やっちゃばがあった秋葉原

ひさしぶりに秋葉原にいってきた。
昭和58年に、秋葉原でソフトハウス(当時はITの会社をそんな風に呼んでいた)を
立ち上げた。当時南砂のマンションに住んでいた。錦糸町まで総武線、そこからバス、という
通勤スタイルやった。朝、いわゆる電気街口で降りると、駅前にあったラーメン屋は混雑していた。

そこに「やっちゃば」(正確には、神田青果市場)があり、全国からトラックに野菜つんで運んだ
トラック野郎たちが、朝のラーメンで腹ごしらえをしていた。野菜のクズとダンボールが毎朝、山のように
積まれていて、それをリヤカーで運んで、ホームレスさんたちは、日銭をかせぎ、焼酎を買って、残った
ダンボールで家をつくり、残った野菜のくずを鍋にし、稼いだ日銭を焼酎に変え、毎日をおくっていた。

すぐに、中古の車を、まったい(小学校時代からの親友で、フジテレビに努めていた)の紹介で買い、
やっちゃばの近くに駐車場を借りた。月五万やった。駅周辺には「ビラ配り」のおっちゃん、おばっちゃん
たちもいた。電気店と契約されていて、そのお店に連れていき、買い物させると、その料金に数パーセントを
もらっておられた。ホームレスさんと同様、「そこにいたるまでの人生の道」の話になると、「人生物語」
が人の数だけあった。ぼくはまだ20代やったけど、彼らと時々酒を飲んだり、一度は、いっしょに
箱根の温泉にいったり・・・不思議な思い出がいっぱい残っている。

ボクシング会場や、野球場から「ダフ屋」がいなくなった。シロウトがネットで転売するような時代
になった。「テンバイヤー」とかいうらしい。ヤクザの仕事をシロウトが凌駕してしまった。
パソコンの創成期に、ひと稼ぎしていた「ビラくばりさん」たちも、ネットの発展で職を失った。
そのころからやっちゃばも「太田市場」への移転がきまり、ホームレスさんたちも、居場所が
なくなった。

ある日、知り合いのホームレスがいつものように、ダンボールをリヤカー(いつもミックスの愛犬をのせてい)で運びながら、
働いていると、警察がきて職質していた。「おい、酒くさいの? 朝から酒飲んでいるのか?」と警察が上から目線で
おっちゃんに言い寄ると、そのおっちゃんが涼しい顔して「こいつ(愛犬のほうに指をさし)の誕生日祝いをしていたんだ」
という。思わず歌舞伎の大向うのように「よっ ナリタヤ誕生日おめでとう」と声をあげてしまった。
まだまだ「人情」が下町に残っていた時代。いまは、フィギアとオタクとAKBの街になりさがっていった。
ぼくの会社も一作目のソフトが大ヒットして、一年で秋葉原の事務所を、代々木に引っ越しをした。まだ「昭和」やった。感謝。

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