念ずれば花ひらく

今日から3月。
トイレの真民さんの日めくりカレンダーは「念ずれば花ひらく」だ。
正月元旦に地震がきたときから、ちょうど2か月。
少しづつ能登の人たちも、復興にむけて歩き出しているに違いない。

先日TOGISOの管理人のまどかちゃんからメール。天丼の写真が添付されていた。
「はしもと食堂」(富来)が再開されたことを知らせてくれた。今年75歳になるてるみちゃん。
今回の地震で、もしかしたらお店の緞帳を下げるかも知れない、と思っていたけど、さすが半世紀も
続けた根性と、お客さんの再開を望む声が背中を押して、また歩きだした。

水曜日は、いつもの徘徊散歩。
錦糸町のブックオフで、一冊本を買う。
その後、豆源郷までてくてく歩き、木綿豆腐、うすあげ、厚揚げ、とおから。

おから、といえば、最近おからで味噌つくりをするのが流行しているらしい。
「一物一体」じゃないけど、どうぜなら、まるごと味噌にするほうが、栄養のめんからも、
いいように思うばってん、世の流れが「効率」のほうに流れ流れているので、「大豆」
というくくりで、おからに白羽の矢がいったのだろう。

水曜日は「緑豆の豆腐」の日。午後にいくと、ほとんど売り切れているけど、ある時は
必ず買う。そのままスプーンで食べてもOK牧場。というか、なにも足したくないほど、美味い。
運がよければ、緑豆のおからも買える。一個あったので、買ってかえって、さっそくいつもの「緑豆おからの
ツナマヨサラダ」をつくる。
レシピというほどの工程はない。豆源郷にたどり着いて、緑豆のおからを買えたら、95%成就!

おからを、適当な大きさのボールに入れる。玉ねぎを一個みじん切りにして、ツナカンといっしょに
ボールにいれ、マヨネーズ、塩を適宜いれて、木のへらでまぜあわせる。
NHKFMで「5分でミュージックライン」というのがあるけど、5分もあればできる。
小豆を煮る時、上手にできると、半分くらいが「味見」という名目でお腹の中に消えてなくなることがある。
この「緑豆おからのツナマヨサラダ」も、同じような感じで、つくる時に半分。その日の晩酌のアテでほとんど
が消費されて、お店のお客さんの口に入ることが稀有だ。地産地消ならぬ、自産自消かもなんばん。

そんなわけで、今日は「おから」はないけど、12時にお店を開ける。
今日も3時くらいから「味噌つくり」だ。
今日あたりで「100人目の味噌つくり」。感謝。

なるほど、こんな能登の支援もあるな~

先週、背が180くらいで、髪を金色に染め、首や腕にタトゥを施した青年が
カウンターに座った。
生まれが北九州のぼくは、小さいころから銭湯で、もんもん男は見慣れていて、
美術館で絵を観るように、たくさん鑑賞してきたので、あまり驚かないばってん、
青年の目が、きれいに澄んでいるのに感心した。

そばをズズズと手繰り、蕎麦湯を美味そうに飲み干し、ホボブラジルを飲みながら
「ほぼブラジルってなんですか?」と質問する。「必殺技ココナッツヘッドバットの黒人レスラーで、
ボボブラジルというのがおったろーもん?」と言うと、「????」の顔をした。
たぶん、まだ30代くらいの人で、力道山もボボブラジルも知らない世代。

反対に「きみは何をしているの?アーティスト?ヤクザではないよね?」と職質みたいな質問をしたら、
「アフリカの支援みたいなことをしています」とのこと。ある時、エチオピアにいって、現地の人
たちが、淹れる珈琲に感動して、珈琲にはまっている、という話をした。
「311の時、避難所に珈琲の道具を積んでいって、避難している人たちの中に入り、『仲間にいれてください』といって、
珈琲を振舞いながら、家族や親せきには言えない「本音の話」を聴きながら、いっしょに珈琲を飲んだ」話をされた。

