明日からまた能登にいく。
寒山拾得美術館もだいぶできてきた。
名刺にも書いたけど、「のとの里山で暮らす ような美術館」に
したいと思っている。肩肘張らず、里山里海の空気を吸いながら、
小鳥の声や田圃の香りを楽しみながら歩いてきてほしい。
国とか県とか公のものか、功なし名を遂げ、たような人たちが昔から美術館をつくってきた。
「その日暮らしのものが、身の丈にあった目線で、その日暮らしのような素朴な美術館が
あってもいいのではないか?」と神の啓示があり(あったかな?)能登に作り始めた。
あまさんが裸のままきたり、野良仕事の恰好で鍬もってきたり、普段着のまま遊びにきてほしい。
「寒山拾得(かんざんじゅっとく)美術館」
少しおおげさな名前であるけど、公のものや、財閥系の美術館に「冠」くらいは負けない
ものを、というおもいと、「日本人がほんとうに大切にしてきたもの」が、その中にいっぱい
つまっているので、その名前を採用した。
1996年に「画廊天真」なる看板を池袋の「お化け屋敷」みたいな家の門柱に掲げた
時から「寒山美術館」は始まったようなものだ。南條先生の寒山拾得、白井晟一さんの書、長崎剛志
くんの版画が飾られ、久保忠廣さんの器で、珈琲やお茶やお酒を酌み交わし、蕎麦を手繰る
空間である。「原点回帰」ではないけど、先週からお店の看板を、20年前の「画廊天真」に
もどしてみた。ずっとやってきたことは、ひとつごと。
天真庵の階段のところに、月を見上げる寒山拾得の絵がある。昔から絵描きは、
月を取る(運気を高める)縁起でそんな構図の絵を描いた。
その短冊は最初の個展の時に、書いてもらってその当時の「店主室」に飾っていたもの。
画廊を始めたころは、IT企業の社長連中と普通の主婦の方たちが「寒山拾得の絵」を
よく買ってくれた。ITの人たちは、ぼくがその会社に遊びにいき、社長室などに通され、
話をしていくうちに、なかば半強制的?に嫁がせたものが多い。2社だけ倒産の憂き目にあった
ところはあるが、残りの30社くらいは、今でも存続している。「運気」があがったのかもしれない?
社長になるにはふさわしくない人もいるし、倒産することも悪いことではない。
夫婦だってあわない人は、はやめに離婚することは悪いことではない。どうしても、この人間関係が
いやや、と思ったら、辞表をだしてもいい。あまりクヨクヨせんこっちゃ。「なんとかなる」
社長連中は「領収書」を切って絵を買う。主婦は「自腹を切って絵を買う。後者のほうが、100倍
素晴らしい、ことを体感させてもらう。「絵」とか美術品や「普段の飲み喰いの」は、自分のこころの
こやしにしようと思ったら、「自腹」に限る。今、青山でやっている「原爆堂」の白井晟一さんの遺言
みたいな言葉でもある。松涛美術館を設計した人。
これから「卵かけごはん」
最近は味噌汁に能登の海藻などが浮かんだりする。もうすぐ「能登そばUFO」もでる。
能登の梅と、海藻をのせた「冷やかけそば」
昨日の夜、「菌活」(味噌作りの会)に来る人たちに、「梅仕事」のメールを配信した。
味噌作りは自分でやっているけど、梅仕事をしたい、とかいう人は、お店にきてそんな話を
してくれると、「梅林ガールス」の仲間になれる、と思う。
顔がわからない人とメールだけでやりとりは、苦手なので、そうしてほしい。
写真をお店でとらせない、とか、一時間たったら追加オーダー、とか、お店で携帯やpcの使用を禁止
・・とか今風とは反対のうるさいお店ではあるけど、そんなところがいい、という少数派にささえられて
、なんとかここまできて、のとまでいく、そんな「今日このごろ」。能登の案内には住所ものせていない。
かわった美術館。感謝。