おめでとう!アーモンドアイ

今朝の朝日新聞の一面は「アーモンドアイ」。
昨日の東京競馬場のジャパンカップの優勝をたたえた雄姿がのっている。
昨日が最後のレースだった。名馬になると「自分の花道」を知っているようだ。

昭和51年の2月に東京に受験にきた。小倉の予備校で一年浪人生活をしていたので、
前年東京の獣医大学に通っていた友達のNくんの下宿にお世話になった。
お世話ついでに「ボクシングの聖地・後楽園ホールに連れていってくれない」と頼んだら、
「ちょうど横の場外馬券所にいくのでええよ」と快諾してくれ、後楽園にふたりでいった。
その時、画面で「テンポント」がぶっちぎりで快走した。その日は、Nの下宿で祝杯をした。

不思議な縁で、その年の暮れ、京都競馬場の臨時従業員(関西の大学の乗馬クラブの人と、苦学生を助ける枠があった。)
になった。厩舎監視といって、レース前の厩舎にいって、厩務員が薬物などを投与したりしないかをチェックする仕事だ。
京都競馬場で年間40回開催され、トータル40万になった。そのころの立命館の学費が198000円。
からふねやの珈琲が250円。天下一品のラーメンが400円。ショートホープが一箱50円の時代。いい小遣い銭になった。

テンポイントというのは、新聞の文字の一番大きいのをいう。いつかそんな馬になるように、という願いがこもっている。
彼のおばあちゃん「くもわか」?が、病気をもっていて、その当時の法律で、殺される運命
だったのを、ひとりの男が、こっそりと京都から北海道まで歩いて運んで、テンポイントの母「わかくも」を産んだ。
その男の役を名優・緒形拳がテレビでやったことがある。泣けた。

一度、ラッキーなことに、鹿戸厩舎にいたテンポイントの係になった。「栗毛に流星」を目の前にして、体が硬直したのを
今でも覚えている。厩務員の人が「この馬はかしこくて、人参をあげたら、食べやすいように飼葉桶に投げて割って食べるんや」
と教えてくれた。そして、生涯のライバルのことを「トーショーボーイは、厩舎をでる時、戸の下にあるレールのとこを股いで(負担をすくなくする)
いくそうやで」といった。レース前の伝説の名馬を目の当たりにして、「まちがいない」と直感した。

いい時代だ。「名馬物語 テンポイント」で検索するとyoutubeで、そんな物語がでてくる。競馬に興味ない人でも泣けると思う。
昭和53年の京都競馬場のシーンもあるはずだ(ぼくは、今でもよう見れん)。
もちろん、その日も、淀の京都競馬場で、臨時厩務員をしてた。その日の夜は、雪降る京都の河原町で、静かに酒を飲んだ。
テンポイント物語では確か「トウショウボーイよさようなら、といって天馬がのぼっていった」みたいなセリフだった。
今日の朝刊を見て、そんなことを思い出した。感謝。

愛犬を20年くらい長生きさせる方法!

「いけいけGOGO・・」に踊らされ、人が動き、経済も動き出したのはいいが、
シンコロさまも、そんな人間様の浅智慧をあざ笑うように、またまた猛威を振るい始めた。
この界隈といわず、浅草も、新宿も、銀座も六本木もぶくろ~(池袋)なども、老舗や新参者
を問わず、閉店の憂き目を見るお店が増えている。

秋葉原にあった名店「さらたいすけ」。そこの主人の「けんじろう」も、魚や肉料理のお店を20年近く
続けてきたが、コロナ禍と愛犬「さくら」の死(享年20歳)で、飲食業を卒業し、「隕石屋」になった。
「秋葉原 隕石」と検索すると、HOYAみたいな部屋がでてくる・・・YOZAか(さくらが夜桜になった)。
そこの部屋の「ゆーちゅーぶ」に、さくらの映像がある。愛犬家はぜひのぞいてほしい。

一昨日のシャンソンの英里ちゃんのライブの時、彼女がずっと手書きでつくってきた新聞をもらった。
「月刊 三丁目新聞」。NO114、になっているので、10年近く続けた新聞。四谷三丁目のカフェで
毎月ライブをやっていて、その時にふれあう人たちのこと、ほかのライブハウスでのできごとなどを、感性豊かな目線
で綴ってきた。そのお店も来月24日で緞帳を下げることになった。
左半分は、「鎌倉の照葉と酒とシャンソン」、右ページは「グレコ」のことが、決して上手な字ではないが、個性的・唯一無二な
人間味あふれる字で、綴れている。彼女に許可をいただき、右半分を紹介することにした。

