円安に歯止めがかからず、200円、いや300円時代になる、とか
相変わらず、一寸先は光、と真逆の経済予測や暮らし方ハウツー本などが
本屋にも並んでいる。老後は相変わらず、2000万の貯蓄が必要とか、空き家になった実家を
売れ、売るな・・70歳いや80歳に「壁」ができたり(ひと昔前には、バカの壁もできたり・・・
いろいろ忙しい。とどのつまりは「お金」の問題というか、今のマネー資本主義の中で生き暮らして
いるぼくたちの、窮屈な現状をどげんかできんね・・ということなのか?
一方、「このままではいけない」と違う生き方を模索しだした人たちもいる。「田舎にいったら、月収はどのくらいになりますか?」
とか「どんな仕事をして暮らしていけるのですか?」とか、頓珍漢な質問を投げかけられることも多いけど、ようは
「その人らしく生きる」を自分に問いかければ、答えがでてくるのではなかろうか?「ここ」がきまれば「ただ生きる」
だけのことだけど、その「ただ」ができないのが、人間の悲しい性(さが)なのだ。
本来、生きていくために必要な「水」「空気」「食料」・・・・は、ほとんどが「タダ」やった。神様がぜんぶ用意して
くれていた。それが便利な暮らしを求めて、住みやすい都市で、お金を稼いで、それらを買うのが「暮らし」になってから、
「お金」のことをまず先に考えんといかんようになった。ゆりかごから墓場まで、ひょっとしたら、その後の魂の供養まで@「お金」。
田舎暮らし(といっても月10日)、をし始めて、「水」は能登の霊水を汲んでくるので、そば打ち(50%が水)、珈琲・お茶
(99%が水)、料理などに、良質の水を使えている。能登の生活中も、その水を使っている。空気は東京も能登もタダだけど、
行き来していると、質の違いにびっくり。当たり前だけど、人口が少なく、自然が残っている田舎のほうが断然おいしい。
限界集落が云々いわれているけど、結局自然を壊したり、水や空気が汚染される原因は、「人間」なのだ。
少子高齢化の先、この星に人間がだけもいなくなったら、戦争もおきないだろうし、自然問題はほぼゼロになるんとちゃうかな。
昨日は「卵かけごはん」やった。550円で竈で炊いたごはん、具だくさんの手前味噌汁、お漬物がついている。
近くのチーズケーキやさんが、「あまりものですが」といって、チーズケーキをもってきてくれた。
彼は、昨年お店を開いた。おせっかいだけど、個人経営の喫茶店なんて、平均寿命が3年もないので、「やるんなら自家焙煎したほうが
いいよ」と、珪藻土焙煎器UFOを押し売りし、焙煎のやり方を少し伝授した。先日きた常連さんの女子の話だと「天真庵より美味しい」
とのことだ。すばらしいこっちゃ(笑)
その後、酒飲み仲間のともちゃんがみかんを持参してくれたので、九州から運んできた「野菜」とぶつぶつ交換。
10時に「卵かけごはん」が終わり、自分たちも「卵かけごはん」を食べ、デザートにチーズケーキ&みかん・・・
素晴らしい「原始的ぶつぶつ交換」が成り立っている。
12時から通常営業。3時のおやつ時間に、近くに住む「お世話しあうハウス」の80歳になるおばあちゃんが、
「田舎からおくられてきたので食べて」といって、西洋梨をふたつくれた。「たべごろは、週末ね」とのこと。
入れ替わりに、同じく齢(よわい)80超えだけど、よわくない、矍鑠としたかっぽれの先生が「今川焼食べない」
と、餡子たっぷりの今川焼(九州では回転饅頭という)をくれた。ふたりにも、九州産の無農薬の「レモン」を
お返し。ちょっと、甘いものを食べすぎの月曜日・・・
閉店まじかに、珈琲のお弟子さまが、自作の野菜(春菊・ベビーリーフ)などをもってきてくれた。
そばかす(ガレットの材料)と、瞬時にぶつぶつ交換。
続いて、お隣のおばちゃんが「新鮮なかぶをお届けです」といって、宅配人よろいしく、美味そうな蕪を
3つくれた。「お返しは、今干している柿が干し柿になってからでいいわよ」と、催促のようなことをいって
大笑いして帰っていった。
毎日のように「UFO」とか「うめ星」とか、不思議なモノが売れるへんなお店だけど、よくよく鳥観図みたいに
このお店にくる人たちを眺めてみると、そちらのほうが「不思議で愛すべき人たち」であふれている。
今朝の朝日新聞の「折々のことば」は、父親の介護のために会社を辞め、東京と鹿児島を行き来している男性の
言葉を紹介していた。
・・(略)仕事と介護を両立させるのは人と「分かちあう感覚」であることと、もうひとつは、難局で頼れるのが愛すべき
「愚かな隣人」たちだということ。人生で大事なのは人としてのこの愛嬌なのかも。
値千金のことば、だ。感謝。