昭和は遠くなってきた。「さきのオリンピック」は1964年、昭和39年10月10日
「体育の日」が開会式だった。
北九州八幡区の天神小学校の二年生やった。皿倉山のふもとにあった小学校で、新日鉄(そのころは八幡製鉄やった)
の中心地で、「本事務所」と呼ばれる、八幡製鉄の本社所在地(たぶん今は大手町)が近くにあった。
クラスメートの8割は、製鉄所の社員の子供たち、残りの半分も、下請け、孫請けの会社に通う人たちの子供たち、
残りが商店主とか医者とか、不動産屋のせがれとかいった構成だった。11月には学校も休みになって、
「起業祭」という祭りでにぎわったとこ。
「鉄の街の記憶」という有名な本があるけど、まさに「鉄の街」の城下町やった。今は少しきったけど、100万都市。
特徴はまったく違うけど、福岡には博多と北九州の100万都市がふたつあった。
博多と小倉と黒崎には、「井筒屋」というデパートがあった。子供のころは、到津(いとうず)動物園にいって、
小倉の井筒屋で、バナナのたたき売りや、食堂でチャンポンを食べるのが無二の楽しみやった。
昭和44年に閉店になったけど、八幡にも「丸物(まるぶつ)デパート」という老舗のデパートがあり、ワンパク仲間たちと
よく遊びにいった。その当時はでかける時に「10円ちょうだい」というのが、当たり前の時代で、デパートに
いっても、買えるものはなく、「見るだけ」やった。でも高度成長期なので、家電など新しいもんがどんどんできた時代で、
「見るだけ」で充分楽しめた。
東京オリンピックは、そんな仲間たちと、丸物デパートの家電売り場で見た。家にも白黒のテレビはあったけど、
丸物デパートのテレビには、色がついていた。エノケンがカラーテレビの宣伝をしていた時代。
♪うちのテレビにゃ色がない・・となりのテレビにゃ色がある あ~らなぜかとよく見たら 三洋カラーテレビ。
それにも感動したけど、はじめてきいた「オリンピックファンファーレ」のトランペットが奏でられた時は、
不整脈になった?くらいクラクラしたことを昨日のように覚えている。
興奮がさめないまま、デパートの裏にあった「喫茶店」に入った。
すこしませた話やけど、友達のお母さんが小さな喫茶店をしていた。いつもいきれいに掃除され、静かなジャズが流れていた。
ぼくたちは、それぞれのポケット
に10円しか入ってなかったけど、ときどきカウンターに座り、オレンジジュースや、アイスクリームを
食べた。たぶん200円とか300円とかしたのだろうが、10円でなんとかなった。
その日は近所の常連さんがカウンターにすわり、珈琲を飲みながら、「しんせい」とかいうタバコをすっていた。
えらいカッコがいいと感じて、「ぼくはあれが欲しい」といったら、ママさんが「ウィンナーコーヒーね」
といって、砂糖大一小一と珈琲をカップに入れ、ホイップクリームをさじで上手に入れ、そこにまたフレッシュを
のせ、白い磁器のカップでだしてくれた。ぼくが生まれてはじめて珈琲を飲んだ日。さきのオリンピック
の開会式の日の思い出。
もしも、その日に聴いたファンファーレの影響で、音楽の道をめざし、作曲家なんかになって、
今回の東京オリンピックの開会式の音楽の担当に選ばれたとしても、「昔、喫茶店で無銭飲食の常連だった」
という過去がバレ、辞任の憂き目をみていたかもなんばん。友達のおかあさんママが入れるウィンナー珈琲
の所作のほうが、のむら少年のその後の人生に影響を与えた、ということか・・感謝