@去る9月23日(水)にシャンソン歌手ジュリエット・グレコが旅立ちました。実存主義サルトルや作家カミュらと交流、
マイルスデイビスとも交際していました・・93歳。私が鎌倉で演奏を始めてすぐに小町通りで見つけたフレンチ「コアンドル」
は「街角」という意味で、同名のシャンソンは、グレコに捧げられた歌としても有名です。かねてより気になっていたお店なのですが、
ビル自体の改築と重なり2年間お預け状態でした。そして、グレコ姉さんが亡くなった今年になって、ようやく念願が叶い、潜入できたのです。
・・・・・・(略  食べた料理がつらつら書いてあった)、〆の珈琲をいただきながら、サンジェルマンデプレのミューズが
闊歩していた頃のパリの街角を思い浮かべたものです。ご冥福を。感謝。(感謝、は、勝手に加えた・笑)

今日は日曜日なので16時まで営業。今年はじめた蕎麦打ち新人ふたりが「蕎麦打ち教室」にやってくる。
ふたりともまじめでセンスがあって、来年あたりは、ぼくよりうまくなりそうだ。反対に教えていただこう。

おひとりさま

ぼくのPCを置いてある机の上に、久保さんの黄瀬戸の筒向(つつむこう)が置いてあって、
えんぴつ立にみたて、筆記具があまた入っている。そんな中に、ちびれたトンボのえんぴつが一本。
なぜだか、今朝、それが「おはよう」との挨拶をしたよううな・・・

ネットで「おひとりさま」で検索すると、アマゾンに、岩下久美子さんの「おひとりさま」
という本がでている。
ぼくが依然やっていた「無門塾」という勉強会で、3度くらい講師としてお招きした。
2001年の秋にプーケットの海で突然亡くなった。
彼女の書斎の片づけを手伝って、記念に、机の上に横たわったいた、その「えんぴつ」を
一本いただいてきた。エンピツの頭に歯がたがついてある。原稿用紙のマスを身を削るように
推敲しながら埋めていく作家の苦悩と、生前の美人の顔立ちのコントラストが妙で、たいせつに
「お守り」のようにとってある。

アマゾンにのっている岩下久美子さんの経歴をそのまま紹介させてもらう。

岩下/久美子
青山学院大学法学部卒業。99年2月から、女性が一人で快適に外食をしたり、旅をすることを応援する「おひとりさま向上委員会」を主宰。現代女性の価値観の変化や新しい男女関係のあり方を、独自の視点から取材・考察している。食文化にも造詣が深い。また、日本におけるストーカー研究の第一人者としても知られる。2000年3月より、警視庁「ストーカー問題対策研究会」の委員を務め、東京都のストーカー行為防止条例の策定に携わる。現代社会に特有の“コミュニケーション不全”の人間関係をテーマに執筆を続けると同時に、女性が魅力的に生きるためのスキルを追及。時代感覚に則した女性論を展開している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

もうかれこれ20年になる。
最近もマスコミ関係で阿部周りの男のレイプの裁判があったが、20年前に「人はなぜストーカーになるのか」という彼女の体験を
もとに赤裸々に綴られたエッセーは「ストーカ法」ができる礎(いしずえ)になった。
突然天国に召され、「元祖おひとりさまはわたし」といった顔した厚顔無恥なる女性ライターが、あまた現れたのには閉口したが、
「おひとりさま」を提唱したのは、間違いなく岩下自身である。熊本出身であったので、九州県人会でもよく飲んだ。夫くんは
時々天真庵にきてそばを手繰っていかれる。

