今朝も東京は朝から冷たい雨が降っている。
雨の日はよく大石学さんの「雨の日のためのCD」(雨滴・・なんじゃら?)を聴きながら
「哲」したりすることが多い。バロック音楽も☔に似合う。恋愛も酒も☔の日がいい?
「伝習録」が始まった。王陽明の「知行合一(ちこうぐいつ)」(習ったこと、羽をばたばたさせながら自分で行動し身に着けたことを伝えなさいよ、が伝習録)
まんまで分かりやすい。でも実践になると、いろいろ矛盾だらけ。でも、だからこそ人生はおもしろい。
王陽明は文武両立の人やった。死ぬまで負け知らずの武将でありながら、儒学者であり、陽明学を確立して
江戸時代から日本人の「こころ」に大いなる影響を与えた「哲人」でもある。
来年は三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自決して50周年を迎える。彼の思想の中心には陽明学があった。
江戸時代の官学の中心は朱子学だったが、「文武両立の英雄」の哲が、武士たちにうけたみたいだ。
大塩平八郎、吉田松陰、西郷どん・・・陽明学の信奉者は、壮絶な最後を迎えるのも確かだ。何もしないより、何かをしようとして「ノタレ死ぬ」がいい。
だからか、明治以降は「儒学」が中心になった。今の日本人は「論語も読まず孔子も講師も知らず」ばかりだが・・
王陽明の思想には、ふたつの柱がある。「知行合一」と「致良知」(ちりょうち)
良知とは「本来もっている天真のこころ」人間は生まれながらにして、宇宙の気と感応するこころを持っている。
おとなになって私欲に曇ることがあるが、本来は小宇宙のであり、この良知をいつまでも見つめることが肝心、
つまりそこ(良知)に致ることを「致良知」といった。
ぼくはいつものように厨房の中で、フロムの本を読みながら酒を飲んでいた。
いつも授業の内容は馬耳東風だったが、「伝習録」の中で彼の思想をわかりやすく説明した文の朗読が耳に入ってきた。
こんな話だ。
臭いにおいをかいだ後、人は臭いと感じているような意識をもつ。
しかし、臭いにおいをかいだ瞬間に、人は無意識(宇宙意識)で臭いと感じている。
きれいな花を見て、きれいという。でもほんとうは、そこにただ花があるだけ。それを無意識が美しさに感応しえいる。
人が人を好きになる。ああだ、こうだ、いう理屈の前にすでに無意識世界で恋愛は始まっている。
フロムの哲をかいつまんでいうと
「大事なことは、無意識的なものを意識的にするといい。
ひとは意識は無意識より高い次元のもんと思っている。まぎゃくだよ。
意識の大半は妄想であり、およそ真実とはかけ離れている」
ふたりの「哲」を、足し算してみると、
「人は意識という妄想の中で、もがき、自由に生きることから遠ざかる。
おこったことに自分流の解釈をしていると、生涯「いいわけ人生」になりますよ」
というようなことか?
情報化社会になって、人は意識に縛られ、「知ってるつもり」でその実「なにも知らない」ことが多い。
スマホなどの第三世界には「行動」がないし、本音とたてまえを右往左往してしまうことが多い。
花鳥風月を愛で、ひとを愛し、酒を愛す。そこに理屈はいらない。
「今ここ」の無意識世界に遊べばよろし。感謝。
今日は「書の会」
貞本先生とは、大塚駅前の「江戸一」で出会った。
学芸大から中国に留学し、書を勉強中に天安門事件がおき、帰国して起業した。
いっしょに目白の「ヨネクラボクシング」にも通った。
文武両立のひと。☂に朽ちてきたが、「天真庵」の看板の字を揮毫してくれた恩人でもある。
明日は「おんなかっぽれ」