「3月の終わりに、軽トラを借りて、能登の避難所にいく予定です。『天真庵にある能登のフリーペーパが参考になるよ』と友達
に聞いてきました」というので、「ぶらり能登」を手渡し、「いく時は、ホボブラジルを寄付するけん、寄って」
と伝えた。
被災した家にどろぼうに入るような日本人もいれば、こんな青年も同じ日本人。
単一民族といいながら、ほぼぶらじるみたいに、いろんな種類のごちゃまぜブレンド民族でもある。感謝。

月曜の朝は玉子かけごはん

5年ほど使っている「珪藻土の竈(かまど)」がだいぶひび割れてきた。
能登の家の倉庫には、あとふたつ在庫がある。
無事であることを、密かに祈る日々。
それよりも、珠洲で珪藻土七輪をつくってきた丸和工業さんが、
また始業できますように。。。

竈に炭を入れて、羽釜でごはんを炊き、残った炭を半分囲炉裏にいれ、
五徳に寸胴(大豆を前々日から水につけている)をおき、
味噌つくりの準備。残り半分は、小さな珪藻土の七輪にいれ、手回し焙煎機
をのせて、炭火焙煎をしている。玉子かけごはんを食べにくる人で、毎週この
焙煎したての豆を買って帰る人がいる。
今一段落したので、焙煎したての「ほぼぶらじる」を飲むながら、PCに向かっている。

味噌つくりもいよいよ終わりに近づいてきた。3月3日が千秋楽だ。
今年は天候不良のせいで、九州や能登の大豆の収穫が少なく、北海道産
のみを使っている。
昨年の能登は、梅も不作、たこも釣れず、秋のアオリイカもイマイチだった。
東京にいると、いろんな国や地方から食べ物が集まってきて、「お金」
があれば、不便なく買えるけど、「これでいいの?」と思うことしきり。

車麩を頼んでいる新潟の村上の方から手紙がきた。
いつもの2月は雪が多く積もるのに、今年は少ないとのこと。
雪下ろしの苦労は減るけど、気候変動がどうなるのか不安です、と綴られていた。
届いた車麩を「おでん」にして、そばのお弟子様にいただいた会津若松の地酒を
飲んだ。寒い国のものは、寒いからこそ、暖かい土地にはできない滋味がうまれる。
こころまで、あったかくなる晩酌やった。感謝。

♪長崎から船にのって神戸についた!

昔そんな歌があった。

昨日は、作庭家の「長崎剛志」くんが、そばを手繰りにこられた。
ぼくが、池袋で天真庵というギャラリーを結んだ時、屋上に池袋の猥雑な夜景を
借景といて、庭をつくってくれた。当時の「和楽」としう雑誌に取り上げられたり、
デザイン誌にも掲載され、英語やフランス語になって、世界中に紹介されたこともある。

「長崎剛志 N-tree」で、検索すると、彼の仕事の詳細がのっている。
今年は庭をはじめて25年。
出会いは、新宿のギャラリー。芸大を卒業する年で、「卒業記念展」みたいなことをやったことがある。
もうひとり、彼の友達の画家の作品を観にいったのだが、それよりも、彼の「版画」がおもしろかったので、
受付の女子に「彼と連絡を取りたいのですが」と尋ねた。「おにいちゃんは、ヨーローッパに
いってます」との返事で、その子が妹さんだと知り、名刺を渡した。
天真庵のHPに「テレビ金沢」に紹介された動画がある。玄関に「手と手をつなぐ」
という卒業記念につくった大きな版画がでてくる。
まさに能登の地震で多くのボランティアが、手と手をつなぎにやってきている「今のもの」を象徴している。

一か月くらいして、帰国した長崎くんが池袋の天真庵にきて、庭をつくってくれたり、「今のもの」
という展覧会を仲間とやってくれるようになり、建築家の中西くんや、木工の般若くん、金工の角居くん
たちが、ぞろぞろと遊びにくるようになった。だから、彼らと出会ってから四半世紀になり、みんな
25年としをとった。押上天真庵の改装は、中西くんがリーダーで、みかんと林くんの3人が中心でやってくれ、
玄関と椅子は般若くんがつくってくれた。取っ手は角居くん。そんな流れだ。

