亀戸餃子で哲

亀戸の猥雑な横丁に、亀戸餃子がある。
この街で生まれ育った天真庵の大家さんたちの「青春の味」であるらしく、
ときどき若きころの思い出を食べにいった帰りに「おすそわけ」をいただく。
酢醤油とラー油がついてくるのだが、「青春の味」は、酢に和からしを溶いて
食べる、という方式らしい。人の歴の箱をたどる必要はないけど、なぜか亀戸餃子を
食べるときは、「青春式」でやるのがならわしになってきた。

大学時代、つまり自分の京都の青春時代の餃子は「王将の餃子」になるか?
昭和50年代は、空腹で貧乏な学生のためにそのお店は「餃子のただ券」をくばっていた。
ぼくは、ブロイラーよろしくタダの餃子をついばむことに抵抗?いや、大学にも「からふねやの制服」
ででかけていた関係で、「王将・・」には一度もいったことがない。
「天下一品」の本店は、白川店から徒歩数分だったので、よく通った。
ふたつのお店は、今では東京でもたくさんある。

東京に出稼ぎにきて、最初に会社を立ち上げたのは秋葉原。その後代々木に3年くらいいて、
池袋に会社を移した。東池袋時代に、会社のある東池袋2丁目の交差点の近くに「餃子屋」
があった。ぼくよりひとまわり上の猿年の主人が脱サラで始めたお店で、よく流行っていた。
ぼくの蕎麦の師匠・高橋さんもひとまわり上の猿。その🐵と同期で同門(一茶庵で修行)の「そばもん」が、
「一栄」(ぼくの名前は栄一)というそばやを池袋でやっていて、「今日はぎょうざにしようかそばにしようか?」
などと迷いながら昼飯を食った。

上池袋に会社を移し、天真庵が始まったころから、家にたくさんの人が遊びにきて、飲み会
や蕎麦会やワインの会などを頻繁にやるようになった。巣鴨から歩いてくる健脚もいて、彼
らは巣鴨地蔵通りを通りながら「白餃子」を手土産にする、というのがパターン化していた。
冷凍の餃子だったけど、水を加えて焼く方式は斬新で合理的だった。

「九州気骨の会」という不思議な飲み会もよくやった。みんな若かったので、7時くらいから新橋の「ビーフン東」
や赤坂の「有薫」あたりで一次会が始まり、新宿の歌舞伎町のバッティングセンターやボーリング場にいったりしながら、
最後は池袋の「餃子楼」という朝8時くらいまでやってるお店で〆の餃子を食べた。(五六軒梯子した)
会長も幹事もテレビ局の人やったけど、そんな学生飲みがいけなかったのか、50歳前後で旅立った。
これも青春。太く短い人生には、それだけ濃い春夏秋冬がある。

最近は餃子を食べたくなると、近くのキラキラ商店街でちょっと太ったおっちゃんがやっている餃子を買ってきて、
蕎麦焼酎の「花」の炭酸割り、というペアリングもときどきやる。
10年以上続いている中国語の勉強会「ダメからはじめる中国語」では、年に二回、みんなで餃子の皮かたつくる
「水餃子大会」がある。今度の金曜日はその「ダメ中」だ。考えてみると、「餃子」も人生。

人は生きていくために口から食べもの入れ、けつの穴から排泄する。
よくよく考えてみると、ひとの体はアメーバ的に単純な「食べる臓器」だ。夏休みに田舎で鯛を2匹釣ったたくみ(小Ⅰ)が
外道で「ひとで」を釣り上げた写真を見せてくれた。人の手のような体の真ん中に、口と肛門がある。
ひとで、も、ひと、も同じようなものである。総排出腔(そうはいしゅつこう)という。食って、排泄して、
時々エッチをする。それをひとつの穴でするのが、総排出腔。穴が増えるから「渾沌」になる(荘子さまの説)
人はそこに情感が加わる(本来は)ので、「青春の味」や、「忘れがたき一皿」になったりする。
少し涼しくなったので明日は亀戸まで歩いて餃子を食べようかしらん。「初老の味」がするのだろうか?
ホンモノはみな簡素。食べたい時に食べ、したいときにし、眠い時に眠る。そして天命をまっとうして(または途中で)死ぬ。天恩感謝。

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