能登に半分暮らすようになって3年。日本には四季があるので、
かける4で、12年くらい暮らしている感がある。
昨日は金沢の般若家の人たちが、一泊二日で遊びにきた。
天真庵の玄関や、椅子、李朝棚、文机は、彼が作ってくれた。
そばの折敷(おしき)もそうだ。14年ぶりに、とうで編んだ椅子の張り替えは
春に終了。
能登の家には、彼の若いころつくった(卒業記念)の茶箪笥がある。
「今のもの」という個展(池袋の天真庵で開催していた)で、「しょっしゃ、わしが買うわ」
と買ったものだ。それから、それにあわせて、茶櫃(ちゃびつ)を作ってもらい、その中身の急須
や茶碗を久保さんにつくってもらった。そんな時、青山の骨董屋で、織田流煎茶道の家元と出会い、
「織田流煎茶道」を学び、お免状までいただいた。
「道具は道具を呼ぶ」と骨董の世界の名言があるが、押上に天真庵を移してから、
お茶のお弟子様を含め、「奇人」(尊敬の意が8割)が道具に集まってきた感がある。
般若くんの奥方になったヨッシー(今でもそう呼ぶ)、も、ベルギーにビオラ留学の後、天真庵
の近くの家(ぼくが紹介し、家賃交渉までした(笑))に住み、ある日、打ち合わせにきた般若くん
とカウンターにとまった縁で、結婚することになった。「絶対に仲人になるな」という家訓を一度だけやぶり、
ふたりの媒酌人になり、結ばれた縁でできた「むすめ」の命名にも、一役かわせてもろうた。
その娘たちふたりは、小学生になり、ぼくのことを「えーちゃん(ときどき、能登のじいちゃん)」と呼ぶ。
彼らが遊びに来るとき、金沢の市場で、どじょうのかば焼き(何店かあるみたい)を買ってきてくれる。
昔は全国どこでも、どじょうがとれて、丸鍋にしたり、柳川にしたり、かば焼きにしたものが食卓にあがった。
やっぱり、除草剤とか農薬とか化学肥料などの使いすぎで、絶滅危惧種みたいになった。東京でも
ぱっとうかぶのは、浅草界隈の老舗で、いっぱんの料理屋のメニューで見ることは稀有になっている。
このコロナ時代、東京のみならず、全国の飲食店も絶滅危惧種になりつつある。天真庵も、ライブや夜の
勉強会もなくなり、そば前という名のお酒もご法度で、青色吐息の毎日である。
能登の町役場でも、その地の飲食店を応援しようということで「プレミアム食事券を発行した。
ぼくらの住む「志賀町」のプレミアム商品券を2万円購入した。
毎月10日くらい能登に住むけど、氷見の「すしのや」や能登町の「つくし鮨」にはいくけど、
能登に住んでいるかぎりは、ほとんど「キャッシュレス」(正確には、お金も財布のありかも忘)状態。
期限もあるので、先日「花よし」にいって、焼肉を食べた。
このお店の店主であるみどりちゃんと、従弟にあたるくんが、東京に住んでいて、ひょんなことから
そばのお弟子様になった縁で、ときどき焼肉を食べにいく。コロナもあるけど、いっしょにお店を
切り盛りしているにいちゃんが罹病して、週末だけの営業が続いている。お母さんの時代から数えて
45年の間、この町の人たちに愛されている名店だ。感謝。