輪島にいく・・・またここから新しい未来が始まる!

今日は「土曜日」。この集落は「働きかた改革(生き方改革?)」で、土曜日は
一日「海にでない。船も、網も、もぐりも、釣りもしない日」だ。
そんなこともあって、隣のおばあちゃんが、昨日、カンパチ一尾、さざえを30匹
くらいくれた。だから夕べは、カンパチの刺身と、さざえの刺身で能登の地酒「遊穂」を一献。

今朝は、輪島のカフェから珈琲豆の注文がきたので、旧輪島駅前にある「翁」という喫茶店で
モーニング(ソーセージエッグ、スクランブルエッグ、バタートースト、珈琲で680円)を食べる。
罹災して家や店舗を失ったおばあちゃん(大きな声で、相談しあっていたので、すぐわかる)が、
3人で「コーヒーゼリー」を食べていた。やっぱりこんな「居場所」が大事だと痛感。

そのまま朝市通りの駐車場に車をとめて、被害の激しかった「朝市通り」を歩く。
知り合いの輪島塗の工房、居酒屋、などの焼け跡を見て、改めて茫然自失。6月からは解体工事が
始まった感はあるが、いろいろな問題が山積している。
天真庵の漆の器を造ってくれた工房も、門柱にYという屋号を残しただけで、廃墟になっていた。
安否はテレビのニュースで確認したけど、彼だけでなく、輪島塗の前途もきびしいものがある。
でも、焼けてしまい、まるで79年前の東京大空襲を間の当たりにしたような現場に立っていると、
「ここから、新しい未来が始まる」という声なき声が聞こえてきた。

営業を再開したカフェに「ほぼブラジル」を届け、「酒ブティックおくだ」で一升酒を6本東京に
おくってもらう。お店の玄関わきに、「#能登の酒を止めるな!」とメッセージが書いたビニール袋に、
「能登の地酒の四合瓶二本入り」が並べていた。「谷泉」の二本入りを買ってきた。
能登町にある鶴野酒造店は、大きな被害を受け、長崎の平戸の福田酒造が醸造を手伝ってくれた。
もともと「福田」は、九州でも品のある日本酒をつくる酒蔵として、知る人ぞ知る名酒であるとばい。

今宵は、Yで作ってもらった「輪島塗の盃台」に、久保さんが珠洲の珪藻土でつくってくれた「黄瀬戸の盃」を
おき、「谷泉#福海」がコラボした奇跡の日本酒をなみなみ注いで飲みたいと思う。
酒が飲みたくなるような、ほとばしるようなワクワクが、これから先もいっぱいありますように・・・

ラベルの文を、紹介・・・

店舗・酒蔵のすべてが全壊になり、酒造りができない、と絶望している中、この共同醸造のお話をいただきました。
お酒造りを続けれれること、誠に感慨深いです。この度は、温かいご支援をいただいた福田酒造様、応援していただいている皆様に
こころより感謝もうしあげます。私たちが能登のお酒を造り続けることで、能登の未来につながる復興ができると信じております。
福田酒造様と鶴野酒造店の化学反応をお楽しみくださいませ!
鶴野酒造 鶴野晋太郎

ラベルの最後に
*飲酒は20歳になってから。

とあるが、九州では、普通15歳くらいから解禁になる。
こんなすばらしい酒なら、12歳くらいでも、飲んでも「よか」と思う。感謝、しかない!

キスを釣りにいったら、野菜がいっぱい!

能登は、どんより曇っている。
「ちょい投げ」で、キスを狙った。
キスは、群れにあたると、入れ喰いになるので、釣り針を二つか三つつけて、
投げる。宗像に住んでいた高校時代まで、よく白石浜にいって釣った。
白石浜は、キス釣りのメッカで、大会が開催されるような釣り場だった。

そのころは、遠くに飛ばす。しかも、竿も二三本用意して、キスを狙っていた。
真夏の暑い中、よくやったものだ。クーラボックスに冷えたビールをいれて(笑)
一度、北九州から遊びにきた友達といっしょに釣っていて、
彼が熱中症になって、救急車を呼んだことがある。ひょっとしたら急性アルコール中毒?
入院することもなく、その日に宗像の家に
泊まっただけで、よくなった。彼の渾名は、高校生なのに「じいちゃん」だった。
あれから半世紀くらいたったけど、じいちゃんは、じいちゃんとして半世紀も生きたのだろうか?

