秋タコの托鉢

コオロギや鈴虫のすだきを聴きながら、とぼとぼと海までいく。
最近は能登半島でもクマがでるので、UNAのショルダーバッグの中には、
「マキリ包丁」を忍ばせてある。
その分、ずしりと重いが、まるで托鉢僧が、ほどこしものを入れる鉢をいれた
頭蛇袋みたいだ。「今日は恵があるかな」と思いながら、海のタコヤンを
いれたら、10秒後にタコが抱き着いた。「今日はタコ飯が食べられる!」

天気が荒れて、海にいけない日や
釣果のない日は、その頭蛇袋は、玄関の椅子にむなしくぶらさがっている。
そんな日は、ひがなうつらうつらしながら、本を読んだり、陽が沈むと、酒を
飲みながら、うつらうつらの夢の中で、タコが釣れる夢を見る。
良寛さんも、托鉢で施しのない日には、子どもたちと毬(まり)を打って遊んだ。
今でも日本人が良寛さんを好きなのは、権威とか身分とか財産や地位などにこだわらず、
たんたんと生き暮らした姿に対する憧憬だと思う。良寛さんの詩を読んでいると、寒山拾得(かんざんじゅっとく)の寒山
が残した「寒山詩」の影響を受けているのがよくわかる。

ものごとには、すべて陰陽である光と影がある。
そんなことを、風がすーと払拭するような秋の詩がある。

裏を見せ 表を見せ 散る紅葉

そして、「落ち葉は決して、秋風をうらまない」。
見栄や立場にこだわっていては、詠めない心境だと思う。

良寛さんが、新潟の「三条地震」に遭遇した時の詩がいい。
天災やコロナや、これからくるであろう戒名みたいないろんな病気になり、
いつ「召されるか」など、神のみぞ知る。そんな時代を迎えている。
でも、心配することはない。「人はみな、死ぬまで生きられる」のだ。それでいいのだ!
災難の時は、災難にあうがよい。死ぬ時は死ねばいいじゃないか。

災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是ハこれ災難を
のがるゝ妙法にて候