哲学の道のはじまり・・

京都に「哲学の道」という場所がある。
南條先生が南禅寺近くの「野村美術館」で毎春に「寒山拾得展」
をやっていたので、その時には必ず散策した。
個人的には、南禅寺まわりの「桜」が一番好きだ。

なぜ京都に「哲学の道?」と思われる人も多いのでは・・?
そんなこと考えてもない人は「ボーと生きているんじゃないよ!」と喝が飛んでくるかもなんばん。
京都大学に西田幾多郎という哲学者がいた。彼が思索しながらその道を歩いていたので、
その名がついた。

先週九州に帰る途中、石川県の「かほく市」の道の駅に立ち寄った。そこの便所に
「石川県西田幾多郎記念哲学館」のポスターがあり、彼が石川県さん、と知る。
鈴木大拙先生も石川。やはり下学から哲をした、「晴耕雨哲」な人生。

西田先生に9年も師事した「森信三」という人がいる。なぜだか、宗像の本棚
には彼の著書があまたあり、一冊を能登につれてきて、昨夜読んでいた。

冒頭に
◎「天地終始なく人生生死あり」・・・これは頼山陽が13歳の元服に読んだ「立志の詩」
の一句ですが、これをいかに実感をもって我が身に刻みこむかが、笑われの問題です。
とあった。

若いころ読んだ時は「ピン」とこなかったが、還暦を超えて読むと、染みるものがある。
南條先生の掛け軸にも「立志の詩」がある。今朝は朝から雨が降って(みぞれ)いるので、釣りと畑
はあきらめて、掛け軸をかえて、お茶をのみながら、読書をしよう。

その本は、森先生の「ことば」を選りすぐって紹介していて、項目ごとに、かこわれた
「坂村真民さん」の詩がのせてある。真民先生は「詩国」という詩集を四国に住みながら書いた詩人。
生前「森信三先生こそ、21世紀の扉を開く唯ひとりのお方です」とのたまっていたらしい。

「ありがたさ」
夜があけるということは なんとありがたいことだろう
光がさしてくるということは なんてうれしいことだろう  真民

朝起きる、というのは潜在意識に包まれた世界そのもの。「生かせれている」に
感謝するその時こそ「哲の原点」でもある。       天恩感謝。