今日は小さなキスが2尾だけ釣れた。
いつもの道(行と帰りは、すこし違うルート)、解体された家の隣で、おばあちゃんが野菜を収穫
していた。顔をあわすなり「こんにちわ」と笑った。「解体したんですね?」
「この集落で一番よ」とのこと。今は仮設住宅に住みながら、毎朝軽トラを運転して畑にくるらしい。
「仮設住宅では、なにもすることがないから」という。
「釣れた?」「ちんこいキスが2尾」というと、笊に収穫したばかりの、ナス、キュウリ、ピーマンを
くれた。「大漁になったね」とばあちゃんは笑った。

反対の立場で、自分が住む家を失ったとしたら、こんなことできるかな、と自問。ぜったい「否」と自答。
急いで帰って、昨日ドリップした「ほぼブラジル」のアイス珈琲をもっていった。
「かえって、悪いわね」といわれ、「な~んも な~んも」と能登弁で返した。
ほんとうは、返す言葉もないくらい、複雑な心境だった。

能登はやさしや 土までも

能登くらし一日目 痛快な肥後の女性のお話!

昨日の夕方東京をでて、信州のパーキングで仮眠し、能登の温泉につかって、
さきほど能登の家に到着。一日目は、男子厨房に入らず、「即飲み」と決めているので、
神子原(みこはら)で調達してきたお惣菜を酒肴に飲み始めた。
家のポストには、ネットで買った「うつみん」(内海聡)の「2025年日本はなくなる」(廣済堂出版)

今回、都知事選のダークホース?になる(それは、都民の精神的文化力しだい)
「内海聡」(うつみさとる)著の話題の本だ。東京都民だけだはなく、読んでほしい本だ。

本の「はじめに」がいきなり素敵じゃないけど、おもしろい話がのっているので紹介。

「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻(おり)で、我々が飼うのだ。
方法は、彼らに多少の贅沢と便利さを与えるだけでいい。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3S)
を解放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿は、我々の家畜だからだ。
家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。
そのためには、我々の財産でもある家畜の肉体は、長寿にさせなければならない。
(化学物質(小麦?コカコーラ?マック?ワクチン?)などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。
これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは勝利国の権利でもある」

これは1945年にアメリカの大統領になった「トルーマン」の言葉だ。それからこっち、歴代の大統領の
考え方は、スパイラルに継続されている。

・・・・・・ここで、昔の記憶が蘇って、ネットで「トルーマンを背負い投げした日本の女性」
で検索してら、「林田民子」(民ちゃん)さんのことがでてきて、「オーッ!」とおらんだ!
私ごとだけど、30年くらい前、熊本のIT企業と仕事をしていたので、よく熊本に飛んだ。
ある日、飛行機の横に座った矍鑠(かくしゃく)とした「くまもん」(有名な財界人)に、
「どこにも記録が残ってないばってん、こげな勇敢な熊本の女性がいたんです」といって、
林田民子さんの話を、まるで遺言みたいに静かな熊本弁でしてくれた。
東京にもどって、いろいろ調べてみたけど、どこにも記録が残っていなかった。

今話題の熊本の山鹿を舞台にした映画「骨なし灯篭」のプロデューサーは友人の「木庭民夫」さん。みんな「たみちゃん」と呼んでいる。
監督は、木庭撫子さん。
不思議だけど、熊本出身の演歌歌手水前寺清子さんの本名が「林田民子」さん。

興味がある方は、「トルーマンを背負い投げした日本の女性」で検索してみてほしい。きれいなお顔の写真も紹介されていた。

いつまでも「イエローモンキー」とか「猿の惑星」のモデルになって、アメリカの隷属になり続ける
ようなアホな日本をやめんとあかんばい。感謝。

今日は16時閉店・・・明日から7月5日(金)まで「能登休み」

全国的に梅は不作だけど、今日の仕事が終わってから能登へ梅仕事へいく。
「いい塩梅」に、自然の営みがさらさらと流れ、この星の「持続可能」が永劫に、と願う気持ちに相反して
、戦争や紛争や自然破壊が繰り返され、「ひょっとして、地球はあと10年もつのかしらん?」
と思うことしきりの今日このごろ。

東京都知事選は、「緑のたぬき」が安泰のようにマスコミが報道する。新しい風が吹けばいいのに・・・
と思いながら、都知事選に挑戦した「うつみん」が推奨する「還元くん」でつくった水素茶をゴクリと飲む。
うつみん、こと「内海聡(うつみさとる)」の声を、ユーチューブで検索して聞いてみると、「魑魅魍魎だらけで、見えない闇の
東京(日本)の今」がよくわかる。

