火曜日は「書の会」だった。例の「端渓の硯」を見えると、文人墨客たちが
羨望の目で見るに違いないので、車の中の茶箱に、お茶道具といっしょに
忍ばせて、能登の寒山拾得美術館にそっともってこうと思っていた。
でも貞本先生と剣菱を酌み交わしているうちに、つい口がすべって、というか、
自慢したくなって、車からもってきてみんなで拝見会とあいなった。
間違いなく「端渓の硯」だそうだ。さっそく墨をすり、みんなで書をかいた。
煎茶の流派によっては、文房四宝を飾ったり、みなで書をしながらお茶を喫する
ような手前もある。「自由で優美である」
少し寒くなってきた。いい水を沸かし、お茶を飲む。「活力」が体の底からふつふつ
と湧き上がってくる。そんなすばらしい日常茶飯が、日本の暮らしから消えてひさしい。
床の間には、荒木十畝(じっぽ)の軸をかけている。硯のじいちゃんが
くれたもの。「これは山種美術館あたりに飾っているような、いいもんなので、もっていかれたら・・」
と諭したが「いらねえ、あまえにやる」といってきかなかった。
蓮の葉にセキレイがとまっている絵。十畝は「鳥」が上手だった。
久保さんの織部の蓮皿におひがしをのせ、掛け軸の前にお茶といっしょに手向けた。
昨日からくだんのじいちゃんは新天地に暮している。じいちゃんが生まれ育ち、子を育てた
家も解体され、更地になり、新しいフェンスで囲いがしてある。
まるで、クリックして「うわがき」するごとく、町の景色がかわっていく。
どの時代もこうやって、町の景色は移りかわっていったのだろう。
取り壊される寸前に、じいちゃんと出会い、かかわりをもった分、実に感傷的な秋になった。
昨日から11月。水曜日が「おんなかっぽれ」昨日が「おとこかっぽれ」
10月のおわりと11月のはじまりが「かっぽれ」になった。
暮れが近づくと、かっぽれの先生の指導がきびしく?なり、昨日は浴衣が汗でぬれた。
われらの先生は、サマーズの三村氏のおばさん。この人もまた芸に命をかけている人だ。