今日は梅仕事

今日は、ダンボールと本(雑誌)ともえないゴミの日。
東京よりも、細かく小分けしなくてはいけない。そもそも焼却炉の規模が
違うのだろう。古民家を受け継ぐ、と、掃除が3年かかる、と言われている。
もう三年になるけど、車庫兼倉庫(二階建て)と、母家の横にも二階建ての倉庫があるので、
まだまだ、いろんなモノが残っている。

昨日、家の横の倉庫にある本箱を整理していると、「山本周五郎語録」があった。
その場で読み始めたら、やめられなくなって、そのまま家の玄関まで運んで、一気呵成に読んだ。
作家が、質屋で修行(売れないころ)、たいへんその質屋でお世話になった話がよかった。
井伏鱒二の「珍品堂主人」もそうだけど、昔の人たちは、骨董を、自腹で買い、ときには騙され、自分の体の一部のようになるまで、
使いこなし、「育てる」ような体験をしている。今どきの「これを買っておけば値が上がりそうだ」とか「人間国宝だから」とか
「海外で賞をとった云々」を基準に、まず「お金ありき」で買ったり、みしらぬ国の星云々で、ただ食べるだけで美食家をきどっている輩とは
似て非なる「気骨」を感じる。

その質屋の主人が若き作家によく言った言葉が、実にいいのだ。

「おやじは、よくぼくにいった。わたしはいまお前にできるだけのことをやっているつもりだ。だがわたしが死んだあとで、
さいわいおまえが成功したとしても、残った家族に何をしなくてもいいんだよ。わたしがおまえのような好青年に巡りあえたことは、
わたしにとっても大きな幸せだった。だからお前が一人前になったとき、お前の前にあらわれた好青年にできるだけのことを
やってくれ。それが人間の財産というものだ。」

後日談もあって
「もしも、君の前に現れた好青年のために出きるだけのことを尽くしてやってくれ。もしもその時、経済的にそうは
できない状態であったならば、その心だけは続けてほしい。それが真実の人間の財産というものだ。」

こんな素晴らしい本を、ゴミ出しの日に出さずに、次に住む好青年?に残しておいて天国にいった親父さんに、感謝する「ゴミの日」
もちろんその本は、ぼくの部屋の本棚に鎮座している。またある日、縁のある人が、その本を読んだ時、同じような感動が受け継がれたら、いい。