先週、はす向かいのアコレで、梅酒をつくるために、焼酎の一升入りの紙パックを6本を買い、自転車の籠にいれた
おばあちゃんがバランスを壊して、転倒した。筆子さんが顛末を見ていたので、日傘と冷たい水をいれたコップを
もっていき、自分のスマホで自宅で留守中のおじいちゃんを呼び、救急車を呼んだ。
先日、おじいちゃんと、娘さんふたりがこられ「おかげで無事〇〇病院に入院して安心しました」と、
お菓子をもって挨拶にこられた。「ひさしぶりに、下町人情の幸せ家族を見たような気分だ」と思い、お菓子をパクリ
と口にいれ、能登の数馬酒造の「竹葉」(ちくは)を飲んだ。

17年前に、池袋から墨田にきて、天真庵を結んだ時、木造の長屋がいっぱい残っていて、
醤油や味噌を貸し借りするような日常が茶飯だったのに驚いた。最近は不動産バブルで、長屋が取り壊され、マンションや
建売住宅が雨後の筍状態の街に変貌してきた。小さな家で、寄り添うように生き暮らした家族が、相続や土地の売買で
骨肉の争いをするのが、日常茶飯になってきた。政治家だけでなく「今だけ、金だけ、自分だけ」をマニフェストか?。

今朝の新聞に「能登の酒蔵を、東北の酒蔵が救った」話が写真入りで大きくでていた。
能登町で酒蔵が津波で被災した数馬酒造に、東北の酒蔵さんがタンクをのせたトラックでかけつけ、仕込み中の酒を
東北で育てた話だ。5年ほど前に、珠洲で「小さなお茶会」があった。その会で、数馬酒造の若女将と席を同じにする縁に
恵まれ、天真庵でも「竹葉」をおくようになった。
酒のお店も、竹の葉の「笹」を冠する名店が多かった。池袋には「笹周」という囲炉裏で魚を焼き、酒を飲ませて
くれるお店があった。所説さるが、酒飲みが「ささ(笹)、ま、一杯」とかいいながら、徳利で酒を注ぐ所作からきた、
というのが有力説?
座敷遊びで「トラ、トラ、オオトラ」とかいいながら、歌い踊ることも「虎の絵のバックには、竹の葉が描かれている」
からの所以らしい。
お米よりも、小麦(しかも遺伝子組み換えの輸入もん)の摂取が多い日本。
日本酒よりもワインを好む「在日日本人」が増えた。ワインだと「ささ・・」という情緒が入る隙間がない。

6月24日は、世界的に「UFOの日」!

能登の羽咋(はくい)には、「コスモアイル羽咋」というUFOで村おこしに成功した場所がある。
最初は半信半疑で、遊びにいったばってん、はまってしまって、けっこう通った場所だ。
「サンダーくん」という宇宙人キャラもいて、楽しませてくれる。羽咋駅前からUFOの飾り物があったりして、
街あげてUFOワンダーランド。そのうち、いい物件があったら「UFO珈琲店」を開きたいとか思っている。
そのために、毎朝「UFO焙煎器」をふりふり、準備をしている今日このごろ。

ときどき、福島からきて、UFO珈琲を飲んでくれる女性が昨日も「こんにちわ」といって来店。
帰り際に「明日はUFOの日ですね」といって、笑った。
福島の飯野町に「UFOの里」という場所がある。「UFOの里」で検索すると、詳細がでてくる。
昨日が「UFOの日イブ」というか、日曜日なのでイベントがあったみたいだ。
「UFOを呼ぶ企画」などもあって、とても愉快な場所だ。

今日はこれから「玉子かけごはん」(8-10)
朝から暑いけど、炭火をおこして、羽釜でごはんを炊いた。
オコゲの匂いが部屋中に満ち満ちて、「日本人に生まれてよかった」を感じる朝。
明日は12時から16時まで営業。明後日から「能登休み」。
ちょっと梅のできが心配だけど、自然だからどうしようもない。感謝。

今日は

この海も隆起して砂浜に!

