♪毎日毎日ぼくらは、寸胴の・・・で味噌つくり

まだ始まったばかりだけど、毎日味噌つくりに勤しんでいる。
「揚げ浜式」の能登の塩が、復活したことが一番うれしい。余談だけど、その塩を
つかって、知り合いの豆腐屋が豆腐をつくりはじめ、そこの逸品の「おあげ」を
つかった「おコンそば」が、けっこう人気になって、また少し能登の風が吹いているみたいで、
なんとなく幸せな毎日。

先月、いつものように能登から東京に向かう日、「藤瀬霊水」を汲んで、近くの
「無人販売所」にて、野菜を買っていたら、セルフレジが故障していた。
電話をしたら、軽トラに乗った若くてきれいなお姉さんがやってきて、「すいません」
といって、直してくれた。そのおけげで、そこから「大豆」と「麹」を買うことになり、
今回の味噌つくりの新しい仲間になった。世の中どこを見回しても、「セルフサービス」が幅をきかせて
いるけど、やはり「人と人がふれあう」ことで生まれる物語ほど、人生を豊かにするものはない。
先日、大豆と麹がおくられてきて、中にこんな手紙が・・・メールとは違う感動があります。感謝。

元旦は、朝からそわそわ、ひやひやして一日が経つのを待ち続け、能登半島地震が再発しなかった。その時は、
かって経験のない万感の喜びでした。
 この度、当法人の無人販売所をご利用いただき誠にありがとうございます。当法人は、地区に休耕地や
放棄地が出現しはじめ将来の地区の農業継続、農業の産業化を目的に地区ぐるみで創設した農業担い手組織です。
稲作をベースに農産物の漬物加工、味噌つくりなど男性も女性も参加できる活動を行っています。
 野村様におかれましては、以前から藤瀬の霊水を汲んで、東京で「そば」と「珈琲」のお店をやっておられるとお聞きし、
驚きと嬉しさいっぱいになりました。そして、「味噌つくり」。
この度の大豆も麹も、われわれスタッフが、「一声 一汗 みんなで築こう豊かなふるさと」をモットーとしてつくった
手作りの結晶です。「天真庵さま」を通じて、東京の人たちに縁をいただけたこと、感謝感謝です。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
 大寒の中、寒さ厳しいこのごろ、お体十分にご自愛なさってください。ありがとうございました。

庭には二羽にわとりが・・・

昨日は午前中が「玉子かけごはん」
10時にお開きにして、神社にお詣りして、買い物をし、自分たちも
まかないの「玉子かけごはん」を食べて、12時10分前にのれんをだす。
若くてきれいな女性が、のれんをかけようとしたら入ってこられた。
ステンドグラスのある二人席に座ってもらった。
黒板のメニューを見て「おコン蕎麦ください」。

志ん生さんの落語から命名の新メニューが看板になりつつある。
準備を始めたら、中国人が、ぞろぞろと入ってきた。
「何人?」と聞いたら、「ヨニン・・」というので、一番奥のテーブルに誘導。
けっきょく8人が入ってきた。さすがに10億?くらいの大国の人。4が8でも、シェーシェー
みたいな感じなのだろうか?日本人でも、6人以上だと、
「お店の空気がかわるので・・・」といって、お断りする。

すると、おひとりさま女子が「私、カウンターにいきましょうか?」
と席をたとうとした。「ぼくは、動物園の餌係でないので・・」とささやき、「そばが売り切れたので、今日はクローズ」といって、
帰ってもらった。

ぼくは、中国語で知っている単語は、「チースウ」だけ。蚊のこと(ウソ・・中国語がわかる人の前ではいっちゃいけません)
ミャンマーでは逆に、「スーチー」といいます。というのが落(さ)げの、ジョーク。

