蛸鉢(タコハツ・タコの托鉢)と栗と・・(栗鼠・リス)

昨日は一日☔だった。能登も地域によっては、大雨や洪水警報がでた。
そろそろアオリイカが釣れる季節だけど、まだ小さいのしかあがってこない。
今朝は雨があがったので、良寛さんよろしく、イケアの買い物袋でつくった頭蛇袋みたいな
釣バッグを背負い、海までタコはつにいく。
風が強く、こんな日は港にとまってある舟の下(風の日のタコのポイント)あたりにタコヤンを
投げてみたけど手ごたえなし。

歩いて家に帰ろうとすると、畑の隣のおばちゃん(ぼくと同級生)に、「風でまた栗がいっぱいおちていますよ」
と挨拶された。うちの栗木は背が高く、もっている脚立を使っても手が届かないところに、いっぱい実っている。
今日みたいに、風が吹いた翌日は、収穫のチャンス。朝飯前に、栗をいっぱい収穫。3合の米(もち麦含む)に、
栗30個を、剥いて、渋皮をとって、甘醤油(そばやのたねもののかえし)をいれて、土鍋で炊く。
30個むくのに、一時間かかったけど、火にかけて18分。途中沸騰して鍋蓋から白い湯気がでてきたら、
すばやくまぜる。赤子泣いても蓋とるな・・・という格言に違反しているけど、まぜごはんの時は、こうするほうが、
中身を混ぜることができるし、できあがりが、ふっくらする。

10分ほど蒸らし、栗拾いを手伝ってくれる、畑の隣のおばちゃんに「昼ごはんにして」ともって
いったら、ドライを6本いただいた。托鉢よりも、ぜいたくなものが頭蛇袋にズシリ・・・
子どもが近所にいたら、良寛さんみたいに手毬に興じたい気分だ。
昨日は雨だったので、晴耕雨読とばかりに、吉本隆明(ばななさんのとうちゃん)の「良寛」を
読んだ。彼とは生前、友達が主催していた上智大学の勉強会で、一度お会いしたことがある。
とても好々爺というか、やさしい語り口で、理路整然と話をされたことを昨日のことのように覚えている。
でも彼の著作は、なかなか難解で、何回読んでもストンとこないものが多い。寄る年波が、そんな難解な本を
融けるような感じで読めた。

あとがきの前に「エロスに融ける良寛」というのがある。瀬戸内寂聴さんの「手毬」(てまり)を
引用し、晩年の法弟であり、身のまわりの世話をしてくれた貞心尼とのふれあいを、彼女独特
のエロスワールドが、晩年の患いの中に、素敵なページを彩ってくれている。
良寛さんの書簡で、貞心尼への恋文みたいなものが表装されたもんを銀座の骨董屋で見た
ことがある。いつももっている「いざ金」では、まったく足りず、骨董屋が「いつでもいい」
といってくれたけど、買わず、良寛さんが死にゆく寸前まで色気のある字を書いたことだけ、印象に
残った。その寂聴さんのエロいけど、ほのぼのする文体に、「さすが」だと感心した。

わたしは、炉にかかった鉄瓶の湯を小桶に移し、水でぬるめ、良寛さまの身体をていねいに拭き清めた。
良寛さまははじめちょっと抵抗するように枯れ木のような両脚をちぢめられ、体を硬ばらせたが、
すぐ体の清潔になっていく心地よさのほうが恥じらいを押し除けたとみえ、ゆったりと脚をのばし、素直に私にすべてを任しきられた。
信とは任すなりと教えてくれた良寛さまのお言葉が私の胸によみがえってくる。良寛さまは魂のおとうちゃんである。
良寛さまの眉と同じに陰毛も真っ白で清潔だった。生まれたての子猫のような手触りの陰茎をあたたく
濡れた手巾で拭き、陰嚢の皺の汚れまでそそぎ拭くと、私は思わず、子どもにいうように
「さあ、きれいになった」といい、指でそこをぽんとはじいてしまった。
良寛さまがくすっと笑われ、お腹をひくひくうごめかされた。小さな獣のように、それも
ひくひくとゆれた。