お店の近くに、この界隈では、もっとも古いマンションがある。
おのずと、独居老人が多い。平均年齢の差とか、生命力の差とかで、圧倒的に
女性の独居老人が多い。老人施設にいっても、黄金比のように、男と女が1対10
くらい。「もてない」とお嘆きの男たちよ、体を鍛えて、いや養生して長生きすれば、
黄金のもてきがくるかもなんばん。
「お世話しあうはうす」と勝手に名付けたそのマンションのお世話役さんは、齢80歳。
朝ごはん、散歩、昼ごはん、夕ご飯、ときどき病院の付き添いなど、まるで「忘己利他」
の精神でおばあちゃんたちの面倒を見ている。福井県出身で、そば好きのため、よく蕎麦を
手繰りにこられる。料理上手でよく、お流れを頂戴するんだけど、「やっぱり、人がつくってくれたもの
のほうがおいしい」、と笑う。
兄弟がまだ福井にいて「かえってこないか?」と言われるそうだが、まったくその意志がない。
ときどき散歩の延長で、いろんな美術館めぐりをしたり、その時にいくカフェやレストランで「おひとりさま」
や「友達と談論風発」という楽しみは、東京が一番、という理由。天真庵に飾ってある「生」の額を見て、
「白井晟一の書ですね」といったのは、3人くらいしかいない。(おかまのMくん、白井さんの後輩の京都工芸繊維大学出身の建築家のF)
についで3人目。
そのおばあちゃんが、先月手書きのメモをくれた。
福井の越前そばのお店とか、おいしいお店、名所旧跡などがメモされていた。
今回は、2泊くらいして福井をまわる予定が、京都で用ができたので、鯖街道を走って上洛した。
その時、たちよったところで、「いいとこだな」と思ったのが、熊川宿。
日本海に面した小浜という港から、琵琶湖畔の今津にいく山越えの道に、藩政時代につくられた宿場町だ。
この熊川からすこし東の保坂で分岐し、大原から京都に入る道が「鯖街道」。
新幹線で京都にいき、そこから大原あたりのお店で「鯖寿司」を食べるのと、若狭から鯖街道を
下っていくのでは、気持ちがまったく違うことを痛感。能登で暮らすようになってわかったのは、
海の塩味がちがうし、当然ながら「塩」が違う。さばそのものも違う。しかも新鮮なうちに届けようと、
鯖をかかえて、走って上洛した古人の気持ちが違う。
「あ、京都のさばおいしい・・・ぼりぼり」とただ喰らうだけの人生だと、味わえないものがある。
昨日、2001年発行の「チルチンびと」(このチルチンは愛読雑誌)に、熊川に住む中学生の文を見つけた。22年前だから、今は
もうおっさんになっているだろうけど・・・
(前略)自分は12年しかいきてこないけれど、熊川で育ったせいかこの家に愛着がある。
トイレはおとし、風呂はゴエモン、ゴキブリホイホイにヘビのかかる家だ。暗くて狭くて湿ていて、
おまけにかたむいているときている。家としては最悪だ。なのに捨てがたいものがある。それはなぜだろうか。
(略)
古い家だけど、母は掃除魔でいつも家の中はピカピカ。窓ふき係はぼくと妹。トタンがさびれば、祖父がコールタールを塗る。
えんとつ掃除は父の仕事。お客さんは人間だけなく、サルも来る。イヌも来る。キジは来ないが、ツバメがくる。ネズミもでるし、
ネコもでる。軒下はクマンバチの穴だらけ。窓にはヤモリがはりついて、クモはしつこく巣をはって、トンボが縦横に通り抜け、
内庭はカエルとセミの大合唱。春はいい。用を足しながら、ウグイスの声。心和む珍客はかわいいホタルくん。
僕らはこうして、この家と四季折々の変化と数々の喜怒哀楽を共にしてきたのである・・・・・
たぶん、この少年の手記はなんども読んだ。そしていつかいこう、と思っていた街にたどり着いた。
ちょうど駐車場に、福岡ナンバーのランクルがとまり、中年の女性がでてきて、「いい街ですね」
と、懐かしい九州弁でつぶやいたので、「福岡のどちらからきたと?」と聞いたら、「知らないと思いますが、
ムナカタです」とのこと。「ぼくはムナコウばい(宗像高校)」といったら、目を丸くしていた。
「子供もひとりだちして、はじめて北陸まで予定もないひとり旅をしてます」とのこと。
人生は旅やね。旅は哲だな~ 感謝。