昨日は、8ケ月ぶりのシャンソンライブ。英里ちゃんが3月7日にライブをやってからこっち、ライブというライブはみな中止、
夜の寺子屋も解散した。また感染者が急増しているので、来年はどうなるのか不明ではあるが、昨日はとても素敵な夜を、
少ない仲間たちで共有した。
打ち上げ反省会を竹葉の燗酒を飲みながら、英里ちゃんが「この酒器、わたしに譲ってくださらない」といって、
どこかの骨董屋で見つけた「燗つけ徳利器?」をお持ち帰りになられた。夜中にメールがきた。
「おひとりさまの酒器サイコーです」とのこと。
結婚してようが独身であろうが、「おひとりさまタイム」というは、とても大事。そんな時、
チン、ではなく、ゆっくり徳利(燗鍋もいい)に酒を入れ、できたら火鉢の上の鉄瓶、なければガスコンロに雪平鍋で湯を沸かし、温泉につかる気分で、人肌のぬる燗を飲みながら「哲」する。そんな「ゆとり」が欲しいものです。感謝。

今日はシャンソンのライブ。4時閉店!

あまり、そばのことを書くことはないけど、2007年の4月1日に、
天真庵を押上に結んでからこっち、毎日そばを手打ちしている。
蕎麦粉は、千葉の酒々井(しすい)の農家&そばやの源さんにお願いしている。
バカがつくほどそば好きで、お店の前の畑に白い花が咲くころは、お客さんそっちのけで、
華憐な花を眺めていたりする。新そばの季節がやってきた。

一昨日、珈琲の焙煎をしていたら、銀座の隕石屋さんから「天真庵のそばでつくる蕎麦茶がほしい」
とメール。さっそく、酒々井の畑でとれる蕎麦の実の「丸ぬき」(そば殻をとったもの)を、焙烙(ほうろく)で
焙煎してみた。煎り番茶のように、部屋いっぱいに蕎麦茶の香りが充満する。
そばには御存知のように、ルチンといって、血管を若返らせる養分がいっぱい入っている。水溶性
なので、お湯でそばをゆでると、ルチンは釡のほうに流れ、それを「そば湯」でもどしてあげる。
でも、蕎麦茶はまるごとルチンが体に吸収されるし、出し殻を炊きたてのごはんに入れると、「そばめし」
ができる。「まるごと精進料理」みたいなごはんが家庭でも食べられる。

銀座の隕石屋さんでは、能登ジェラトン(隕石粉の陶器)の「ひさご」が大人気になってきた。
正絹(しょうけん)の組紐で根付にして、スマホやお財布などにつけると、金運や仕事運が上がる、
と、「銀座の隕石直売所」で検索すると、そんな不思議な部屋がでてくる。
その正絹のお店が浅草にあるので、注文が入ると、てくてく歩いて浅草まで散歩する。

先日は、幇間芸者「たまちゃん」こと悠玄亭玉さんのお弟子さんだったTちゃんと浅草で飲んだ。
15時半に神谷バーの前で待ち合わせ。ショーウィンドウを眺めながら「何にしようかな~」
などと👀をかがやせていた。
「せっかく浅草にきたのだから、もっとうまいものを喰おう」といって、観音裏まで歩いて、ときどき飲む有名な
「かまめしや」にいったら、休みだった。「すしでも喰うか」と、吉原大門近くの寿司屋に電話したら、そこも定休日。
水曜日というのは、飲食屋は定休日が多い。たまちゃんが大好きだったエビフライサンドが美味い喫茶店で、
エビフライサンドをシャアしながら、小瓶のキリンビールを飲み、合羽橋にある天ぷら屋を目指す。

途中に、言問通りに「一枚板」が並んだ木工屋を発見、吸い込まれるように入っていく。
Tちゃんが、「こんな楽しい気まぐれ散歩ははじめて」というので、「散歩ちゃうで、これ、徘徊ゆうんや」と
答えて、小一時間お店で一枚板を見た。50万から100万するけど、銘木いうか、素敵な一枚板がそろっている。
「東京でこんなもん売れるのですか?」とお店の人に問うと、「コロナのせいで、家で仕事をする時間が長くなったので、
マンションの人が、ほっとする木をテーブルにする、という理由で買っていかれる」とのこと。
ぼく的には、古民家の和室に、少し低めのコーヒーテーブルをおいて、煎茶や珈琲を飲む、というイメージ
が浮かんだけど、現代は95%が洋風のテーブルとイスにする、という。時代はシンコロのおかげで、あっという間にいろんな価値観や
生活スタイルが大きく変わっていく。

