昨日は「卵かけごはん」(月曜の朝は、珪藻土竈(かまど)で、卵かけごはん)
珪藻土竈で6合のごはんを炊き、余った炭を小さな珪藻土七輪に入れ、炭火焙煎・・・
4回焙煎しても、まだ炭が残っているので、それで麦茶を沸かす。麦茶が冷めたら、「還元くん」で
つくった玉露の水素茶にまぜて冷蔵庫。月曜日の朝は、そんな流れのルーチンワーク。
「仕事」というよりも、「遊び」に近いくらいな感覚。おもしろくてしょうがない。
「竈炊き」のオコゲを求めて、ここんところ月曜日の朝が人気になってきた。
デミで供する「ほぼぶらじる」も、焙煎仕立ての炭酸ガスいっぱいの新鮮が味わえるし、
「週初めの朝」が満喫できる?
今月から「珈琲椀」が新しくなった。「高台(こうだい)」がついた。
世紀がまたがる2000年の前後、よくニューヨークにいった。久保さんの陶展もあちらで何度かやった。
「日米アマチュア陶芸コンテスト」の手伝いもしていた。上位入賞者の「抹茶茶碗」に「高台」が
ついていないのには驚いた。3年目あたりから、抹茶茶碗には高台がついていたけど(笑)。昔から日本の器には、「こうだ」といわんばかりに、「高台」がついている。
優勝者は、東京ニューヨークの往復チケット、
みたいな豪華版だった。手弁当で運営していたけど、ドネーション(寄付)が当たり前のニューヨーカーたちの心意気に
びっくりした。日本はバブルがはじけ、このあたりから芸術とか美術に、いやそればかりか身のまわりの「粋」なことに、
「身銭を切る」という風習がなくなったように思う。
それからこっち、サラリーマンの給与はあがらず、食べ物も身のまわりのモノも「安さ」に焦点がいって、
ほとんどの身のまわりのものが「一生使う価値がない」ものであふれ、断捨離の対象品になっている。
「にわかお金もち」になっても、そのお金でまたお金を追ってるような輩なかり。。
お気に入りのお茶碗でお茶を飲んでいた時代みたいに、自宅で珈琲を飲む時も、高台付きの椀で飲もう、
とばかりに、久保さんにお願いして新しい時代の「珈琲カップ」をつくってもらった。
あまり目立たない足元に品格がにじみ出る、みたいに、隠れたお洒落心を彷彿させる。珈琲を飲む時に「かっこいい」
と思われるようなカップである。
諸物価があがり、ますますわれわれ庶民の家計が赤字に向かう傾向があるけど、朝一杯、仕事あけの一杯の珈琲くらいは、
「こだわりの器」で飲みたいものだ。ほんとうに、いい珈琲カップができた。これをもって、またニューヨークのギャラリーに
いきたくなってきた。感謝。