店が静かになって、おひとりさまが珈琲を飲みながら「私これから造園屋さんの面接です」とポツリ。
大学をでて、大手の会社でOLをしていたが、つまらなくて、造園の学校にいって2年勉強したらしい。
「自分のすきなことを仕事にするって、すばらしい」と拍手。
カウンターの奥にしまっている2004年の「和楽」を見せた。庭師の長崎剛志くんが、池袋の天真庵の屋上に
つくってくれた庭が紹介されている。不思議なことに、その後、2007年にはじまった「お花の教室」の原田先生の
師匠もその号の中で、いっしょに紹介されている。縁とは、まことに「妙」なものだ。ぼくの48歳の時の写真を見て
「若い」と思った(笑)

昨日は近くの「造園屋さん」が、味噌をつくりにきた。

庭には二羽にわとりがいる・・・・みたいな日だった。
今日は、押上小学校のすーさんが、味噌つくりにやってくる。今ママが
「きよみさ~ん 今日よろしくお願いします」と挨拶にこられた。
奇人変人の会員制カフェみたいなお店だけど、味噌つくりの時は、なんとなく「地域密着型のお店」に
なるようだ。感謝。

月曜の朝は、TKG・玉子かけごはん!

今朝の東京は、3度。少し寒く感じる温度。寒いけど、石油や炭を扱う前に、お米を研ぐ。
それから石油ストーブをつけ、上に薬缶をふたつ。
ペレットストーブにも火をつけ、大豆を水につけた寸胴(味噌をつくる準備)をおき、
炭を火起こしにいれて、東京ガスにて火をつけ、能登の珪藻土七輪に入れる。

その間に、そばを一回打ち、羽釜にいれたお米を、珪藻土七輪の上にのせる。
♪はじめちゃろちょろ 中ぱっぱ・・・が始まる。
湯気が羽釜の蓋の隙間から勢いよくではじめ、ときどき、湯気の匂いを嗅ぎながら、「こげたよ」
と湯気の声がきこえたら、羽釜を木枠の羽釜入れ(近くの骨董屋から買った)にいれる。

ご飯を蒸らす間に、七輪の上に「手廻し焙煎機」をのせ、珈琲豆をがらがらと焙煎。
ごはんのたきあがった匂いと、焙煎の匂いが、空中でブレンドされ「月曜日の朝ですよ」という気分が
もりあがる。蒸らした羽釜の蓋をあけると、「うめ星」(隕石玉・・ごはんを炊く時や、小豆を炊く時にいれると、ベツモノになる)
が、梅干し弁当よろしく、ごはんの真ん中にポツリ。それをとりだし、杓文字(しゃもじ)で、ごはんの表面をすくい、
そのまま口に入れる。「かまじか」といって、世界一おいしいごはん。

残りのごはんを、秋田杉のお櫃(ひつ)にいれ、藁(わら)いずみの中で保温する。
こうしてできたご飯を食べたことのない日本人は、日本人じゃないので、ぜひ一度、経験してもらいたい。
残った炭火は、囲炉裏の中にいれ、もうひとつの寸胴をのせる。本日はふたりが「菌活」(味噌つくり)にくる。

8時に暖簾(のれん)をだそうとすると、ふたりの常連さまが、こられた。
平飼いの玉子をわり、ごはんにかけ、具だくさんの味噌汁と、筆子さん作の「べったら漬け」でいただく。
550円也。珈琲はデミカップでほぼぶらじる、100円也。
311があった2011年から、やっている天真庵の朝ごはん。感謝。

一斗二升五合

落語の落(さ)げの説明を聞くのも無粋だけど、このような洒落の意味を
聞くのも、無粋きわまりない。
老舗の料理屋や洒脱な居酒屋の壁などに、よくかかっていた。
昨日紹介した大塚の駅前に「江戸一」という居酒屋がある。
そこにいくと、「一斗二升五合」という短冊がかかっている。
「天真庵」の看板を書いてくれた貞本さんが揮毫したものだ。

「江戸一」は、伊勢神宮のお神酒酒「白鷹」が飲めて、昔から文人墨客に愛される店。
貞本さんも、「ほぼまいにち」のように通い、そこで出会って、看板を書いてもらい、しばらく書道教室
もやってもらった。ときどき、カウンターに高橋義孝先生が、美味しそうに白鷹を飲んでいらっしゃったのが懐かしい。
先生が書いた本の中に「寒山拾得を知らないやつは、日本人じゃない」という文を見つけた時は、思わず笑ってしまった。

