は静かに囲炉裏端会議?

女子たちは元気だ。80を超えたばあちゃんが3人で組んで、「さんば」、正確には、
「もちよりパン  サンバ(SANBA)」が近所にできた。
火曜日の午後、近所の「お世話しあうハウス」の女将が、ニコニコしながら
お店に入ってきた。「サンバ、で、イートインしてきたから、ちょっと少なめのホボブラジルを
いつもよりうすめにしてちょうだい」とのこと。「デミくらい?」というと、「もうちょっと多めね」
という。いつものように、久保さんのオリベの土瓶に、輪花ドリッパーをおき、漉し布(ネル)で、
ホボブラジルを出す。

「これおみあげ」といって、サンバのパンを5個土産にくれた。みんなラップでくるまっている。おばあちゃんたちが
トンクなどを使わず、手でトレーに入れられるように配慮しているらしい。さすが。
和のお惣菜がいろいろ工夫されていて、「ごはん」
みたいなパン。「ごぼうのパンは、歯が心配だったら、小さく切って食べてね」。
さすが、お年寄りの面倒を毎日見ている女将。80歳が66のぼくの歯を気遣ってくださる。

ここのお世話しあうハウスの人たちが、ときどきニ三人(ときには4人)で、そばを手繰りにきてくれる。
みんな耳が遠くなっているので、声が大きい。しかも、お互いに馬耳東風よろしく、好きなことを
勝手に、しかもなんども繰りごとのように話し、そのたびに、新鮮に相槌打ったり、笑ったりしている。
女子たちが、元気な秘訣がここにある。かみ合っていない会話が、なんだか楽しそうだ。
人はみなこころの根っこの部分に、いろいろな抽斗(ひきだし)をもっている。その中身が「楽しいもの」の人は、
いつも前向きで楽しい。反対に「恨み、妬み」が入っている人は、まわりの空気まで暗くする。

昨日はかっぽれ女子たちが集まって、お仕覆の会。先月放映された「もやさま」で、一躍有名に
なった「まさこさん」(かっぽれの先生 82歳)も、元気な姿をだした。
ぼくは、昼ごはんのガレットを焼き、珈琲の用意ができたら、お役目ごめん、で、
いつものように、亀戸界隈を徘徊散歩。

こないだ「框(かまち)」を衝動買いした材木屋にいって、そのかまちを使って「囲炉裏」をつくる打ち合わせ。
能登の家にもっていく計画だったけど、東京のお店で使おうと思い直した。
すると材木屋のオヤジがニコっと笑って、「完成したら、そこで一杯やろう」ということになった。
「おちょこを置く時の音がいいんだ」といって、一献するように手を口にもっていく所作。
大工は左手で「鑿(のみ)」を使う。だから昔から酒飲みを「左党」といった。
けっして、麻丘めぐみの歌が起源ではない。

そこから徒歩3分の骨董屋にいく。囲炉裏の話をしたら、大喜びで、「お祝いにこれあげる」
といって、「どうこ」をくれようとした。値段シールに33000円とある。銅壺。
時代劇ではよくでるけど、江戸後期頃から囲炉裏の余熱を活用した銅壺(どうこ)という道具が現れた。これは囲炉裏端で、飲み手が都合のいいように燗づけしてお酒を楽しめる。チンとは似て非なる情緒。茶事の「お預け徳利」みたいなもんや。しかも燗酒がとびきり美味くなる。
「ふたつもっているので、これはいいよ」と断わって、傍らにあった藁の鍋敷きを指さし、
「これちょうだい」といったら、「2000円ちょうだい」といわれた。相変わらず、つかみようのない
飄々とした店主。井伏鱒二の「珍品堂店主」みたいなフンイキを醸し出している。
女子は、時と場所を選ばず、元気に談論風発できる。男は黙ってサッポロビールか、
気のおけない仲間と囲炉裏端で静かに飲むべかりけりか?感謝。

押上は、素敵なサンバで一踊り!

先日、手押し車を押しながら、3人のおばあちゃんが、そばを手繰りにこられた。
お店に入るなり、「ここはスシ食べれましたよね?」と・・

「スシ、じゃなく、ソバの店です」といったら、「すいません、今日は寿司が食べたいので、またきます」
といって、十間橋通りを歩いていった。残念ながら、この界隈には、あまたの寿司屋があったけど、回転すし
がハバをきかせるせるようになって、まわらない寿司屋は姿を消した。全国津々浦々、どこの街もそうなように。

20分くらいしたら、おばあちゃんたちががもどってきて、「ああ、疲れた。このへんには寿司屋がないのね」といって、
一番奥の4人掛けテーブルに座った。メニューを見ながらも、あきらめきれずに「やっぱりスシはないのね?」だって(笑)
しぶしぶ、そばを手繰りながらの女子会。毒蝮だったら、さながら「ばばあのそば会」。

「すしや」も「そばや」も絶滅危惧種になりつつある。
でも最近、古い長屋やアパートや長屋を改装して、「カフェ」が、雨後の筍のように、どんどんできている。
すぐ近くに住んでいたジャズドラマーの「セシル・モンロー」
が、「ここは、ブルックルリンみたいな街になる」と、よくクロキリのオンンザロックを飲みながら、口癖のようにいっていた。
押上がそんな雰囲気を醸しはじめた。セシルが、千葉の海で亡くなってから12年になる。大石学トリオのドラマーやった。

そんな流れで、乱立ぎみの押上に、異色のカフェができた。
築60年の古いアパートを改装して、一階が手作りパンと、二階がカフェスペース。
場所は、押上文庫の近くの路地裏。その近くにいくと、電信柱に案内版が貼られている。
なんと齢(よわい)80過ぎのおばあちゃん3人で運営している。看板娘3人のおばあちゃんで「さんば」。
正確には、「もちよりぱん SAMBA(サンバ)」という。
「てんとう虫のサンバ」をを初めて聴いた時のような新鮮さに笑った。♪赤・青・黄色の・・・
サンバも、昔ながらの日本のお惣菜をこらした色とりどりのパンが踊っている。ごぼうパンもあるぜよ。

天真庵のカウンターの上には、おかまのMくんがくれた木彫りの猿が飾ってある。
三番叟(さんばそう)、といって、昔から歌舞伎や能などの演目にもなっている、五穀豊穣を祝う翁。
うらぶれた街だけど、サンバのリズムにのって、「気がつけば、時代の先端」みたいな街になる日も、近い?かもなんばん。

でも、まちがっても3人のじじいが組んで「さんじ」なんていうカフェを始めないことを願う。
「大惨事」になりそうな予感がするので・・・