コロナが流行しはじめたころの長崎くんの年賀状に、「長崎の庭をつくっています」
と書いてあった。「自分らしい庭を、相変わらずつくっているんだ」と思っていたら、
長崎の「諫早神社」(いさはやじんじゃ)の庭をつくっているらしい。今年は完成の年になるらしい。
縁があって、長崎には、毎年呼ばれるので、今年は「諫早神社」にお詣りしたいと思う。
ぼくのふるさと「宗像大社」も、神社という形態の前からあった磐座(いわくら)みたいな「祈りの場」
があった。長崎の「原山ドルメン」や能登の真脇遺跡にいくとわかるけど、「石」には不思議な力がある。
彼は、そのあたりの「祈り」(感謝)を込めながら、縁ある場所に「庭」を作り続ける崇高な庭師だ。

今日は12時から16時まで営業。それから「味噌つくり」「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」

明日の朝は「玉子かけごはん」(8-10)

プッチャリンの応援団きたる!笑、がいい。

浅草あたりで、ときどきチャップリンそっくりのピエロ
の恰好をしたおじさんを見かけることがある。プッチャリン。
実家が宗像という不思議な縁で、天真庵の上原英里さんのシャンソンのライブ
の時に、共演してもらったことがある。

彼と同級生で、ちょっとお洒落なおじさんがときどき珈琲を飲みにこられる。
九州では、いいにくか言葉やけど、必ず「ボボブラジル」と、濁音で注文される。
「しまうまおじさん」で検索すると、彼のお洒落な日々のインスタ?が見られる。
毎日、同じ角度から自分を撮影する。少し太ったと思うと、メシを減らしたり、
一駅歩いたり、日々精進のたまもの、みたいな生活をしておられる。

もうすぐ後期高齢者なんだが、最近「月初めは田舎暮らし」を実践されている。
下諏訪?に人気のゲストハウスがあり、そこに「焙煎器UFO」をもって何日か滞在し、
銭湯にいったり、若いアーティストや、お客さんとふれあいながら、青春真っただ中なのだ。
朝ごはんの時は、UFOで焙煎し、いっしょに泊まっているお客さんやスタッフに「手前珈琲」を
ふるまっているそうな。
「自然農をやっている人に頼まれたけん、UFOをもういっちょ買っていくばい」といって、
かえりに、お持ち帰り。ひときわ大きな声で「デカマラの生も買っていくばい」とのこと。
標準語になおすと「ガテマラの生豆をちょうだい」。
こんな元気な老人さんが増えると、日本もまだまだ斜陽どころのさわぎじゃない。

今朝、熊本のIT時代の仕事仲間からメール。
「年末はお世話になりました。いただいたうめ星・・・すごいです。珈琲に入れたらなめらかな味になる。朝起きた時、寄る年波のせいか、
小指が痛くてたまらんやったけど、うめ星をにぎっていたら、5分で痛みが消えます。
お礼かわりに馬刺しをおくりました。ご笑納ください。」とのこと。
この人の会社は、ぼくがソフトバンクにいたころ(昭和57年ころ)、取引額がベスト5
の中に入っておられた。古希を超えたけど、やっぱり感性がするどく、
いろいろ勉強させられていること多しだ。ひょっとして、70代のおじさんたちは、日本や世界を変えていくかもなんばん!?感謝。

クリックよりスナック。ジョギングよりジョギが面白い?