少しテンションがあがって、合羽橋に昔よくいった「ふぐや」があるので、そこをのぞいた。こんな時期だから予約しなくて大丈夫
やと思って入ったら、店員さんに「ご予約は・・」ときかれ、「徘徊中に見つけたんで、してないけど・・ふぐ食わしてくれない。ここの焼きふぐ
すっきゃねん」といったけど、断られた。いつものように、作務衣に、サンタクロースのようなうな帽、マスクのいで立ち・・・
しかも雨ふっていたから長靴。ドレスコードにひっかかった(笑)

天ぷら屋まで歩くと、ここも定休日。Tちゃんが「さっき右手にあった洋食屋はどうですか?」
というので、「ときどきいくけど、日本酒がうまいので、そうしょか」といって、その洋食屋で、
エビフライやチキンカツやアジフライなどを頼んで、日本酒を3合づつ飲んだ。
帰りは、新しい迷所?「東京みずまち」を通って押上まで歩いた。浅草駅〜とうきょうスカイツリー駅間の高架下に開業する複合施設だ。

今日は英里ちゃんのシャンソンライブがあるので16時閉店。ライブは一時間はやめて18時開場18時半開演。(こんな時期で、ドタキャンもでた
ので、ドタサンも歓迎)

変わらないもの、と、変わっていくものが混在する東京。ときどき「浅草散歩」するのも、定点観測のような楽しさがある。
飲食店は、昔から「水もの」といわれ、水曜日が休みのことが多い。でも水の流れは、いつもさらさらと悠久不変の自然を
遊び、東京の名所「水町」も年中無休で旅人をお待ちしている。感謝。

今出川新町のボン・・

昨日のブログで紹介した、ぼくが家庭教師をしたボンK・・の今。

Kは呉服屋のボンで、まだ西陣がにぎわっていた時代なので、裕福な家庭で育った。
小さいころはフィギアスケートで、かなりいいとこまでいったらしい。
お母さんが、世話好きで、まかないつきの下宿屋をしていた。京大・立命・同志社
の人が下宿していた。小さいころから、大学生とつきあっていたので、なにかと「ませて」いた。

中学時代は、ギターに凝りだして、まったく学校の勉強をしていない少年やった。
ぼくの前の家庭教師は、京大の医学部に通う秀才で、ときどき、その下宿で飲んだりした。
頭はよかったけど、ボンには、あまり相性があわなかったみたい。

お母さんには、「ぼくが教えても、成績はあがらないと思うし、普通の勉強してもしゃーないので、
家庭教師代はO円。そのかわり名誉冠の熱燗一本つけてください」という条件ではじめた。
案の定、まったく勉強に興味がない。熱燗を飲みながら、四方話をしたり、「わびすけ」でお茶飲んだり、
銭湯にいっしょにいったり・・・・

3か月くらいたったある夏の日・・・
「Kすけ・・こんどの日曜日、花脊までサイクリングにいかへん」と誘ったら、大喜びして、
今出川から賀茂川を上り、花脊峠まで自転車でいった。途中に「熊注意」の看板があったり、小川を自転車かついで
渡ったり・・・・かなり苦戦しながら花脊峠にたどりつくことができた。それからスイッチが入った?のか?
集中力があった子だったので、それから猛勉強して、紫野高校へ入学することができた。

高校時代には、京都のライブハウスなどにでて、プロのギタリストになり、そこそこ人気があった。
2年で中退し、ニューヨークにいき、その後はヨーロッパで活躍し、今もロンドンで活動して
いる。ときどきメールがきて、「天真庵でおれのライブやってあげようか」などとなまいきなことを書いてくる。
中学生だったボンもおっさんになり、イタリアの美人の奥さんとふたりの子供とロンドンで暮らしているようだ。
一度だけ、彼が結婚した時、ロンドンを訪ねたことがある。
音楽仲間たちに、「この人はオレの英語の先生やった。でも今は、オレが通訳してあげてんねん」みたいな
ことを自慢げに京都弁みたいな英語を使って話していた。

英語もそやけど、「人に教える」というのは同時に「教わる」こと多しだ。彼が演奏するライブハウスなどで、
いろいろなミュージシャンたちとふれあった体験などは、今の天真庵のライブの中に多く生かされているように思う。
「生身の自分自身にかけるしかない」とか「自分らしく生きる」という点では、ぼくの最初の師なのかも知れない。