昨日ひさしぶりに、カウンターの後ろの棚に高橋先生著の「能のすがた」を見つけ、読み直していたら、やはり歯切れの
いい日本語に赤線をひいていた。

「(略)またこの変なデモクラシー社会は、いつも便利と快適を重んじて
退屈や苦労を毛嫌いするようである。
深みとか味わいとか風韻とかいうような徳に人間的な価値は、実は退屈や苦労の中から生まれてくるものだということの
解らない人は意外に多い。便利で快適な新建材のどこに深みや味わいや風韻があるであろうか。
  それやこれやで私は、習い事、お稽古事というものは『己を虚しうする』ということを体得するための恰好な手段だと考える。
『己を虚しうする』などということには自分は全く関心がないというような人には、私にとって縁無き衆生たるにとどまる。」

「江戸一」と同じく、文人墨客たちに愛された江戸料理の店が、三業地のぼくの事務所の近くにあった。
「なべ家」。蓬莱鍋が名物で、酒は山形の「初孫」だった。
そこの男子便所にも、お洒落な短冊が飾ってあった。

急ぐとも 心静かに 手を添えて 前にたらすな 松茸の露

酒を飲む場所は、人生を学ぶ場所だった。感謝。

フランスに「手前味噌」を持ち帰り?

昨日、フランスからトーナス君が、「アケマシテ オメデトウゴザイマス」といいながら蕎麦を手繰りにきた。
3度め。最初は「お遍路さん」で四国を歩き、二回目の昨年は、
「お遍路さん」と「ねぶた祭」。今年は「お遍路さん」と「東北巡礼」らしい。
「お遍路さんで、知りあいになったハヤト君を訪ねて、一関にいく」とのこと。
弘法大師さんは、今でも国の違いや、言葉の違いを超えて、いろんな縁を紡いでくれているようだ。

「アタタカイソバ ヲ オネガイシマス」というので、「おコン蕎麦」を出した。
「ア、キツネ!ボク ダイスキ」と感激していた。へんなフランス人だ。そばの後は、いつも「ギョクロ」を所望。
そば豆腐に餡子をのせてお茶請けにし、蓋付きの玉露椀で飲む。「すすり茶」というスタイル。
次の日(今日)から、味噌つくりが始まるので、カウンターに寸胴(ずんどう)を置いて、準備をしていると
「?」という顔をしているので、「ミソスープ ノ ミソワークショップ」と言ったら、目を丸くして
「ヤッテミタイ」というので、東北から帰ってきた2月7日の午後に、味噌をつくることになった。

せっかく、一関までいくのなら「宮沢賢治にあってこいや」とすすめた。
「?」と聞くので、「農業家 童話作家 詩人 宗教家」と説明。生前は無名だったけど、今では日本で一番読まれている作家、
だといって、「雨ニモ負けず・・・」を、彼のスマホで検索したら、フランス語訳ででてきた(スゴイ)
それを、うれしそうに読んでいた時、「ミソ ガ デテマス」と感嘆の声。

「雨にも負けず」

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲は無く
決して瞋からず
何時も静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆる事を自分を勘定に入れずに
良く見聞きし判り
そして忘れず
野原の松の林の影の
小さな萱葺きの小屋に居て

東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず苦にもされず
そういう者に
私はなりたい

へんてこ言葉で身振り手振りでやっているのを、珈琲を飲みながら見ていたお客さんが「私もやりたい」
といって、昨日は「味噌つくり」のドタサン組が、都合3組増えた。

来年トーナスくんがきたら、いっしょに落語にいこうか?などと密かにたくらみ中。
演題はやぱり「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」だろう。
大店の若旦那の徳さんが、吉原で放蕩をつくし、勘当され、吾妻橋から身を投げて死のうとしていたところから、話が
はじまり、「トーナス トーナス」と、行商をしながらの物語。志ん生のCDが残っているが、白眉だ。

