啐啄(そったく)珈琲塾

小学生のころ、十姉妹(じゅうしまつ)を飼ったことがある。その後、インコや手乗り文鳥、メジロ、ヤマガラ・・までかった。
近くに「小鳥屋」さんがあった。幼稚園にいく前あたり、毎日がたっぷり時間があったので、そこによく遊びにいった。
竹かごを編んでいたり、目白なんかをとる「鳥餅(とりもち)」をつくっていたり、とってきた目白をかごにいれて、
風呂敷をかけ、餌つけをしたり、いろいろな「技」を見ているだけで、楽しかった。目白好きなお客さんがやってきて、
「屋久島の目白が鳴き声がいい」(今は、みな禁猟)とか、餌にハチミツを入れたら毛並みがよくなった、みたいな話を
子供ながらに「ふ~ん」とか頷きながら、おとなの世界に仲間入りさせてもらっていた。目白の餌は、だいたいお猪口を
代用していた。有田や伊万里のものだっと思う。柿右衛門ではないけど、目白の緑には、柿色の酒器がいい、と、
なんとなく思っていた。中学にあがって、目白を買った時、おやじの愛用している辰砂(しんしゃ)の小ぶりの猪口を譲り受けて使った。
今でもときどき、その猪口で酒を飲むことがある。風雅までいかないけど、風流な世界。

十姉妹を買う時、ある日藁で編んだ巣の中に、忙しく藁を重ねたり忙しくなることがある。そろそろ卵が生まれる時で、こころがときめく。そして卵がうまれ、
親鳥が交代で卵をかかえる。約30日くらいで、いよいよ雛が誕生する。
雛(ひな)がかえろうとするとき、雛が内からつつくのを「啐(そつ)」といい、母鳥が外からつつくのを「啄(たく)」という。そのタイミングが一致した時はじめて
「命」が誕生する。そんなことから禅林では、「悟りの瞬間」みたいなところを、「啐啄の機」とか「啐啄同時」とかいって、軸に揮毫したりしてきた。

弊社?の珈琲学校?の正式名称が「啐啄珈琲塾」
だいたい月初めの木曜日にあるので、昨日は10月の「啐啄・・」やった。
物件が見つかったら、カフェをやろうとしている女性がまじめに通ってきている。
昨日は、3回目で、サイフォンの入れ方を伝授した。そばもそやけど、珈琲いうのも、
「これでいい」と思えば、誰でもすぐに珈琲らしきものは入れられるようになる。
「どのレベルをめざしているか」、という「啐」のほとばしる情熱みたいなもんに、「啄」が答える、
どの道も、そんなことではなかろうか?と思う。「お互い」の感性や情熱が大事やねん。

ぼくの蕎麦の師匠は、「そばの神様」といわれる高橋さん。
彼が蕎麦打ちを教えようというきっかけになったのが、近くの禅僧に教えてもろうた「上求菩提(じょうぐぼだい) 下化衆生(げけしゅじょう)」という禅語。
これは、仏教の本髄みたいな言葉。「菩提(悟り)になるように高みを目指さなければ、人(衆生)を教えることはできませんぜ」
というような意味だ。
そして本来「師弟」というのは、「弟子が師をみつける」のを良しとする。なんとなく、どの道もそうじゃないかしらん。

シンコロのおかげで、長いことやってきた「寺子屋」をぜんぶ先月でおわりにした。
これからは、「啐啄珈琲塾」と「蕎麦打ち教室」を、求める人がいたら、伝授していくことにきめた。
新しい出発の月のはじまりはじまり・・・に感謝。「終わりは始まり」だと思う。

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