月曜の朝は、卵かけごはんとほぼブラジル

今月はじめに「猪田さん」のこと書いて、古本屋で彼の本を見つけ読んでいた。
「あのころの(昭和50年代)の珈琲は美味かったな~」などと懐かしく思っていた。
ときどき、いいモカが入ると焙煎し、ほぼブラジルの「モカブレンド」をつくる。
かなりとがった味なモカだと、音楽でいう和音に、ひとつ明後日の音が入ったごとくになり、
台無しなもんになる。

そんなことを思っていたら、旧知の珈琲卸をやっている主人から「すばらしいモカが入った」との連絡。
コノナ禍の中で、ヨーロッパあたりに優先されていたモカが、久しぶりに日本に入ったらしい。
昨日の朝届いたので、さっそく焼いてみた。ほかの豆と違って、焙煎のストライクゾーンが狭い。
でも、昔とった杵柄よろしく、やってみた。
それを「ほぼぶらじる」とブレンドすると、「猪田さん」や「からふねや」が輝いていたころの「京都味」
の珈琲ができた。「あの人に飲んでほしい」というあの人たちが、「気配」を感じて来店され、
ほぼぶらじる、が、ほぼ空になった。今朝はまた朝から焙煎。

昨日は、はじめての「あの人」もやってきた。まだ社会人一年目らしい。ざるそばとほぼぶらじるを注文。
アイスコーヒーを所望され、だした。「シロップは?」(ぼくは、そんなこときかへん)と筆子さんが
いうと、「ください」と関西なまりで答えた。ので、「今日の珈琲は世界一おいしいので、そのままのんでんか!」
と丁寧な京都弁でいうと、「はい」の返事。青年は、それをぐっと飲み干し、「ほんま、美味いです」と品よく笑った。
いつもの癖で、「京都の大学?それとも「の」がつかへん大学?」と問う。「京都の大学です。どーやん(同志社)ですわ」
とのこと。

昭和51年に京都の大学に入学し、一年の秋に「からふねや」の本店をまかされた。最初の修行は、烏丸店。
御所の近く、烏丸丸太町にあった。それがおわると、烏丸通を上って、同志社の近くの新町にある町家に住むボンの家庭教師をしていたころがある。
その近くに「わびすけ」という、京都で一番古い喫茶店があって、よくそのボンをつれて、お茶しにいった。
ネットで「中井汲泉(なかいきゅせん)」と検索すると、盛岡市のHPがでてきて、飄々とした風貌の写真とプロフィール
がでてくる。その中井老が、大正のはじめ(昭和やないよ)に「わびすけ」の前身「中井ミルクホール」を始めた。
10年くらい前に「わびすけ」が100年喫茶店の緞帳を下げたけど、まだネット上には、写真がのこっている。
不思議な縁やけど、昨日はじめてきた、好青年のどーやんは、中井さんの曾孫さんやった。珈琲の神様のいたずらか?

これから「卵かけごはん」

かなしみはいつも

エチオピアで紛争が起きている。人間発症の土地だし、モカという珈琲の聖地でもある。
ちょうどお店をはじめた14年くらい前、3年間ほど、農薬問題でモカが輸入されなかったことがある。
「ほぼぶらじる」といいながら、うちのブレンドにモカはかかせない。
人類が平和で、この地球という星の持続可能な生き方をみんなで大事に考えないと、おちおち美味しい珈琲を
味わうこともできない。どんなに世の中が渾沌としても、朝一杯の珈琲を味わう至福をおわすれなく・・・

今日の真民さん

「かなしみはいつも」

かなしみは
みんな書いてはならない
かなしみは
みんな話してはならない
かなしみは
わたしたちを強くする根
かなしみは
わたしたちを支えている幹
かなしみは
わたしたちを美しくする花

かなしみは
いつも枯らしてはならない
かなしみは
いつも堪えていなくてはならない
かなしみは
いつも噛みしめていなくてはならない     坂村真民

明日は旗日だけど、「卵かけごはん」をやります。

「長屋ライブ」(時間をはやめ、15名限定でやります)

11月28日(金)「弾き語りシャンソン ライブ」

演奏:・上原英里(ヴォーカル&ギター) 18時開場 18時半開演

¥4,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲・付き)

12月5日(土) 「国貞 雅子 ソロ LIVE」(満席)

演奏:国貞 雅子(唄・ピアノ)

