昨日からゴールデンウィーク。初日の新幹線はガラガラだとラジオがいう。
訓練中の犬のように「一億総ステイ」だから。中国人などに占領されたような京都から
足が遠のき、行きつけの店や大学時代の友人からお誘いがあっても、この10年くらいは上洛していない。
でも、時々阿闍梨餅が無性に食べたくなる。そんなひとりごとを、勝手にのたまっていると、「京都にいってきました」
と常連さんさんたちが、時々土産に持参してくれたりする。
阿闍梨(あじゃり)様、とは、比叡山の千日回峰行を無事に終え、生き返った修行僧のことをいう。
その中でも「常行三昧」(じょうぎょうざんまい)という、厳しすぎて「死」の世界へいく僧が多く、
明治時代に中止された幻の修行を、二度もやった阿闍梨さまがいた。酒井雄哉さん。
「一日一生」という本は、日本の聖書みたいな本である。その本のはじめにこんなページがある。
・・・山を歩いて自然をながめていると、天気のよい日もあれば、雨の日もある。
春が来て、夏になる。秋になって、冬が来る。それは当たり前なんだけど、自然は常に移り変わり、めぐっていく。
自分たちの一生もそうで、ずっと幸せ、なんてないし、ずっと不幸ということない。頂上まで登って
「やったな」と思っていても、じりじり落ちていくこともある。その時に不幸が巡ってくるかもしれないし、
でも、やがてまた幸せが巡ってくることもある。何でもずっと続くことはなくて、ぐるぐる、ぐるぐると
回っているもんだな。
(略)
この瞬間の、目の前のものをありのままの姿で見なさいってこと。「いま」「ここ」にいる、という以外は何も
ありませんよってことだね。
いま死ぬかもしれないんだもの。過去は変えられないし、先はわからない。なるようにしかならない、死ぬ瞬間まで
「いま」「ここ」を大切にして、いよいよ死ぬってときになったら、取り乱さないで、ああ来たんだなあと思いなさいって
ことだよな。
毎日、コロナコロナ・・・のかえるの唄の輪唱みたいなところと、ぐるぐるぐるぐる・・・という繰り返しの部分が
ハモルような気分がしたし、最後のほうは、「死」が身近になった昨今のみんなの不安なこころを、「生きる」ほうに
舵をきってくれそうな言葉。東京の荻窪でラーメン屋を営んでいたこともある酒井阿闍梨さま。
本も江戸弁(べらんめい)と関西弁がブレンドされた話ことばでおもしろい。
なくなる時は「ただ、感謝の気持ちだな・・・」だったとか。
回峰行の最後の9日間は、「堂入り」といって不眠不臥で水もとらずに、断食断水に耐える厳しい修行。
その前に知人たちと「最後の晩餐」のような儀式があり、「そばがき」を食べるのがならわしだとか。
阿闍梨もちには、塩梅のよいあんこがもちの中に入っている。
「こんなんを食べるんかいな」と想像してつくったのが、天真庵の「そばがきぜんざい」。
とてもそんな厳しい行に耐えられるとは思えないが、阿闍梨餅やそばがきぜんざいを食べる、
くらいなら、「毎日が一生」だと笑いながら、続けていけそうな気になる。 感謝。