能登の家には、毎朝、野良ネコさんたちが5匹くる。うち二匹はお腹に赤ちゃんをかかえている。
この厳しい環境で、野にくだって(自分の意志ではないか?)、生きていくのは
、けっこう縄文的だなあ、と思う。
毎月、10日しか能登で暮らさないので、残りの20日は、空き家の軒先などで、雨露をさけ、
やさいいじいちゃんばあちゃんから、托鉢ものを押し頂きながら、命脈を保っているのだろう。
能登で暮らす10日間の食料は、毎朝目の前の海でタコをとってきたり、魚を釣ったり、
釣れなかったら、トボトボと歩いていると、近所のおばあちゃんが畑でとれた野菜などをくれる。
今回は、毎朝のように「生わかめ」をちょうだいし、魚が入るはずだったビニール袋いっぱいもって、
家にもどる。味噌汁の具になったり、お湯を沸かして鍋の中にいしるをいれ、しゃぶしゃぶにすると、
家中に磯の春の香りが満ちる。湯がいて冷凍すると、保存食にもなる。布刈神社さんありがとう。
駐車場の裏の畑のまわりは、ヨモギと三つ葉が自生している。ヨモギは湯がいて冷凍しておくと、一年近く
持つ。というか、お湯にいれて、冷凍しても栄養分がかわなく、冬に「よもぎもち」をつくって、囲炉裏で
焼く味は、筆舌を超える美味だ。
そんなこんなで、能登暮らしでは、食費はあまりかからいけど、ネコの餌が、我が家のエンゲル係数をあげているみたいだ。
今日も晴天なので、畳を干し、濡れた着物や布団を干した。
野良ネコたちは、畳のうしろで昼寝をしたり、畳で爪とぎをしたりで、のたりのたりかな。
「飼っている」つもりはないけど、なんとなく「家族」みたいな関係になってきた。みんな幸せそうだ!
幸せは、不幸な顔してやってきたり。一見幸せそうに見える人が、おおきな不幸をかかえていたり・・・
幸不幸、というのは、表裏一体だと思う。
石川出身の浅川マキさんの歌「ふしあわせという名の猫」を思い出した。寺山修司さんが作詞・・・
彼女は、うちの隣に隣に住んでいたジャズドラマーのセシルと名古屋でいっしょにライブをしている時、宿泊先のホテルで
突然召された。その一年後に、セシルが千葉の海で亡くなった。
事故や病気で人は死ぬのではない。「生まれてきたから、遅い早いはあるけどみんな死ぬのだ」を、同じ年回りの友人たちの生きざまを
垣間見て、そう思うようになった。天恩感謝。
不幸せという名の 猫がいる
いつも私のそばに ぴったり寄りそっている
不幸せという名の 猫がいる
だから私は いつも ひとりぼっちじゃない
この次春が来たなら 迎えに来るといった あの人の嘘つき
もう春なんか 来やしない 来やしない
不幸せという名の 猫がいる
いつも私のそばに ぴったり寄りそっている
この次春が来たなら 迎えに来るといった あの人の嘘つき
もう春なんか 来やしない 来やしない
不幸せという名の 猫がいる
いつも私のそばに ぴったり寄りそっている