夏も近づく八十八夜・・

星野村から新茶が届いた。コロナだろうが、渾沌だろうが、自然は悠久のリズムで、
いろいろな恵みを与えてくれる。能登から汲んできた水を沸かし、宝瓶に新茶とぬるめの湯を
淹れて深い呼吸を十呼吸。「今年の新茶もすばらしい」という至福のお茶時間。

季語のなくなった都会で暮らしていると、
新入社員とか、ピカピカの一年生、この界隈だと、制服の運動着が新しい幼稚園生が
歩きはじめる時に、「春だ~」と感じるくらいで、春夏秋冬さして変化がない。
ましていわんや、みんな止まって、家で空調管理された部屋で、PCやテレビの中に、ひがな一日
入り込むような生活では、なおさらだろう。長かろうか、短かろうが、我が人生に悔いはなし・・
石原裕次郎さんがそんな歌を歌ってあの世に旅立った。短かろうが、長かろうが、その人の人生
には、その人の春夏秋冬があるはずだ、と、松下村塾の塾長・松陰先生はのたまわれて、逝った。
このままだと「一億総 坐して死を待つ」ような状態だ。

明日の卵かけごはん、6時まで営業が終わると、能登へ出発。
今回は、梅林の草、わが家の畑に群生する「いたどり」(といっても、鳥じゃないよ。植物)
たちの除去が待っている。「雑草」という、人間がきめた分類に入れるとかわいそうなので、
畑の周りに置いて、土に戻す、という循環のお手伝いに使っている。
お店の前のプランターには、みょうがの芽がでた。やわらいうちは、みそ汁の実にしたり、
お浸しにしても美味い。留守中に、水をやってくれる文庫ちゃんは、それを酒肴に一献。

先月の能登は「わかめ」をとって、庭先で干す、というのが季語というか、春の風物詩だった。
たぶん、今月あたりは、さざえが解禁になり、やまんごとお裾分けに授かり、能登の家庭には、
必ず常備されている「珪藻土の七輪」が大活躍する。
炭火で焼く「つぼ焼き」にまさる食べ方以上のものがない。街の料理屋などでは、つぼ焼きする
時に、醤油をパラリとかけて、煎餅をやくようなニオイの中で「おいしそー ボリボリ」といいながら
酒のつまみにするのが、一般的で、最初の一年は、醤油を使っていた。でも、それだと、最初の身はともかく、
胆の味がうすれてしまう、ことに気がついた。胆まで「うまい」を味わいつくすのは、「そのまま」、海の水
を含んだまま焼いて、礒の香りを楽しむ、が一番。
「いろいろ」を足して、かえってダメにするようなものが、けっこうまわりにあふれているのを、再確認
できるのも、田舎暮らしの特典でもある。

今回はいよいよ、自作の「能登風焙煎機」で、珈琲豆を焼いてみる。
川口葉子さんの「次作の喫茶本」には、そんな「懐かしい未来の珈琲文化」がまた紹介されるといいな。
今、本屋に並んでいる「喫茶人かく語りき」は、書籍が苦戦している中では、好調な売れ行きらしい。
ぼくは、「煎茶」のことを、「かく語りき」で、彼女が10年以上前に来店した「天真庵デビュー」の日に
話したことを、今回の本で紹介されて、大変うれしく思っている。感謝。