大衆酒場の達人

そんな本を、古本屋で見つけて、パラパラと立ち読みしていた。2016年の3月に発行、とある。
大塚の「江戸一」が、マンガで紹介され、若女将(といっても、主人はぼくと同級生でときどき、大塚からチャリンコにのってそばを
手繰りにくる)がかわいらしく描かれていたり、池袋の「千登利」の名物「肉豆腐」が写真で紹介されていた。千登利の女将さんは、
すでに八十路を歩いておられるけど、矍鑠としてお店で若い人たちとお店を切り盛りしておられる。やはりときどき、そばを手繰りにこられる。

ぱらぱら、を続けていたら、作家の「西村賢太」さんの特集を見つけたので、この本を買って帰った。
「苦役列車」で芥川賞をとった。「今の時代に、こんな私小説を書けるような生活をしている人がいるんだ」
とびっくりした。
この雑誌の中では、彼が長く住んでいた鶯谷の「信濃路」という大衆酒場で、ホッピーグラスを傾け、たばこを燻らせながら、
談論風発している写真がのっていた。でも彼は、その後「能登路」をなんども往復し、尊敬する藤澤清造の墓にお詣りし、
自分の墓もその隣につくった。そして、同じように2022年に突然召された。

ネットで「藤澤清造」で検索すると、こんな記事があった。

私小説作家の西村賢太は藤澤に傾倒し、『歿後弟子』を称していた。清造の月命日(毎月29日)には墓参を欠かさず、2001年からは自ら西光寺に申し入れて「清造忌」を復活させた他、2002年には清造の墓の隣に自身の生前墓を建てている[3]。西村自身が編集する形で、朝日書林から全5巻別巻2の『藤澤清造全集』を2001年から刊行する予定としていた。

2011年2月、西村が芥川賞を受賞し、藤澤もろとも脚光を浴びた機会をとらえ、「一杯やった勢いで文庫の部長に直談判し」、代表作「根津権現裏」の文庫復刊を新潮社にもちかけた結果、同年7月に復刊が実現。解説から年譜、語注まで西村が一手に引き受けた[4]。2012年には、西村を編者とした『藤澤清造短篇集』が出版されている。しかし、上述の『藤澤清造全集』は内容見本を出しただけにとどまり、西村は2022年2月に急逝した。

2024年(令和6年)1月1日に発生した能登半島地震では、西光寺も被災し、並んでいた藤澤と西村の墓石に地蔵堂が覆いかぶさるように倒壊して横倒しになった[5]が、ファンの支援や関係者の尽力によって、同年9月3日に二人の墓の修復が完了した[6]。