理想的なそば & 珈琲

昨日の夕方携帯が鳴った。
建築家の白井さん。ぼくのそばの師匠・高橋さんが
山梨「翁」から、広島に移住した時、広島の山の中に、「蕎麦道場」
を建築する依頼をした。「厨房以外、注文をつけない」を条件に、完成し、
「雪花山房」(そばの花が雪のように咲いている と、詠った杜甫?白楽天?蘇東坡?の詩から命名)
ができあがった。そして、ギャラリーを始めたばかりの「野村青年?」を、その道場に
勝手におくりこんでくださった、というのが、ぼくが「蕎麦打ち」をやるようになった原点。
お店部分には、「達磨」という、白井さんのお父様・白井晟一さんの書が掛けられ、お店の名前が「達磨」になった。
天真庵の一階にかかっている「生」という字も白井晟一さんの揮毫したものだ。その横にかかっている時計も、白井さん
が生前愛用していたドイツ製のぜんまい時計だ。

だから、高橋さんの薫陶を受けた弟子たちのお店は、その土地を冠に、「なんとか翁」とか
「ほんやら達磨」とか「〇▽雪花山房」なんていう名前がついている。
あまり、できのよろしくない弟子のせいで、うちは「長屋茶房天真庵」、早川のお店は「ながや」
として営業している。まだあわせて二件しかないけど、三件目に「長屋・・か、ながや」がつくと、
「ながやグループ」になるかも知れない。秋に熊本で、一軒そばやが始まりそうだが、「長屋のくまもんそば」
なんて銘々されたら、もしかしたら、全国津々浦々に「ながや・・」ができるかもなんばん?

そんな流れもあって、恩人の白井さんに、毎年暮れに「年越しそば」をおくる、というのがならわしになった。
そして、年賀状には、「そばありがとう。今回のそばは、まだまだ不ぞろいだけど、勢いがある」
みたいに、ほめる、と同時に課題も書いてあるエールみたいなものが書かれている。10年目を超えたあたりの賀状には
「ずいぶん、上達したけど、野趣をわすれたら蕎麦は台無しだ」と書かれていた。
どの世界でも、上達してからわざと下手に見せるような演出をすると、野暮なことになる。そばも「野趣」を持ち続けるには、
技術よりも、精神性のほうが大事だと思って精進している。

そんなふうに14回の賀状をいただいた。そして毎年、一月の「ことはじめ」あたりに、電話をくれて
「賀状だけだと失礼なので・・・」という枕から始まり、そばや珈琲の話をする、のが、ならわしになっている。
昨日の電話は「今年は賀状はだしたが、電話して声を聞いていないので、寂しくなって・・・」とのことで、お互いに
歳をとって、スローになっていくことを笑いあった。「今、能登の家です」というと、「大学時代(昭和19年生まれなので、東京オリンピックのころ?」
に、能登の富来(とぎ)の旅館に泊まって、海水浴をしたことがある」という話になって、その旅館の名前を思い出すように、モグモグしていたので
「ひょっとして、コゲツカン(湖月館 初代の主人の号から命名)ですか?」と聞いたら、「そうそう、コゲツカン。古くて小さな旅館だったけど、
女将が美人で、料理がきどりなく土地のモノをだしてくれて・・」と、まるで半世紀以上も前の話を、昨日のことのように話をされた。
「二日前に泊まった」などというと、長電話になりそうなので、「こんど泊まりにいってきます」というと・・「そうか、なつかしいな~」
という流れで電話は終わった。

白井さんが、お父様の弟子になったころ、毎朝珈琲を淹れてくれて、ある日
「ほんとうに、おいしい珈琲とは・・」と切り出し、「大事なことは、飲んだ時のすっきりした味、
冷えても舌の上でころがるまるい感じ、そしてなにより、一度体の中に入って、ゲップのようにでてくる余韻が
ここちいいこと」と教えられたらしい。毎年、そばといっしょに「ほぼブラジル」もおくっている。
「輪花ドリッパー」ができあがって、余韻のここちよさと長さがかわったきた。こんど彼のアトリエに
「輪花・・」をもって、でかけてみるとしよう。「ゲップの味が違いませんか?」と聞いてたい。

今、ぼくが考えている「理想の珈琲」

のみ口 ひと口めが すっきり
人肌に さめても まったり
あと口 余韻が  一時間                 感謝

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