愛媛の先輩のところから「みかん」が届いた。
ギャラリーをやるきっかけをつくった寒山拾得の南條先生は、今治に住んでいる。
今年卒寿の祝いに、6月にいってきた。
「もち麦」や「黒豆茶」をつくってくれてる農家さんも愛媛。
みかんを毎年おくってくださる大学の先輩(50の手前で召された)
は、立命館大学のELS(英米文学研究会)の先輩。DHロレンス(どえっち ロレンス というあだ名。チャタリー婦人の
描写で裁判沙汰などになった)の「息子と恋人」の原書を、一年勉強した。
毎日のように荒神口の「安兵衛」というおでんやで酒を飲み、学食の定食(200円くらいやったか)
も食うお金がなく、「ごはん」を注文したら、食堂のおばちゃんが、あまったおかずをのせてくれた、ような目立った貧乏学生やった。
そんな体たらくな後輩を見かけて、ある日、「今度の土曜日三条京阪の駅にきなさい。」といわれ、いってみたら、電車で京都競馬場につれて
いかれた。臨時従業員のバイトを紹介してくれた。当時喫茶店のアルバイトが自給280円。珈琲一杯が250円。ショートホープ
が50円の昭和51年度。大学の授業料が198000円。それを半分づつ分割で払っていた。たぶん国立大学と変わらないくらい、安かった。
そんな時代に、競馬場の給与は40日で40万になった。京大、同志社、立命館の「乗馬クラブ」の人たちがアルバイトにきていて、
彼らは、もらったお金をクラブに寄付?し飼葉代にする、というシステムだった。ぼくたちは、「貧乏学生を救済する」という
名目で、京大3人、立命館3人(同志社とかは、ボンボンが多かったのでおらんかった)の枠があった。その枠の中に入れて
もらった。
喫茶店のバイトと、家庭教師もやっていたので、当時の大卒の初任給が9万円くらいだった時代に、3倍くらい稼ぐ
ようになったと思う。銀行に預けるのが嫌いだったので、ネスカフェの空き瓶の中に、ぎっしり入れて箪笥預金ならず珈琲貯金
のようにしていた。家庭教師は、その先輩の下宿屋のボン。京大生とかが教えても、まったく勉強しないアホボンやった。
そんな手ごわい奴だったけど、いっしょにおでんやに連れていったり、パブにいって、女子学生をナンパしたり、
花脊峠まで自転車でサイクリングにいったりしてやっと勉強するようになり、紫野高校に合学した。
でも、家庭教師の悪影響か、一年で退学して、ミュージシャンになって、ニュヨークに渡り、今はロンドンで活躍している。
今年は柿もいっぱいとれて、干し柿にした。渋柿は干し柿にすると美味い。お茶のお茶うけの「原点」
また「一客一亭」の茶でもあれば、そんな茶会をしてみたい。能登では渋柿のヘタに焼酎をかけ
ビニール袋で10日くらい発酵させる食べ方がある。「ずくし」という。
世の中は澄むと濁るで大違い。 刷毛(はけ)に毛があり、禿(はげ)に毛がなし・・・そんな調子のうたがある。
世の中は澄むと濁るで大違い。 ずくしに柿あり つくしに牡蠣あり・・・・・・・能登町の津久志鮨をしってる人にしかわかんない?
今日は「国貞雅子のライブ」があるので16時閉店。