そんなことが今朝の朝刊にあった。今は高齢者が65歳。後期高齢者が75歳ということになっている。
高齢者が5割を超える地域は「限界集落」といわれる。全国津々浦々、
限界集落になりつつある。言葉の定義など、あまりやくにたたない。
高齢者が70歳になると、67歳のぼくは、また「若者」にもどる?そんなバカな、だ。
ちょっと「若い」とおだてられ、年金の受給が5年先になる、だけのようなものだ。
人はこの世にオギャーと生まれた瞬間から、老いに向かい、100%死に向かっている。
「老衰」や「ガン」で死ぬのではない。「生まれてきたから死ぬのである」
最近よくお店に、「リハビリのために歩くようにしていて、下町散歩の途中で『このお店入りにくいけど(余計なお世話)、おもしろそうなのできました』みたいなじいちゃんやじいちゃん予備軍みたいな人が立ち寄られる。
ガンを罹病して草加からチャリンコで片道一時間かけてくるオヤジや、東陽町から歩いてくるオヤジ・・・・そんな元気なオヤジ
たちが、あまたやってくる。迎えるこちらも、骨董品のように古色がついて、彼らと旧交よろしく「昭和」の話をしたりしながら「今ここ」
に感謝しながら生き暮らしている。♪時には娼婦のように・・・・「昭和」には艶っぽい歌がいっぱいあった。
先日、「能登の志賀町出身」という84歳のじいちゃんが、7歳下の奥方をつれて、そばを手繰りにこられた。
6人兄弟の4番目で、高校をでるとすぐに東京下町の町工場に就職し、40を超えて独立。76歳まで働いたけど、工場の建物が
台風で倒れて、神様が『このへんでやめとき』と言ってくださってる、と思い緞帳を下げた」みたいな人生を話しながら、
「能登誉」を、常温で3合飲んで〆のそばを手繰っていかれた。帰りに「メモ用紙」を所望され、自分の住所と電話番号、91歳の長男
が継いだ生家の住所と屋号(能登はまだ屋号でやりとりをしゅる風習がある)を書いて、「親戚みたいなもんだから、飲みにきて」
といって笑った。盃を交換したら兄弟になる昭和のヤクザ映画さながらの話だけど、なんとなくうれしくなった。
昨日は近くの「お世話しあうハウス」の女将さんが、そばを手繰りにきた。84歳になる。毎朝、近所のおばあちゃんたちを散歩に連れていったり、朝ごはん、昼ごはんをつくって、無料でふるまったり、時には病院に連れていったり・・・の大忙しで、みんなの昼ごはんが終わった
後、2時から3時くらいに「自分の一食目」といって、そばを手繰りにこられる。
昨日は、紙おむつを洗濯機にいれたままのおばあちゃんの洗濯をして、バリバリなったパンツの破片が洗濯機の中にこびりついたのを、
手が届かないので、しゃもじを使って掃除をした話を、涙があふれるくらい笑いながら、そばを手繰っていかれた。
「もったいない」の精神で生きてきた昭和初期のおばあちゃんは、紙おむつを使い捨てにするのは忍びないらしい。
人は100%死ぬし、だれもが高齢者や後期高齢者になっていく。
高齢化社会というのは、まわりに「自分がそう遠くないうちにいく道」を示してくれる先輩がたくさんいらっしゃる素晴らしい社会
でもある。そんなことを思いながら、5時から元気にそばを打っていたら、携帯にメールがきた。マツモトキヨシさまから生豆の注文だ。
お互いに、昭和のころIT企業を起こして、バリバリやっていた時代もあったが、彼は百姓になり、
ぼくはそばやになった。でも最近、彼はキッチウンカーを手にいれ、UFOで焙煎をはじめ、今年からお米をつくり、能登の珪藻土竈で
自作の米を極上の「ごはん」にして、おにぎりやの移動販売?でも始めるのかもなんばん。珈琲やになったら、ライバルになる(笑)
いくつになっても「夢」をもっている人は、新米のようにピカピカとオーラを放っている。みんな道の途中だ。感謝。