18時開場 18時半開演 ¥4,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲 付き)

19日(土) 「大石 学 ソロ LIVE」

演奏:大石 学(ピアノ)

18時開場 18時半開演 ¥5,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲 付き)

縄文大工 ぱーと2

能登で生活していると「縄文なるもの」を多く発見する。
雨宮さんの本「ぼくは縄文大工」にも書いてあるけど、とった魚(真脇ではイルカを多く食べた)、や動物を
解体するのに黒曜石をつかった形跡があるらしい。実際に使ってみると、無駄がないし、肉が傷つけにくい、らしい。
縄文時代のひとつの集落は、50人くらいだったらしい。それがひとつの「国家」みたいなもの。
一番偉い人を「宰」といった。いまでも、偉い人に、この漢字をあてたりするけど、音読みで「そう」。
訓読みでは「つかさ」。意味は「料理人」包丁をもった人の象形文字からできた。つまり、動物などを解体して、
50人に、どう分けて喰わせていくかの裁量がある人が、長になっていたらしい。

先週の木曜日の朝、いつものように海に「たこやん」をもって蛸釣りにいった。伝統的なタコ漁「たこすかし」
の名人が先客。彼はいつもGパンに雪駄履いて、じーっと海の中を見ている。10分くらいして、「今日はいる」
というと、ウェーダー(水をとおさない腰まである長靴)に履き替え、二本の竹竿(ひとつは赤いヒラヒラが先についていて、タコを
おびきよせる。もうひとつは、二重になった釣り針、というか、ひっかけるもの)をもって、漁が始まる。
何人か、というより、海が荒れた時は、どの漁師も、「たこすかし」はやるのだが、その名人が動き始めると、海のタコが
みんなそこに寄っていくような「気配」がする。

ぼくが、2尾釣った間に、名人は7尾をつかまえ、ウェーダーを脱ぎ、立ちションをしていた。
ぼくもいっしょに「連れしょん」しながら、道具談義(しょんべんする道具じゃない)。
「この竹は、どこから採ったんですか?」というと、ニヤッと笑い、「あんたの畑の奥の竹やぶ」
といった。「え?」と不思議そうにしていたら・・「風があまりあたらないので、まっすぐな竹が多い」
とのこと。「そうですか。では来年用に何本かとっておこうかしらん」と答えたら、「ちょっとまって」
といって、軽トラから、どこかの神社の暦のようなものを出してきて、「今日切ったらいいわ」という。
つまり、昨日までは、「竹は切るな」という言い伝えがあるらしい。
江戸にも、釣り竿を和竿(竹でつくる)人たちがいた。春から夏にかけて、生育途中で切る竹は、
あまりよろしくない、という話を聞いたことがある。たぶん縄文時代から続く「千恵」のひとつだろう。
竹のお礼に、タコをひかける釣り針をもろうた。これも縄文時代から続く「原始的ぶつぶつ交換」。

5月ころ、能登は木を食べつくすごとく藤の花が咲く。縄文人たちは、その季節になると「イルカがやってくる」
と知っていたらしい。GPSなどが当たり前になったけど、そんなものをつくりだす人間のおかげで、地球の環境が激変し、
ついには、食事の時もマスクをしながら、の時代を迎えた。そのうち、食卓にのぼる魚は、みな養殖もので、マスクが酸素マスク
になる日も近いのではないか、なんてことを思ったりする今日このごろ。
迷ったり、間違えていた、と思ったら、「原点」にもどるのがいい。個人といわず、家庭、会社、地方自治体といわず、
そうゆう時がきているように思う。感謝。

ぼくは縄文大工

「ぼくは縄文大工」と検索すると、おもしろい本がでてくる。
縄文人は宇宙人?日本の建築のルーツはそこにあるし、私たちの祭事などの宗教観や
生き方、哲学・・・縄文なるものにたくさんの「コツ」がつまっている。
人間はサルから進化していって、現在にいたる、というのが通説だが、サルのように
道具を持たず、器用に木にのぼることができなかった人間は、最初から木には登れず、進化したのじゃなく、あきらめて、
だから、石斧(せきふ)をつくって、木の皮をはいだり、木を伐採したりして、
「居場所」をつくっていったのだと思う。進化したつもりで、便利な時代に生きているけど、みんな「居場所」がなくて右往左往中。
これから「真価」が問われる?