北陸も梅雨入りした。明後日から能登にもどり「梅仕事」をするので、梅雨の露はとても大事だけど、
能登半島の地盤が地震でゆるくなっているのと、ほとんどの家屋が、罹災して屋根もブルーシート
のまま、という状態なので、大雨は心配だ。我が家の屋根もブルーシートで、雨露を凌いでいるばってん、
いつまで?と心配するときりがない。

今日は、12時から16時まで営業。それから「UFO焙煎塾」「そば打ち教室」二階では「ゆるゆるヨガ」
明日の朝は「玉子かけごはん」

ゆるゆるヨガのかすみ先生は、ぼくのそばのお弟子さま。ベトナムや長崎のそば会にもスケットにきてくれた。
天真庵のHPに「寒山拾得美術館」という部屋がある。金沢のテレビ局の取材の動画の下に、
「平成30年10月16日」、つまり能登で美術館を始めた日の「海の写真」が掲載されている。かすみちゃんが撮影!
虹が海からでているような不思議なオーラの写真。さすがヨガの先生の感性。
2007年の能登地震の時に、震源地になった海でもあるが、今回も志賀町は震度7を記録し、
この海も4mくらい隆起した。テトラポットの陸側は、海ではなく砂浜になった。タコやイカが遊んでいた海が
テトラポットの向こう側に移動したことになる。テトラのところにいた黒鯛たちは、どこで生活しているのだろう?

一向に能登の復興がすすんでいないようにも思える。雨が家まで降りこんで、畳をほとんど廃棄した我が家の
診断(役所の人が外から見て判断する)は「一部損壊」。つまり、「自費で修理してください」とのこと。
うちの集落は、地盤が固いのか、全壊は少なく、「一部損壊」がほとんどだった。でも家の中の土壁が壊れたり、
サッシがはずれたり、あかなくなった家も多い。役所に不服を申したてると、「半壊」とかに診断が変わることもあるらしい。
半壊と診断されても、修理にかかる費用の補助は微々たるものだ。確か「全壊」になって支給される費用が600万。
「小屋」をたてるのが精いっぱい。地震保険なんて、「地震があったら何の役にもたたない」と、被災された人たちは言ってる。
マンションや高層ビルもなく、地下鉄もない能登に震度7の揺れがきて、このありさま。
「もしも東京にきたら・・・?」と、誰も考えたくないだろうけど、阿鼻叫喚の世界になるよね。
新築の家に、ソーラーパネルを無理やり設置?緑のたぬきが都知事に再選したら、「東京砂漠」どころか「東京地獄」やね。

風鈴の音色が昔を偲ぶ!

昨日は、梅雨入り?なのか東京はひがな一日雨だった。
今朝は朝から快晴で、暑くなりそうだ。表に風鈴をだした。
20年ちょっと前に、韓国の仁寺洞(インサドン)の骨董屋で買ったものだ。
青銅の鐘が三つぶら下がっていて、毎夏、涼やかな風音のような凛を楽しませてくれる。

そのころ、江古田にあった故「白井晟一」さんのアトリエによく遊びにいった。
次男の昱磨(いくま)さんとウマがあって、不思議な異空間の中で、いろんな話をした。
そんな縁で、天真庵に飾ってある時計や、ランプなどは、白井晟一さんコレクションを
引き継いだものだ。「生」という書も。ときどき若い建築家たちが集って「白井晟一を忍ぶ会」を、天真庵でやった。
そして、昱磨さんが設計した広島の高橋さんの雪花山房という「そば道場」に入門する奇縁をいただくことになり、
IT企業の足を洗って、そばやになった。

ある日、白井さん愛用の抹茶椀を見せてもらった。韓国を代表する(あちらの人間国宝)作家。
そのころ、時々仕事でソウルにいっていたので、その作家の家を訪ねた。
千漢鳳(チョン・ハンボン)先生。先生の家に、青銅の風鈴があって、「これ韓国で売ってますか?」
と無粋な質問をしたら、仁寺洞の骨董屋を教えてくれて、そこで手に入れた風鈴を20年以上楽しんでいる。

押上に天真庵を結んですぐ、おかまのMくんの紹介で武内さんに出会い、原田先生のお花の教室が始まった。宇部が自宅で
博多にも教室をもたれていた先生が、毎月東京にきて、お花を教えてくれた。多士済々な音楽家や料理人たちに
混じって、枯れ木も山のにぎわいよろしく、ぼくも花を生けた。
ある春の好日、玉露で有名な福岡県星野村のお寺で、お茶会があり、帰福した。
その時、京都から桜の木を運び、原田先生が生けた。
その茶会で使われた茶わんが、千漢鳳先生の高麗茶碗だった。原田先生も、茶人も、武内さんも、住む場所をかえ、
あの世で花やお茶を楽しんでおられる。
今朝は、そんなことを忍びながら、今年の玉露の新茶を喫茶去。もちろん星野村の玉露。感謝。

今日明日は12時から16時まで営業。そのあとは「UFO焙煎塾」「そば打ち教室」

ワクチンうつみ(ん)の立場に立って行動するお医者さんが、都知事選に!

