白井晟一氏の長崎

昨日、オリンピックが閉会し、今日は長崎に原爆が落とされて76年。
広島に続き、もう白黒決着がつき、食べるものも、着るものにも万策尽きた感
がある日本に、とどめのような一発。同じ長崎でも頼山陽が詠んだ「青一髪」(せいいっぱつ)
とは違う「いっぱつ」だ。

もう二度とこんな愚かな戦争は起こさない、起こらない、と思ってきたけど、
「こんな状態になっても、オリンピックを中止にしないんだ」という驚きのように、
たぶん、これからも奇妙キテレツな「え・・?」がパンデミックのように起きるのでは
ないかしらん、という諦めにも近い無力感がぬぐえないのが正直なところだ。

広島に原爆が落とされた先週のブログに、白井晟一氏の「原爆堂」のことを書いた。
実現されなかったけど、自分の思い、哲を建築に具現化した孤高の建築家の生きざまは
永遠だ。人は何をしたか、で評価されがちだが、「何をしようとしたか」のほうが、より
大切なような気がする。

白井晟一氏の代表作ともいえる建築が、長崎の佐世保にのこっている。建築家を目指す若者は
必ず、といっていいほど、♪長崎から舟にのって・・・の逆で、長崎に旅した。
旧親和銀行。数々の賞を受賞し、神話になるほどの建物だ。「懐霄館」(かいしょうかん という)
銀行は倒産?統合?されてしまったが、今でも商店街の一角に、この不思議な建物が残っている。
「銀行」と思ってみると、何も見えてこないばってん、これが広島の原爆堂を思索しながら、哲していた
建築家が、その時代の「長崎」に何を刻もうとしたか、に波動を合わすと、いろいろなものが
見えてくる。昨年の夏、雲仙で蕎麦会をやった後にも、立ち寄ってみた。「祈り」がそこにある。

天真庵の時計の音に、白井晟一氏の心臓の音が鳴り続けているように、長崎には
世界一孤高な建築家の息遣いがまだ残っている。
最近店の近くに千葉大の建築デザインが開校した。ときどき学生や先生が蕎麦を手繰りにやってくる。
原爆と同じく76年になる古色蒼然とした建物には反応するばってん、「白井晟一氏を知ってますか?」
と聞くと、首をたてに振る人をまだひとりも知らない。

これから「卵かけごはん」
今日の営業が終わると、しばらく「能登やすみ」
この休みに、「タコ釣りの勉強」に、ふたり生徒がやってくる。感謝。