Samい夜に「I am Sam 」を観る

昨日、能登の家にきた。ただなんとなく、東京と能登の二か所で暮らしているのではない、
ということが、だんだんわかってきた。若いころのように「目的」をもって生きていない分、
「無為」というか自然体で「生かされている」ことを感じ、自然やまわりの縁ある人
たちとの「ふれあい」に感謝する気持ちが強くなってきた。すると不思議な縁が無限大で広がってくる。
これを「無為自然」という?

途中富山のサービスエリアで「富山新聞」を読んだ。一面は地元の関脇「朝之山連勝発進」だ。
そしていつものように和倉温泉の総湯につかって、旅の疲れをとる。いつもバロック音楽
がBGMで流れていて、ここで静かにお湯につかっていると、自足、というか「何もいらない」
気持ちになる。新宿からも深夜バスがでている(7000円くらい)。入浴料が440円。
キャバクラやスナック、ヘルスなどにいくお金と暇があれば、いつでも気楽にこれる。
その後、近くのカフェで「北國新聞」を読む。一面は「遠藤、連日の金星」が一面。
東京にいると、「地元贔屓」の意識がうすれる。いまだに地方では地元の力士の一戦一戦に一喜一憂する。

「富山新聞」と「北國新聞」・・・その日の一面の下にある、朝日新聞の「天声人語」にあたる「字鐘」
というところが、同じことに気づいた。つまり、同じ系列の新聞社なんやね。
二度読んだので、だいたい頭に入った。こんな内容だ・・

「「ビールは初恋に似ている」・・・一敗目のビールのおいしさに比べると、二杯目三杯目の満足度が下がる。
経済学では「限界効用」とうそうだ。確かに初恋は苦い。だが鮮明に記憶されて、甘い思い出になる。二番目・三番目とは比較にならない。
・・・社会と個人の関係も一杯目が難しい。世の中には学問で説明できる
こととできないことがある。これも酒から学んだ。」そのような文やった。

反論はしないけど、今から思うと「どれが初恋」・・というくらい遠い昔話で、二番目三番めのほうが思い出深いし、年をとり「老いらくの恋か?」
になる境地の恋も、ビールの抜けたような若いころの恋の味よりも、よっぽど素敵なような気がする。これも、若いころの心は自分の目的にとらわれすぎて
いるけど、壮老年期の恋は目的から遠ざかって柔らかい。プラトニックで、片道キップのゆるやかな秘め事が多くなるが..

昨日の夜は、たこ焼きを酒肴に、角の炭酸割を飲みながら、PCで映画を見た。「I am Sam 」
囲炉裏の炭とウィスキーで暖をとりながら映画を観るのも粋なもんだ。アマゾンプライムなるサービスで
O円(Free)で見れた。その映画で辣腕女弁護士がFreeで、知的障害のある主人公を
弁護しながら、「ほんとうの親子の愛」というものを反対に学ばせてもらう・・そんな映画やった。
ユングじゃないけど、人はみな♀(アニマ)と♂(アニムス)の両性具有。それをお互いにバランスよく調和
させながら生きている。これを「おたがいさま」という。親子の関係もしかり。
「たこやき&ハイボール」との最高のマッチングとぴったりの映画で、エンディングの時に
角も空っぽになった。これも「色即是空」か? 映画の後半の犬たちのふれあいも素晴らしい。

鈴木大拙にこんな言葉がある。

野中の一本松が雨にぬれて、しょんぼり立っているのを見て、これに傘でもさしてやれぬかと憐れむ。
二階に寝かしておいた子猫がどうしたものかと気にかかるので、階段の下まで来て耳をすまして、様子を
聞きとらんとする母猫の真剣さ...これらがいずれも大悲の本願から出ている。
この本願にしたがうのが道である。

さすがだ!感謝。