東京は朝から雨が降っている。
昨日は朝からいい天気だったので、携帯用のソーラーパネルを、物干し部屋の屋根にしかけて、リュックに「還元くん茶」を
いれて錦糸町を徘徊散歩。
この移動式のソーラーパネルは、車の移動中は、シガレットなんじゃら(タバコの火をつけるソケット)に
差し込んでいると充電できる。車中泊で旅する人が増えているのと、今回の能登地震みたいに、ライフラインが
崩壊して避難所暮らしになった場合、ペットがいたりする家族は車で寝起きすることになるので、とても重宝だ。

都知事選がはじまった。小池さんが再選したら、都民の年越しそばは「緑のたぬき」になるのかしらん?
新築の家の屋根にはソーラパネルが強制的につけさせられるらしい。精神的文化力どころか、美的センスのカケラもない。
対抗するタレント議員も、トウがたってきた。もともと、ふたりとも「哲」が感じられない。ふたりがふんどしして、国技館の土俵で決着をつける、というのは如何?
人気力士とまちがえて、つい「エンホー!」と応援しそうになるけど・・・

錦糸町の駅前にいくと、都知事選のパネルに写真が張り出された。ふたりの女力士と、「6番」のところに、
青いシャツを着た青年のポスターが貼ってあった。
その青いポスターが「うつみん」こと、内海聡(うつみ さとる)。本業は医者。ワクチンうつみ(ん)の立場に立って行動するお医者さん!
さとる・・・サルトルに似た「哲」を感じる。
ネットで「内海聡」で検索すると、いろんな著作がでてくる。医者でありながら「新型ワクチンの正体は?」「日本人はガンで殺される」
みたいな本や、マンガ本で、日本の医師会や薬の弊害、食べ物の危険などが警鐘されていて、とてもわかりやすい。
魑魅魍魎が跋扈する永田町や都庁を相手にして、簡単に勝利するとは思えないが、勇気ある行動に拍手
したい。思わず、リュックの中から「還元くん茶」を取り出して、ゴクリと飲んだ。爽快だ!

この「還元くん茶」も、うつみんの推薦する水素茶。
彼の「まだ誰も知らない《水素と電子》のハナシ 」という本に、詳しく書いてある。
少しまじめに「これからのこと」を考えていく時が、きたかもなんばん。感謝。

ウナギの話・・・

まだ梅雨入りはしてないばってん、蒸し暑くなってきた。
そんな時には「うなぎを食べたくなる?」・・
というか、「うなぎを食べるときは、どこにいきますか?」
などという話になる。

昨日の夕方、ナベサダのバッハを聴いていたら、N郷のYさんが珈琲を飲みにこられた。
九州で仕事をする時は、黒崎の「田舎庵」でうなぎを食べるそうだ。小倉と黒崎に
あるのだが、N郷のうなぎ好きの仲間たちも、「黒崎」に軍配をあげるらしい。
今回ひさしぶりに黒崎にいったので、寄ってみようと思ったけど、黒崎駅前のアーケードの
中の、「おむすび YO-KA-YO (よかよ)」というキッチンカーでおむすびを売っていた美形の笑顔にひかれ、
うなぎが、おむすびになった。

東京で「うなぎ」を食べるときは、キラキラ商店街の「ぶんかん」の手前の店(店の名前は知らない)
にいく。何年か前に鬼籍に入られたけど、生涯現役だったおばあちゃんがいた働き方が好きで、
ときどきいった。うなぎ前?(そばができるまでに飲む酒を、「そば前」という)に、板わさなどを酒肴に
菊政宗のぬる燗を飲む、のが好きだった。
おばあちゃんがいなくなってから、亀戸の小さなうなぎやにときどきいく。この店のうなぎ前は、「常温の〇〇」
のみ。開店以来40年、変わらない頑固さがいい。正直いうと、「うなぎ」はあまり好物ではない。
「うなぎ前」を楽しむために、ときどき、気まぐれに「うなぎや」の暖簾をくぐるだけだ。
だから、評判のお店や、並ぶようなお店には入ったことがない(笑)

