10日くらい休みをいただいた。実に長く感じた時間。
「悟りの瞬間」を10回くらい(毎日か)感じた。少し魂が鍛えられた、そんな気もする。
いつものように「松休み」のため、奈良のお寺をまわって、仏像を拝み、泉大津から
門司港への阪九フェリーの旅。奈良についた時妹から電話が入り「お父さんが入院した。あまりよくない」とのこと。
こんな時はあの寺やな、と直感して「大安寺」(だいあんじ)にいって「祈る」。
あまり知られていないけど、時代に取り残された感のある古刹。ここの空気は、言葉では尽くせぬものがある。
阪九フェリーは、泉大津を夕方出発すると、翌日はやく門司港に着く。お風呂は露天風呂やし、夕食が
「船上の居酒屋」よろしく、博多の屋台ででてくるようなものが揃っている。それをつまみながら、
暮れていく海を見ながら酩酊していく道程が、旅人にはたまらないものがある。父親の様態が不安
だったけど、酔うたらそんなことをしばしうっちゃってくれる。(なんと親不孝な・・)
「船上のピアニスト」ではないけど、時々ロビーで「船上ライブ」がある。その日はウクレレを
弾き語りでやる青年。表情がなかなかおもしろく、自作の詩も真摯なメッセージが込めれれていて、
なかなかよかった。この船でライブをやると、片道分がチャージ料になるらしい。うちでライブを
やるショーくんとか若いアーティストたちにもすすめている。
終わった後にCDを買いながら談論を風発。「平魚泳」という芸名の青年は千葉から耶馬渓に
移住した、という話になった。耶馬渓といえば「豆岳珈琲やね」というと、何度もライブを
やっている、とのこと。Tくんというのが、天真庵にきていて、耶馬渓に移りすんだ、という
話をしたら、こないだまで「隣」に住んでいた、ということ。まったく、恐ろしいほど
不思議な「えにし」を感じて、名刺を渡していた。今、pcを10日ぶりに開いたら、
彼から「秋に天真庵でライブをやりたい」とのこと。さっそく調整中だ。
松の手入れをした。昨年までは親父に教えてもらいながら、一本か二本を手入れしていた。
今年は父の体調が悪かったため、6本の松をかみさんとふたりでやる。自分がいなくなったことを考えて
6本に減らしたらしいけど、庭に6本松があると、二日では大変だ。
でもなんとかこなし、能登へ出発。福井から石川に向かうあたりで、また妹から電話があり
「この3日あたりがXデーになりそうだ」とのこと。急遽小松から飛行機で福岡へ単身もどり、かみさん
は梅林ガールズたちの待つ能登に。
父親は93歳。ガダルカナルの生き残りであるし、生命力が「並」でなく、61の時、動脈瘤の手術をし、
92の昨年と、今年続けてその当時やったバイパス部分にカテーテルを施した。ひと昔なら、天国へ一直線の病気。
医学も進歩しているけど、今の人にはない大正時代の気骨、みたいなものが、奇跡を起こしているのだと思う。
毎日病院で「一期一会のお茶会」をふたりでした。久保さんの焼き締めの「宝瓶(ほうひん)」に
福岡県星野村の玉露を入れ、それを病室で使う「ぐいのみ」(横たわっても飲めるガラスの急須みたいなもの)
に入れ、京都かぎぜん(鍵善良房)の「おひがし」を一個食べてもらい、ぐいのみで一煎。鼻には酸素の管が
入っていて、声はかすれているけど「たいへんけっこうなおかげんで・・」といって笑う。
なかなか風流なものだ。(看護婦さんや先生たちは、けったいな親子?みたいな顔してたけど)
奇跡的に今回もXデーはこず、昨日の新幹線で帰ってきた。19の時、家をはじめてでて京都にいく日、
小倉駅から旅立った。そのころから小倉駅の7、8番ホームに「立ち食いうどん」がある。
駅の外の繁華街にも、うどんやはあまたあるけど、ここの「かしわうどん」は、日本一だと思う。
「クッキングパパ」にも紹介されたことがあるけど、「小倉の味」と「小倉っこの思い出」が凝縮されている。
ゆっくり帰し方を振り返ってみた。いろいろなことがあったけど、「過去はすべてよし。これからの未来も輝いている」
ように思った。人は年をとると、だんだんできないことが多くなる。おぼつかない体に地団駄を踏んだり、なさけなくなったり、
無力な自分をさらけだす。でもそんな時、家族やまわりの人たちに、支えながら生きていることを痛感し、感謝する。
帰る前日に隣の若おくさんが二歳の女子Nちゃんをつれて「回覧板」をもってきてくれた。お袋が読んでサインをするまで
待って、それをまた反対の隣の家に運んでくれていた。さりげない風景だけど、すごく新鮮だった。
帰り際に二歳のNちゃんが「野村さんはやく元気になってください」といって笑った。91歳のハンデーを超える「愛」
みたいなもんを感じて涙があふれてきた。感謝。