ぼくは縄文大工 新刊(雨宮 国広著)  石斧でつくる丸木舟と小屋 (平凡社新書・946円)

天真庵のHPに「のむら暮らし」という部屋がある。
「能登真脇遺跡にいってきました」というところに、ひげ面の「雨宮さん」が、映っている。(その後の「縄文時代のお茶会」に、できあがった部屋の中がのってる)
ちょうど遊びにいった時、縄文住居の「柱」を石斧で掘っていて、運よく、そこに立ち会い、
お手伝いをする縁をいただいた。その日は、汗びっしょりになり、雨宮さんと柳田温泉にいき、
湯舟でふたりともゆでだこになるくらい、熱く語り合った。
ときどき「この人はバカ?」という人がいるけど、バカになりきった人だ。
サバイバル時代の「これからの生き方」のヒントもいっぱいつまっている。能登の真脇(まわき)縄文遺跡にいくと、何か不思議な声がきこえるよ。
1000円で、そんなことが学べるので、ぜひ読んでほしい。(とくに、これから世代の子どもを持つおかあさん)

今日はこれから、ボチボチ仕込みをしながら、明日から「営業中」の看板をだす予定。感謝。

能登に本店がある世界一のジェラートやさん。

昨日は、「梅茶翁」の梅林の剪定にいってきた。
梅は2月に春を真っ先に告げるように、華憐な花を咲かせる。
その花咲きの2か月前までに剪定すると、とても元気な花と、その後実をつけてくれる。
「切り上げ剪定」という。毎年は完全防備の暖か服を着こんで仕事をするけど、
昨日は小春日和で、汗ばむ陽気だった。やはり異常気象。

木も、まわりが雑草におおわれ、猪くんがまわりを掘り返したり、木の上には
モズが生贄の昆虫などを木の枝にさしたり、剪定中も、シジュウカラ、ヤマガラ、ジョウビタキたちが、
遊びにきてくれたり、にぎやかだ。脚立の上から、地面を見ると、紅葉の絨毯。
4人で20本ある梅の木を剪定する。四人とも、ついこないだまでは、
東京に暮していた。自由に清々と遊ぶ鳥や動物たちと違って、ぼくたちは「道具」を使いながら生活する。
でも、パソコンやスマホだけじゃなく、鍬や鋤や、鎌などの農具は、「自然に近い」というか、
「道らしきものを具えている」のではないか、と思う。そして人間の体も、土を耕したり、森や林の
中で、働いているほうが、「自然」なような気がする。

鳥も動物も虫たちも、「生きる」ために毎日活動をする。ぼくたちも、同じように生きるために、
いろいろな道具を使って毎日汗を流す。でも路傍にいるヘビをくわえるトンビや、小さな虫をついばむ鳥
たちの、「自然ないとなみ・よろこび」にはかなわない。ごはん食べて、クソしての自然のよろこびがすごいね。
人間世界はちと複雑で、働き方によって、詐取や詐欺や税金も問題・・・人間の社会にはめんどくさい制度が見え隠れしている。
今はシンコロのおかげで、本音と建て前の使い分けを、いろいろな場面で駆使しながら生きている。
けっこう、身近な人間関係もめんどくさいことが多くなってきた。「自分」をしっかりもたないと、もたない!

ちょっと運よく「お金持ち」になった人で、毎日働かなくてもいいような人たちも、どこか空虚な顔をしてるし、
いくらあったら老後が安心なんだろう?と日々、そんなことばかり考えている人たちの顔も暗い。
毎日が一生なんだから、「楽しいその日ぐらし」をめざせばいいかもなんばん。

たぶん、「それ」をやることによって、ほとばしるような情熱とか、喜びが体中にあふれてくる、という「それ」
をつかまんことには、中途半端な毎日になっていくのではなかろうかしらん。そんなことを思う今日このごろ。

梅茶翁の帰りに、徒歩5分のところにある「世界一のジャラートや」にいって能登大納言のジェラートを食べた。マルガージェラート。
ジャラートの世界選手権で優勝した人が、自分の生まれ育った土地に、ジェラートやをつくって、そこを「本店」にしている。
昨日は、お父さんが、ジェラートをカップによそってくれた。「ひとつごと」を貫いた人のすごさを感じるお店。感謝。