そのうなぎやの「常温の〇〇」の影響で、最近は夏でも燗か常温の日本酒を飲むことが多くなった。
昨日の朝、久保さんから新作の「黄瀬戸(きせと)」の徳利が届いた。小ぶりで、緑の「タンパン」と「コゲ」の風合いがいい。
玉子かけごはんが終わって、昼の準備をしている最中だったけど、カウンターに並べて、眺めていたら、酒が飲みたくなった。ので、
ひとつ選んで、常温の能登誉をいれて、同じキセトのぐいのみで飲んだ。五臓六腑に染みわたる。
最近は、夏吟とかいって、アルコール度数の少ない日本酒を、グラスやワイングラスで飲むような輩が多く
なってきたけど、やはり日本酒は、徳利からぐい呑みに入れて飲むのがいい。昨日は飲酒運転いや飲酒営業だった。

酒飲みのことを「左党」とか「左利き」いう。大工は、左手に「鑿(のみ)」、右手に「金槌(かなずち)」を持つ。
「左手にのみ」の洒落で、左党になった。
徳利・・・・酒席で、一番気が利くやつが、「ま、社長一献」とか「先輩、どうぞ」
とか上手に場を盛り上げてくれる。つまり「徳のあるやつが、利かせる器」、という素晴らしいネーミングなのだ。
利害得失のみで行動する日本人が増えてきたのは、「徳利文化」が絶滅危惧種になったのと大きく関係するのではなかろうか。
たまには、スマホのスイッチをオフにして、徳利の首をつまんでみないか?お金にはかえられない「ゆたかさ」がひろがる。感謝。

月曜の朝は玉子かけごはん!

今日は朝から晴天な~り、の東京。急に暑くなったので、救急車のサイレンがよく鳴る。
物干し部屋の屋根にソーラパネルをのせる。
近所の散歩中の老人たちに「何しているの?」とよく聞かれる。

「貧乏で電気代を工面できないので、おてんとうさまに頼んでタダで電気をおくってもらっています」
と答えている。

先日も救急車を呼んだ。前のアコレで買い物をしたおばあちゃんが、チャリンコに荷物をのせ、
のろうとしたらバランスを壊して転倒した。すぐに筆子さんが通りを渡り、お水と日傘をもって対応。
自宅で留守番してるおじいちゃんと、救急車を呼んだ。事故扱いになるため、パトカーもきた。
こないだ、ソフトバンク時代の後輩が酩酊して、パトカーがきたので、「まいど」というか、顔見知りになった。
能登弁でいう「な~んも な~んも」のレベルだけど、夕方家族の方がこられたり、アコレの従業員からお礼の電話
がきたり、で、忙しかった。正式ではないばってん、筆子さんは「下町の見守り隊」の隊員でもある。

17年もお店を続けているので、自分たちもお客さんも17年加齢した。
老害の代表たる「自慢する」「昔話をする」「説教をする」を、日常茶飯のようにする人も増える。
あまりにひどいと、「最近、自慢話(あるいは、昔話、説教)が多いね。まわりにきらわれるよ」と、一言おせっかい。
二度とこない人になる場合が多いし、その場は傷つけていると思うけど・・・
ぼくらも老害がひどくなった時は、静かに緞帳を下げたいと思っている。

新しいUFOを毎日使って焙煎している。一度に200gの焙煎ができるので、カフェなどから2とか3kとか大口
で注文がこない場合は充分対応できる。できあがった珈琲豆のチャフを上手に飛ばす、という一点のみ、工夫
が必要。ぼくは、木の洗面桶にいれて、表の通りのところで飛ばす。
お店が路面でないところは、少し工夫が必要かもなんばん。

そろそろ「玉子かけごはん」が始まる。
珪藻土の竈で炊いた「ごはん」は、こんがりとオコゲができ、冷えても筆舌を超えた、超絶技巧のごはん。
能登の「大谷塩」で、おむすびをつくると、3つはいける。
一月に塩作りの名人・中前賢一さんが自宅が地震で崩壊して亡くなれれた。先日、山形に嫁いだ娘さん
から手紙がきて、「父の意志をついで、復活させます」という朗報。あまりのうれしさに、少し残しておいた「大谷塩」
を、久保さんの焼き締めの豆皿にいれ、それをなめなめ、遊穂(UFO 能登の地酒)を飲んだ。

能登はやさしや 土も塩も酒までも

「人は死んでも、生きている。」  を実感。感謝。