今日から「味噌つくり」が始まる。
今日明日は12時から16時まで営業。その後は「味噌つくり」「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」
月曜の朝は「玉子かけごはん」

90歳のデュアルライフ

水曜日に、池袋時代から通っている歯医者にいった。
そのころは、徒歩5分。でもそのころは仕事が忙しく、よくドタキャンした。今は片道一時間ちょいかかる。
でも「小旅行」のように、巣鴨で降りて「おばあちゃんの原宿」を散歩したり、池袋界隈で映画を観たり、
美術館にいったり、古本屋や骨董屋めぐりをしたり、およそ一日かかりの「徘徊散歩」。

先日は、錦糸町まで歩いて、「大塚行」のバスにのっていった。昔、毎日のように飲んだ「江戸一」
の前が終点。三業地に「ねっと21」というIT会社が100社くらいが集まった協同組合があって、
不肖わたくしが理事長をやらせてもらっていた関係もあり、大塚の街は、三業地を含めて、「くろかった」(詳しかった)。
そのころお世話になったのが「K不動産」のK社長。

少し時間があったので、3年ぶりに「K不動産屋」に立ち寄る。矍鑠としたKさんが電話中だったけど、ぼくに気づいて
「生きとったと?」と九州弁でいって笑った。「こちらがいうセリフばい」と思ったけど、飲み込んで
「はい」と答えた。電話を続けながら、冷蔵庫から「おーいお茶」の小さなペットボトルと、グラスをだしてくれた。
昔から「ペットボトルで口飲みはすかんけん、こげんして飲む」のが、K流スタイル。
55歳で大塚の駅長を最後に引退して、負動産屋を起こして35年。今年90歳になる。

大分の中津江村出身(2002年の日韓ワールドカップで、アフリカの選手村になって、有名になり、市町村の合併の波に
飲み込まれそうになった昨今でも、名前が残された「村」だ。)
一度、Kさんの実家・中津江村に遊びにいった。
友達でアユ釣り名人がいて、近くの渓流で釣ってきたばかりのアユを炭火で焼いて
御馳走になった。トイレを拝借しようとすると「男は畑でして」というのが、K流。
彼の親父さんは、三才の時、山での事故で亡くなり、母親がひとりで育てた。亡くなるまで「酒がきれたばい」
といって、息子に日本酒を所望する電話がかかってきていた。「ヨイトマケ」の世界だった。
今は、実家の周りの荒れ放題の山林を買って、小屋をつくり、五右衛門風呂とコンポストトイレ(お風呂と、トイレに金をかける、
もK流)の田舎と東京のデュアルライフを満喫されている。同郷の奥様は、7年くらい前に召された。

「歯医者の時間が、12時であと30分なので、そろそろお暇します」といったら、「ぼくなら20分でいくばい」
というので、「ではあと10分」の四方山話。
「90になると、友達もだいぶあの世にいくけん、訪ねてきてくれて、うれしかった」といって、握手。
最後に不動産屋らしくひとこと。

「能登暮らしが大変になったら、中津江村の山を半分買わんね。川つき、2000万でよかよ」といってニコリ。
山と川・・・満点の夜空の景色は、100万ドル以上の価値がある。
今朝の新聞に「23区の新築マンションの値段が一億超え」との記事。なんか不思議な世界の中で生きている。感謝。

81と18の違い?

昨日紹介した「地パン」の大橋さんは、血友病で車いすの生活だったけど、
精力的に新しいパンをどんどんつくった。ぼく的には「もち麦パン」が最高で、また食べてみたいと思う。
東京にくる時の定宿が「帝国ホテル」だった。なんどかそこで打ち合わせをしたけど、
さすがに細かいサービスが行き届いていて、「車いすのハンディー」を感じさせない空間と心配りに
びっくりした覚えがある。そして、彼を生涯させてきたのが鈴木大拙の「禅」だった。
彼が目指した「地パン」は、典座(てんぞ)の精神に満ちていたようにも思う。

昨日の夕方、常連の女子が「ほぼぶらじる」を飲みにこられた。一人っ子で、独居になった81歳で少し認知がはじまった
母親の日常を、珈琲をすすりながら、ユーモアたっぷりに話される。
最近読んだ「禅」の本の中に、◎老いを笑い飛ばす遊び心「81歳と18の違い」というのがあった。
親の介護中であり、いずれ我が道の人には、「なるほど」と合点がいき、少し笑えるかもなんばん?

