いのししさんが、畑仕事を手伝ってくれる?

先月、車庫の後ろの畑の背高泡立ち草を抜いた。
冬までにそこの畑を耕そうと思っている。
つるにおおわれたサツキが、つるからほどいてあげたら、
すごく元気になった。「ほどく」というのは、「仏」のことだま。
いろんな柵(しがらみ)をほどく、と楽になることが多い。

親を択んで生まれてこない。同様に子供も択んでいるわけでもない。
生きたり、死んだりする間に、いろんなことがあるけど、病気も
自分で「がんになりたい」とか「心筋梗塞になりたい」とか択んでいるわけでも
ないのに、ときどき「病気になる」。それら択んでもないのに、おきることを
「神様からの授かりもの」として、日本人は縄文時代あたりから生きてきたように思う。
「おきることはみな必然」で、意味のないことなど何もない。
わたくしたちの「宗教観」というのは、縄文のDNAが刻まれているようだ。

昨日、倉庫を掃除して、車を入りやすくした。冬の能登は風が強く、車が塩害に
さらせれるので、東京育ちの車には過酷なので、シャッターのある車庫に入れることにした。
わずか5坪くらいの車庫だけど、躯体がしっかりしていて、ロフトもついている。
寒山拾得美術館は建坪が100坪強あるけど、ぼくは「小屋好き」で、時間があると、
そちらにいって、「ここに焙煎機をおき・・・ここに椅子とテーブルは今、足立くん
に依頼していて・・・」とか、ここに五右衛門風呂を作るか?とか、
畑が後ろにあるので、もうひとつ「コンポストトイレ」を作るか?」とかいろいろ夢想しながら、
無窓の小屋で珈琲を飲んだりする時間が多い。

昨日は鍬で畑を耕した。「?」と思った。雑草は刈り、さつきのつるははがしたけど、畑を耕した
おぼえがない。すると隣の畑にいたおばあちゃんが「いのししの親子が先日きて、土を掘り返した」
とのこと。「・・・・」なんと答えたらいいのか、わからなかった。
「根っこまで掘っていく。自分でそこまで耕すのは大変だから、イノシイが手伝ってくれた、と思えばいい」
と。さすが、厳しい自然にふれあいながら生きてきた人の言葉だ。感謝。
なるほど、自分で鍬を入れてみると、竹や背高泡立ち草の太い根っこは掘り起こすのに、かなりの力がいる。

いろいろな人に助けてもらいながら、田舎暮らしの「見習い中」なのであーる。