能登から弘前まで徘徊し、豊盃を飲んでいる

まさに、ヘベレケな徘徊旅。

筆子さんのじいちゃんは、弘前出身。明治25年生まれ。
おばあちゃんが、能登の富来出身。明治37年生まれ。
このふたりが、東京で出会って、筆子さんのお父さんが生まれ、
そのお父さんと群馬出身のお母さんが結婚して、筆子さんが生まれた。
ひとりの人間が誕生するには、壮大なロマンというか歴史がある。

平成7年、ぼくが39歳の時、大きな転機があった。
それまで順調だったかどうかわからないけど、少しITの世界に飽きて、
「ほかの生き方」を模索していた。ネット21いう、ITの業界団体の理事長を
おおせつかって(これはまったくの手弁当だった)けど、その仕事を半分、
自分の会社(その当時、3つの会社の社長やった)を半分、と、新しく「画廊」というか
「ギャラリー」みたいなことを始めた。「天真庵」の源流というか分水嶺みたいな時代。

そのころバブルが崩壊して、上池袋に、お化け屋敷みたいな大きな家が「短期間、貸します」
という看板をだした。家賃50万。
画廊をやるには、茶室もあり、廊下も広く、うってつけだったけど、どう見ても「何かがでそう」な家だった。

ぼくの故郷の北九州に「皿倉山」という山がある。霊山ではないけど、北九州の富士山。
その麓に、英彦山(ひこさん 霊山)で修行した「霊媒師」さんがいた。90歳まじかの仙人みたいな人だった。
その池袋の「お化け屋敷」をみてもらった。
「ここは何もでらんばい。いい家やけん、住んでもよか。何かが始まりますばい」・・・結論的にはそんな感じで、安心して、
近くの寿司屋で寿司をつまみ談論風発していたら、「あんたの奥さんやけど、弘前の神社の加護を
うけとるけん、一度お詣りにいきなさい」とことだった。

それから、毎年のように、東北に旅し、神社をめぐり岩木山を仰ぎ、岩木山神社や、胸肩神社などに参拝し、
じいちゃんが好きだった豊盃(青森の地酒)を飲むようなことを繰り返した。

今年は、新年に能登の家が罹災した。瓦がこわれ、水浸しになったけど、ボランティアさんやいろんな人
の援助もあって、なんとか住めるようになった。たぶん奇跡的に守られた感がある。
そこで、久しぶりに「岩木山にいこう」
ということになって、日曜日の朝から、ぶらぶらと車で弘前にやってきた。

今朝は、「雪の茅舎」の齋彌酒造店 と「一白水星」の福禄寿酒造をまわって、お酒を調達。(その酒蔵
の近くに、天真庵の常連さんが移住して「このほし」というおもしろいことをやっているO社長がいる。子供たちが
この難しい時代を輝きながら生きていけることを学ぶ学校みたいな会社。明日からキャンプらしい。
今日のお昼はO社長と食べた。)
どちらも、秋田の代表的な酒蔵。そして、そのまま弘前にやってきて、駅前のホテルをチェックインして、
近くの老舗の居酒屋で豊盃を飲んだ。二件目では陸奥八仙人、田酒を飲んだ。どれも青森のお酒は美味すぎる!

今、ホテルにもどって、メモ書きよろしく、ブログを書いている。
明日は大鰐温泉に泊まって、東京に出稼ぎにいく予定だ。日記にすると簡単だけど、濃い一日やった。感謝。