昨日は、朝まずめに30分釣りをして、梅茶翁に梅仕事にいく。
ここ志賀町から梅茶翁まで車で約一時間ほどかかる。途中は海が見える道路を走る。
その途中に「けんちゃんパン」がある。けんちゃんとお母さんが朝からパンを焼いている。
けんちゃんは朝から、満面笑みで接客する。語尾の微妙な能登弁のイントネーションとその笑顔
は、能登の特産物のごとしだ。店の壁に、ガクランの首を開け、リーゼントをした、自画像みたいなイラスト
が飾ってある。最初に店にいった時、「昔、不良やったん?」と聞いたら、横にいたお母さんが笑いながら
「今も不良や~」と、やはり能登弁の不思議なイントネーションで答えた。
でもあの満面笑顔の顔を見ていると、小さいころからこの母親の愛情をたっぷり受け、天真爛漫な気持ちで
ずっと生きてきた「やさしい男」のような気がするし、卵と胡瓜とマヨネをたっぷりいれる卵サンドの味は、
きっとその「おふくろの味」に違いないと思う。愛情たっぷりの食育のなかで育った人たちは、途中寄り道を
するようなことはあっても、道を踏み外すことはない、と思う。地味だけど慈味たっぷりの「けんちゃんパン」。
10時ころ梅茶翁につく。Tシャツを脱いで、長袖のヨットパーカに着替え、スニーカーを長靴に変え、
軍手をして梅林にいく。来月は「梅仕事」の本番を迎える。先月と今月は、梅林の雑草とり。
我が家の畑の雑草もそうだが、雑草を抜きながら、後ろを振り返ると、また雑草がはえてくる・・・ごとし。
30本近くある梅林の雑草取りの大変さは、言葉や文字で表現しにくい。
東京で暮らしていると、一挙手一投足に「お金の計算」がまずくる。そんな電卓のような気持ちでは
「田舎暮らし」は無理だ。小さくふくらんだ梅の実を見ながら、「今年も元気に実をつけてくれてありがとう」
といえるような「やさしさ」がないと、やっていけない。ブヨにさされたり、蜂やへびやむかでに注意しながら、
自然を楽しむような気持ちで汗ダクになった。仕事を終えた後に汗だくになったヨットパーカを脱ぎ、裸になった
時の風のさわやかさ。「お金にはかえらない」ものがいっぱい。
5年前までは、押上・天真庵でそば打ちを習いにきていたふたりが、能登に移住し、梅林のある瑞穂(みずほ)
という土地で、畑や田圃をやりながら(今年から養蜂もはじめた)、週末はカフェを営んでいる。ふたりとも
四十路を半分ほど進んだ。人の人生もあっという間。自然の春秋もあっという間。
夕方能登の家にもどると、駐車場の隣のおばちゃんが魚をくれた。「今朝、久しぶりに舟をだしたんで・・」
立派なハチメ(めばる)と、九州でいうアラ(ソイとかいう)の40cmくらいのもの。
この夏からこの界隈の海は、土曜日の朝6時から日曜日の朝6時までの24時間は「釣り、漁・・いっさい禁止」
の条例がきまった。シンコロさんの影響ではなく、自然を大事にしよう、ということから決まったみたい。
さっそく昨日いただいた魚をさばき、ハチメは先日の生姜の残り入れて煮付けにし、アラは三枚におろした。
「田舎のたつき(生計)」というのは、お金や一般的な経済観念よりも、「やさしさ」というのが大事なことを痛感する。
やさしい友達をつくるコツは、「まず自分がやさしい友達になる」ことだ。口でいうはやすし・・と胆に銘ず。感謝。