・これまでの人生が18年なのが18、これからの人生が18年ないのが81
・オツムはカラでも可愛いのが18、オムツをしていても可愛くないのが81
・道を探す旅に出るのが18、道がわからなくなって探されるのが81
・転んでもただでおきないのが18、転んだら起きられないのが81
・知らないことが多いのが18、覚えていないことが多いのが81
・心がもろいのが18、骨がもろいのが81

・・・・シルバー川柳と共通のおかしさがあるけど、短い人生の春夏秋冬に咲く「花」みたいなもんでもある。

明日は、歯医者。月に一度板橋の歯医者に「歯の掃除」に行っている。医院長は、かつてぼくといっしょにホノルルマラソン
を完走したことがある。今はお互いに家の近くを徘徊散歩するのが日課になった。

・手入れして虫歯ゼロなのが18、入れ歯して虫歯ゼロなのが81

せいぜい、歯の掃除をまめにして、81歳まで入れ歯なしで生活したいものだ。感謝。

詩国からキャベツが飛んできた。

「月曜の朝は玉子かけごはん」今日、これから、玉子かけごはん。

先日、四国でもち麦や、黒豆をつくっている農家さんが、家族で蕎麦を手繰りにこられた。
前日、奥様から電話があり「わたしたちより一足先にキャベツが届きます」とのこと(ほんとうに前日届く)
お店を始める前に、福島を旅したことがある。大木大吉さんの酒蔵で、そば会をやり、その縁で「チーズケーキ」の原点
みたいなレシピを教えてもらったり、大橋雄二という天才のようなパン屋さんがつくる「もち麦パン」を仕入れるようになった。その
ルーツをたどると、四国の愛媛にある農家さんに辿りつき、長い付き合いになった。(大橋雄二さんは、ぼくと同じ年だったけど、60で召された)

愛媛の農場にいくと、「愛穀」と揮毫した看板がお迎えしてくれる。
生前よく農場に遊びにこられていた「坂村真民」さんが描いたものだ。
坂村真民さんは、熊本の玉名で生まれ、四国で「詩国」という雑誌に生涯詩をのせて生活された。
今は、「坂村真民記念館」があり、同志たちが寄付した看板が表にあり、その農家さんの名前も
刻んである。日めくりカレンダーが、なかなかいい。一日は「念ずれば 花開く」だ。

今日の「真民さん」の言葉

「今」

大切なのは
かつでもなく
これからでもでもない
一呼吸
一呼吸の
「今」である

味噌つくりの準備中に、いずしが飛んできた!

味噌つくりは、お店を始める前から池袋でやっていたので20年前から始めた。
押上の駅前にあった「コネル」という雑貨屋の女将さんが
「やりたい」というので、一年目は6人からスタート。
手と手がつながり、お豆が醸し続けて、最近は100人を超える大所帯になった。(一日4人とかで、毎日)
「子供が独立したので、今年はお休み」というのもあれば、「家族が増えたので、一口多く」
とか、関西や九州に移住したのに、「年に一度の里帰り」よろしく、元気な顔を見せてくれる人
がいたり、悲喜こもごもの一年の近況を語りあう場でもある。

使う大豆も、「九州に移住して大豆を無農薬でやっているくん」とか、友達が深谷でつくっている「借金なし」
とかから始まった。7年前から、能登で半分暮らすようになって、能登で知り合った農家さんから調達したり、
北海道の大豆をつかったり、毎年気温の変動とかで、出来不出来の波をのりこえながら、その時に「縁」
ある豆を使用している。

