久しぶりに雨が降るらしい。
今年は雨が少ないので、玄関の戸があきにくくなる。
打ち水をする時、残りの水を戸にかけると、スムーズに
開くようになる。建付けが悪いわけではない、家も生きているのだ。
先日、近くに住むMくんからショートメール。「こないだみた魯山人の小福茶碗いいですね。大兄も
お抹茶を飲まれては・・」みたいなことが書いてあった。返事に「今年は抹茶も日常の中に入れようと
思っている」とだしたら「健康的にですか?文化的にですか?」とかえってきた。「なんとなく抹茶を飲む」
と書いておくったら、電話がかかってきた。
「今のお抹茶は細かく挽きすぎて、繊維質が少ないらしい。
そこで粗びきにしたお抹茶をお客さんにいただいたので、半分おわけします」とのこと。健康的なお抹茶の紹介だ。
徒歩5分のところに住んでいながら、普段はショートメールでやりとりをすることが多いMだが、
時々電話がかかってきて、会うと、茶の原田先生を紹介してくれたり、骨董屋を紹介してくれたり、
不思議とこちらの半歩先につながる「こと」を紡いでくれる人だ。その「まめ」さに感謝。
一歩踏み込んで、「電話をする」ということがだんだんおっくうになってきた。反省。
そんなことを思っていると、古希から喜寿の間に違いないけど矍鑠としたご婦人がそばを手繰りにこられた。みごとに「おたぐり」
になった後、「今日は伝言をお伝えにきました」といい、「昨夜杉並に住む友人のSから電話があり、
わたくしの近くにひとりで住んでいた加藤雅子(仮名)さんが一月末に自宅で亡くなっていたことを、天真庵の主人に
連絡してほしい。加藤さんに連れられて、天真庵にそばを食べにいったことがあるので・・」
とのことだった。加藤さんは織田流煎茶道の先輩だ。ご主人に先立たれてからひとり暮らし。
すぐに家元に電話したら、「雅子ではなく、京子ですよ。人違いでなのでは・・」
とのこと。なんとなく、うん、そうか・・・と思いしばらく、「雅子さん」って誰だろうと思っていた。
夕方になって胸騒ぎがするので、加藤さんと親しかった茶の先輩に電話してみた。
「う~ん。彼女の可能性がある。一月の終わりにメールをしたけど、返事がこない。今までそんな
ことなかったけど、忙しくしているんだろう、と思っていた。ちょっと電話をしてみる」との
ことで中断。10分くらいして電話がなった。「携帯電話がつながらなくなっている」・・・
だしたメールに返事がない。そんなことは日常茶飯なことだが、そこに生き死にのことが存在することがある、
というのを実感した。これから「ひとり」で生活する人がますます多くなる。メールで「つながっている」
と思っていても、実は何も「つながっていない」ことと同義語でもある。
ときどきは電話をして、実際に会う、ということも大事なことやな、と思う。
その大先輩は、「今度機会があったら、このお店いって」といって「いいお店」を何軒も紹介してくれた。
そしてそのお店にいくとかならず、「彼女からです」といって、そのお店の料理にあうワインや日本酒がでてきた、そんな良き時代
の先輩でした。鎮魂。