1984年の秋ころ・・・秋はっぱら?空きはっぱら(秋葉)で、小さな会社が産声をあげた。
今も、小さな会社のままで、古色蒼然たるカフェと、能登に小さな美術館を運営中・・
40年くらい続いているのは、奇跡。鬼籍に入るまで、続いているかもなんばん?
昨日、珈琲のお弟子様が、嫡男くんをつれて、蕎麦を手繰りにこられた。
暑い日だったけど、開店と同時にたくさんのお客さんがこられ、2時過ぎに蕎麦が売り切れになった。
その嫡男さんが、今日からカナダのバンクーバーに留学されるとのこと。バンクーバーと聞いて、
40年前の秋葉でのコトを思い出した。
ソフトバンクを横に卒業して、秋葉原の一階にオカマさんが経営する喫茶店があるビルの3階の
10坪くらいの事務所で起業した。ばったや(意味わかるかな?)さんが、赤字の会社をもっていて、
それを引き継ぐという形だった。その当時は株式会社をつくるのに、1000万の資本金が必要で、
上場前というか、よたよたして潰れそうな会社(日本ソフトバンクのこと)の薄給の若者に、そんなお金はあるわけもなく、
渡りに船とばかりに、その会社の役員を変更して、代表取締役になった。
創業そうそうに「パソコンらくらくレッスン」という学習ソフトが大ヒットして、いきなり全国区になった
のはいいけど、毎月の銀行の返済(といっても、前社長の借金)と、積み立て(小さな会社が小さな銀行と付き合う
場合、これにつきあわないと、信用ができなかった。たぶん、学校では教えないと思うけど、今もおなじ)
で、毎月末に150万くらい払っていた。サラリーマンの月収が20万くらいの時代。
そのソフトを開発してくれた天才少年(青学の大学院に通っていた)は、今は有名な国立大学のえらい教授になっている。
地獄のような創業期の資金繰りだったけど、彼と出会ったことが、人生最大の「運のよさ」だと今も思っている。
彼も「大学院の学費は、そのアルバイトのおかげ」と言ってくれてるのがうれしい。
その後も、株価分析のソフト「兜町」(これは、日経新聞の賞をいただいた)や、データコンバータなどで、順調に
会社は発展したけど、「返済・積み立て」は、きつかった。
完済したある日、銀行の支店長が会社にやってきて、「よく払いきりましたね。ぼくもびっくりしました。」
という。「そのお礼に、バンクーバにご招待したい」みたいなことを言った。
話の筋からいって「あごあし付き」だと思ったけど、結局50万くらい払わされた。なんということはない、
銀行が主催した旅行に欠員がでただけの話だった(笑)。それがバンクーバーで開けれた「交通万博」(誰も知らないと思うけど・・)
*ネットで「交通万博 バンクーバー」で検索すると、下記のような資料が見えた。
開催日程:1986年05月02日(昭和61年)~1986年10月13日(昭和61年)
開催地:海外
会場:バンクーバー
主催:カナダ政府・ブリティッシュ・コロンビア州政府・バンクーバー市
入場者:22,111,578人
カナダ・バンクーバーの市制100周年とカナダ大陸横断鉄道完成100周年を記念して開催した。テーマは「交通と通信 人類の発展と未来」である。「トランスポーテーション(交通)とコミュニケーション(通信)」現代社会に欠くことのできない2つのテーマが、雄大な自然を誇る西部カナダの玄関ロバンクーパーを舞台に開かれたのである。近未来都市になくてはならない新交通システムと、情報伝達のための新しいコミュニケーションシステムがどうあるべきかを目的・・・(略)
あまり万博のことは覚えていないけど、バンクーバーで知り合ったレストレンの日本人シェフが、赤いホンダのシビックで、夕陽が沈むバンクーバーの景色のいい海岸線を走って、ホテルにおくってくれたこと。その車の中でかかっていたのが、五輪真弓の「恋人よ」だったのと、3日ほど
滞在したバンフの空気感がたまらなく新鮮だったこと。次にくる時は、「鉄道の旅がしたい」と思った・・・思ったまま40年。
10年どころか、40年も「ひと昔」だ。人生は迷ったり、悩んだりする「時間」はなく終わってしまう。
命短し恋せよ乙女。旅せよ青年・・・ 感謝。