阪神タイガースゆかりの書・・ウソ
昨日は、15年前に、この建物を改装してくれた中心人物たちが、
カウンターにずらっと座って、珈琲を飲みながら「今年もよろしく」の会。
ぼくがその当時50歳。彼らは芸大を卒業した直後から、池袋の天真庵で
個展をやったり、お酒の会や、きのこの会(毒キノコにあたって病院にいった経験も)、タコフェスタ(たことりの名人もいた)、
大塚阿波踊りの警察沙汰事件・・・いろんなヤンチャな経験の後、押上天真庵の改装をやってくれた。そんな彼らも、同じく
15年の年を加え50歳、寄る年波の季節を迎えている。
当時は二階が、飯場になっていて、キャンプ用のバーナーで、ご飯を炊いたり、煮炊きをしながら、
土日には、見習いと手伝いを兼ねて、多士済々の若者たちが集って、がんばってくれた。
ぼくは、池袋から毎日のように通ってきて、彼らに差し入れをしたり、ときどき飲みに連れていってガス抜きを
したりしていた。ある日、焙煎したての珈琲豆をもっていって、珈琲を淹れたら、棟梁?の中西くんが、
「今日のブレンドはどんな豆を使っているんですか?」と真顔で聞いた。「いつも、ブラジル、ガテマラ、
コロンビアと、あと一種。でもブラジルを深煎り、浅煎りと二種類焙煎するので、ブラジル中心の珈琲や」
と、説明したら、「ふーん。ホボブラジルですね」と、返して笑った。
彼らは、力道山もボボブラジルの時代でもないのに、不思議だな~、と思っていたら、改装中の家の中に
「ぼぼブラジル・すごろく」を発見したことを告白された。
そんな不思議な邂逅があり、「その名前いただきま~す」ということになり、それからこっち15年間、
天真庵で供する珈琲豆は「ほぼブラジル」いっぽんで、昨年からは、能登珪藻土七輪を使い、炭火で焼いたものをブレンドしている。
その飯場の壁に、べんがら色の和紙を貼って、ガラスの置き床をつくり、床の間にみたて、季節ごとに、
いろいろな掛け軸を飾ったり、季節の花を飾ったりしながら、お茶を教えたり、かっぽれや、ヨガの教室
になったりしている。「床の間」という空間は、さながらどこの家にもあった「その家の美術館」である。
今日は、同心の織田流煎茶道の人たちが、二階で「初煎会」をやることにあいなった。煎茶は、京都の黄檗山に中国から
招かれてこられた隠元和尚を祖とする。インゲン豆、の隠元和尚。お茶・禅・書を日本に紹介された。
二代目の木庵(もくあん)さんも中国人で、隠元・木庵・即非(そくひ)の「書」を「黄檗三筆」という。
今年は「寅」年。木庵の「寅」を、能登の家からもってきてかけた。つい五年ほど前まで、
中国バブルで、中国のナリキンどもが、日本に渡ってきた中国の美術品を取り戻すブームがあり、
「渡り」と呼ばれる中国モノの値段が沸騰した。黄檗三筆は、一本1000万くらいまでいった。
たまたま、銀座や京都に骨董屋によく通っていたので、
「隠元」「木庵」などの書を、京都では清水の舞台から飛び込む気で、東京では東京タワーから飛び降りる気で、
何本も買った歴、いや癖?がある。自殺はしたことも、思ったこともないばってん、骨董を買う瞬間は、「ままよ きんたま おとこのこ」
よろしく、スリルと度胸と気合・・いろんな気が爆発するような瞬間で、そこが最高で買った後は、一度も見ないものもあったり・・。
「女道楽」や「なんやら道楽」と共通する性質がある。あまりお金に縁が薄い質(たち)なので、この書たちを売ろう、なんて
思ったことは一度もない。
この「寅」は、黄檗の禅が、🐯の鬣(たてがみ)のように、風に吹かれて、世界中に広がっていきますように・・・
との願いの賛が書かれた軸だ。400年近く前に書かれたものだけど、今でも筆の勢いがその当時のままで、
墨の香りが残っているような風合いの軸でもある。
今日は、この書を眺めながら、とびきり美味しい玉露が飲めそうだ。感謝。