Living for Today

シンコロの影響で、「英語で蕎麦会」も半年以上やっていなく、
お客さんに「外国人」がほとんどいなくなって、在日日本人しか相手にしていないので、
英語を使うことが、皆目なくなってきた。
Living for Today・・・「その日暮らし」のことをゆうらしい。なかなかいい英語だ。

そして、微妙なニュアンスの違いこそあれ、わたしたちの「毎日」は、「その日暮らし」
に近づいてきた。これまでは「安定しない」とか「下流世界」みたいな負のイメージしか
なかったけど、考えようによったら「毎日を一生と考えて、その日その日に出会うコトやモノに感謝しながら通る」
というのは、「足るを知る」を大事にしてきた日本人の原点みたいな哲が、そこにある。
お金より「原始的ぶつぶつ交換」がはばをきかせる世界。最小限の努力でその日を生きる縄文時代からの哲学。

「おおて」という大企業に所属していて、世間的には「エリート」みたいな気持ちでいた人たちも、
その会社に通勤することもなくなり、ただ「所属」しているだけで、引きこもりやニートの人たちと
同じように「巣ごもり」の毎日。これから、人減らしとか会社の合併とかも加速するだろうし、
いつまでも「所属」できるか、不安な日々をおくっている人もおおかろう。
オンラインの会議や、テレワークもいいけど、プランターで植物を育てたり、なまった体を鍛えなおすような
ことを、ボチボチ始めなければ、「坐して死を待つ」となんらかわらない状況かもなんばん。
「看板よりも乾パン」・・自分で種をまき、収穫し、料理する人のほうが、持続可能性を秘めている。

「英語で蕎麦会」とか「ダメから始める中国語」とか「長屋で女史会」とか・・・・ながきにわたって
「21世紀の寺子屋」と称してきた勉強会に、緞帳を下げる決断をした。四半世紀続く「論語の会」
など、「どんな時代がきても続ける」をモットーでやってきた会もあるけど、「いつか」は命を含め、
みんな「おわり」があるので、そのようなことだと、受け止めている。とくに311以降は、月に一度集まって、
勉強して、その後酒を酌み交わし、〆に蕎麦を手繰る、という、なかばあたりまえの家族の日常が、日常でなくなった
「今」の時代には、そう決断するほかにない気もする。各先生方や、そこに集まって、机を並べて学んだ生徒さん
ちにどんなに感謝してもしきれない気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

「珈琲塾」と「蕎麦打ち教室」は、三密になることがないので、「その後の飲み会」はやめて、
「ただ学ぶ」の形で続けていきたいと思う。感謝。

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