塩は、能登の「揚げ浜式」。麹も、縁ある人たちから調達している。
いろいろな縁か、重なりあって、「手前味噌」ができある、というわけだ。もちろん、各自の手についた菌や、
一年以上醸す「家の環境」によっても、味がかわる。
野菜をつくったり、お米をつくったり、味噌や梅干しなどをつくったり・・・・
食べ物を自分でつくってみると、「ありがとうございます」とか「いただきます」という挨拶にこめられる「気持ち」
が違ってくる。

先日、そんなこんなで、いろんな準備をしていたら、北海道に移住したMさんから「いずし(飯寿司)」が飛んできた。
今朝のNHKのニュースで、新潟の鮭が前年の15%しか獲れていないとのこと。やはり温暖化が影響しているようだ。
いずしとは、鮭(にしんでもやるらしい)、ごはん、にんじんや生姜などの野菜をこうじに漬け込み発酵させたもので、北海道の民に親しまれてきた郷土料理。九州から北海道までを往復していた北前船が、各地各地で「醸す文化」を融合させた歴史の
産物でもある。彼女が、お友達といっしょに、自作したもで、魂のこもった到来もの。
仕事が終わって、「佐久の花」というそば焼酎の蕎麦湯割りで、一杯やりはじめた時、「いずし」をつまんでみた。
「これは日本酒やな~」と思いなおし、蕎麦焼酎を一気飲みして、ちょうど秋田からやってきた「百竈」の生酒を、小さな蕎麦猪口に
入れて飲んだ。あらためて、北海道のほうをむいて、「ごちそうさま」。いずしは、TQ研究所の山田学さんに還暦のお祝いにもらった
「どらえもん皿」(TQ処理がされてある)に盛る。クソまじめな山田さんが、ぼくの誕生日がどらえもんと同じ日なので、
そんな洒落たプレゼントをくれた。そして、Mさんも、同じ誕生日(ぼくの二回り下)なのである。感謝。

味噌つくりが始まる

今年も味噌つくりのはじまりはじまり、の季節。
100人くらいの人が毎年参加される。塩は能登の塩を使う人が多い。
昨年の正月の大地震で、取引先の塩屋さんのじいちゃんが、家で罹災して亡くなられた。
とても、ショックで、残った塩でなんとか味噌つくりをやった。
途中で「売り切れ」になって、各自に「自分が一番と思っている塩」を持参して、
それぞれの「手前味噌」をつくってもらった。

天真庵で「ガレット」という、創業したからこっち、ずっとあるメニューがある。そば粉でクレープをつくり、中身に
「とろけるチーズ」プラス海苔一枚。それを、「かえし」で食べてもらっている。
その「のり」が大人気で、お持ち帰り商品の中で、一番人気。そばのお弟子さまたちは、同じように
「ガレット」をつくっているが、一般の人は「おにぎり」や「おにぎらず」をつくっているようだ。
その時も「能登の塩」を使うと、ワンランクアップする。
そばやの命の「かえし」にも、塩はとても重要。それもできないのか・・・?

と、なかばあきらめていた時、じいちゃんの娘さんから電話。
「生前たくさんお世話になってありがとうございました。なんとか父の塩をまたやらえせてもらおうと、準備してます」
とのこと。彼女は、山形に嫁いで、じいちやんの塩を使って、塩ラーメンのお店をご主人とやっておられる。
道もまだ復旧していない奥能登と、山形を行き来しながら、秋にまた電話があって「やっと、塩ができました」とのこと。

そんな物語があって、今年の味噌つくりは、以前と同じように「能登の塩」で仕込めることになった。
当たり前のことが、当たり前でなくなることが多い昨今。当たり前でなくなる前に「ありがたい」という
気持ちで過ごす大切さを、地震とか災害や病気になった時などに、気づくこと多しだ。感謝。

今日から営業。
今日明日は12時から16時。それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」
明後日、月曜日の朝は「玉子かけごはんですよ」