昨日紹介した「一年一組せんせい あのね」(理論社)は、1981年に初版。
発達障害の子や在日の子や、経済的に恵まれない子や、今では隔離されているような子
たちが、同じクラスに混在している。先生たちの、その子たちを見る目線が「家族」の
ように暖かい分、意に沿えず、転校していく子どもたちを見るにつけ、無力感にひしがれて
いるこころが伝わってくる。今は、もっと「家庭」や「社会」が崩壊しているので、この本は
子育て中の人や、その親たちの「バイブル」になるんとちゃうかな。そう思う・・
ぼくらが小学校一年生の時は、昭和37年。北九州市立天神小学校やった。「天神庵」?
八幡製鉄(今の新日鉄)の溶鉱炉や本事務所(本社みたいなもん)があったとこで、
「鉄の街」の最盛期。11月になると、「起業祭」(きぎょうさい)といって、街が祭り一色になった。
ぼくは、きっと今だと典型的な「発達障害者」に認定されていて、主席で違う学校にいっていただろうと思う。
小学校の前に普通「保育園」とか「幼稚園」とかいく。ま、就職したことがないので、履歴書を
書いたことがないけど(もちろん、幼稚園までは書かないか)、「いきなりステーキ」みたいに
「いきなり小学一年生」だった。
幼稚園は、近くのお寺がやってるところへ一応は入園した。スモッグ?スモック・・そんな制服があった。
近所のおばちゃんに「似合うわね」といわれ、なんだかそれがイヤで、次の日から制服を着るのをやめた。まだ自由な雰囲気が
あったので、それは許された?寺子屋の時間に「書道」があった。畳の部屋でやるので、お寺の片隅の部屋で
やっていた。壁が白い漆喰やった。墨をすっていた時、「この白い壁に字を書いたらおもしろいな」と思った。
何秒か後にすった墨に筆を入れ、それを思い切り壁にかけた・・・・・
その始末を母親がどのように解決したのかはわからないけど、ぼくはその日を境に、無職?の身になった。
その一件だけでなく、日ごろから先生の手を焼いていたようだ。
それからしばらくオジキが養蜂をやっている宮崎の日向で暮らした。美々津という風光明媚なところで、川で
泳いだり、養蜂を手伝ったり、オバはそばの製麺工場をやっていたので、毎日そばを食べて過ごした。
「発達障害者」というのは、普通の人より、直感とか、見えないもの、とか、自然の中にあるものを感じる力があるようにも思う。
ぼくは、鳥と会話したり、蜂などと対話する能力をそのころなんとなく身につけたように思う。半世紀たっても、その時
に身につけたものが生きているように思う。
昨年、親父の納骨に延岡にいった足で、40年ぶりにそのオジキの家を訪ねた。従弟のかずさんが「君の小学校一年生ときの
詩がとってあった」といって見せてくれた。八幡製鉄の社内報みたいな新聞で、小学校部門で金賞をもらったものだ。
これにも裏話がある。その詩は、自分が書いたものだが、罰?で「書かされたもの」だった。
11月の「企業祭」に「木下大サーカスがくる」というウワサがあった。
ぼくは、どうしてもそれが見たくて、学校をさぼって、サーカスの準備中の会場へ遊びにいった。
ひとりでいけばよかったのだが、ゴロク人を連れていったのがあかんかったみたい。
そのリーダーいうことで、職員室(ひょっとしたら校長室)で、事情聴取?を受けた。
ダルマストーブがその部屋にあって、校長が紙と鉛筆をくれた。今思うと「始末書」でも
かかせるつもりだったのだろうか?と思うけど、そこにつたない「詩」を書いた。それが金賞になった。
でもそれを見るたびに「たくらみ」のある詩で、始末書以上に始末がわるいので、記憶から消したい詩でもあるのだ。
昨日紹介した在日の自分と折り合いのつかない「よしむら せいてつ」くんの詩が、ぼくの詩とすごく似ていた。
素直な一年生に違いないけど、どこか屈折したもの(作為)が内包されたいる。だからこの子と飲んでみたいな。
「かい」
耳にかいをあてるとうみの音がきこえた
かいにはうみがはいっとるんやな
うみにずっとすんどったから
うみの音がしみこんでいる
うみはかいにいのちをあげたんかな
こんなのもあった。いのうえ あきえさん。素直な小学一年生。
「おかあさん」
おるがんで
ねこふんじゃったをひいとったら
おかあさんが
おしりふりふり
おりていった
今日は「英語でそば会」
二階は「普茶料理の会」 なんか年末らしくなってきた。
木曜日が「そったく焙煎塾」夜が「おとこかっぽれ」