東証がバブル時代よりも高値を更新した。
あまり実感がわかないのは、株に投資するわけでなし、
健康的?なその日暮らしをしているからだろうか?
能登で暮らしはじめてからは、株よりも「かぶら寿司」
のほうに触手がのびる。

昭和のバブル期も、あまり実感はわかなかったけど、飲み屋が
どこも繁盛していたし、ナガッチリや梯子して終電で帰るをこえた人たちが盛り場にあふれ、
タクシー乗り場に人が行列していた。新宿で飲んで、最後にゴールデン街で時間をつぶし、
明治通りにでてタクシーを拾おうにも拾えず、池袋まで歩いて帰ったこともしばしばあった。
ゴールデン街でよくいったお店が「洗濯船」。

店主のゆっこさんから、先日新年のあいさつ状がきた。
今年は48年目とのこと。干支を4回まわしたことになる。すごい。
もともと、藤間流の踊りをやっていたり、何周年記念のパーティーでは、ミニスカートを
はいて、シャンソンやジャズを聴かせてもらったこともある。古希をこえた今は、ミニスカート
を袴にかえて、ジョギ(女義太夫)の浄瑠璃を趣味でやったりしている。

彼女のお店の常連さんで、3月20日(祝日・12時45分開場13時30分開演)に、紀尾井ホールで初舞台を踏む人がいる。「女流義太夫演奏会」
竹本越孝(こしこう)門下、竹本孝之資(たかのすけ)さん。

今年は「なにか新しいことをはじめる」と、運気もあがりそうだ。
ジョギの演奏会に興味がある方は、03-6264-3047まで電話してみてください。
昨日も、ジョギの人たちが、味噌つくりにこられ、話が盛り上がっていた。

ゆっこさんの賀状には、いつも一句ひねったものが添えられている。今年は・・

花の山数歩に越えし太郎冠者

「かもす」毎日・・味噌つくりも後半戦・・

今日は20日。先月の後半から始まった味噌つくりも、折り返し地点を過ぎた。
今年も100人を少し超え、104人の「菌活仲間」が味噌をつくりにくる。
一日二三人が普通だけど、先々週の土曜日が7人、先週の土曜日が6人だった。
さすがに、その人数になると、天手古舞になって、ぼくの手が猫の手になる。

今日は3人が味噌つくりにくる。寸胴(ずんどう)にいれた大豆と水(仕込みの日の二日前からつける)を石油ストーブと
囲炉裏の五徳の上にのせる。昨日から小春日和の陽気なので、ペレットストーブには火を入れていない。
2月に入って5日くらいしか出番がなく、なんとなく寂しそうな顔をしている。山形の会社の
ペレットストーブ。女性オンリーで企画したらしく、細部まで気が配られていて関心することしかりだ。

まだ水も断水で、避難所で生活している人も多い能登のことを思うと、「暖かいほうがいい」と思う。
正月から大震災に見舞われ、まだ「おめでとう」どころではない。でも昔から災難は時を選ばずやってくるものらしい。

「葉隠」ほど有名ではないが、後世の人に影響を及ぼした儒学者に「大道寺友山」という人がいる。坊さんみたいな名前。
山鹿素行の門人で「武道初心集」を残した。その中にこんなくだりがある。

武士たらん者は、正月元旦の朝、雑煮餅を祝うとて箸を最初に取り始めるより、その年も大晦日の夕
に至るまで、日々夜々死を常に心にあつむるを以って本意の第一と仕(つかまつ)るにて候

「今だけ 自分だけ お金だけ」の政治家たちに、そんな気骨は微塵もない。世が世なら、みな切腹の沙汰みたい
な輩が集まって、内閣支持率も20%を切りそうな今日このごろ。

月曜の朝は玉子かけごはん

世界に誇れる「日本の朝ごはん」の王様。TKG・・・玉子かけごはん!

昨日の夜は「ゆるゆるヨガ」やった。
女子たちが二階でヨガっている間、ぼくはそば会の準備をしながら「まかない」をひとりで食べる。
だいたい、というかほぼ100%、カレーライスを食べる。能登牛の牛すじを、中前さんの塩で
茹で上げ、「牛すじカレーそば」と「牛すじそば」と、酒のつまみに「牛すじ煮込み」にして提供している。
月に一度「ゆるゆる・・」の日は、牛すじカレーごはんを食べる。
メニューに入れようかと、密かに思いながら5年。ただ自分だけが試食を続けている。私食?
そばが体力的に打てなくなったら、「能登牛すじカレー食堂」という看板にしようかな?

玉子かけごはんのごはんは、丸和工業(珠洲にある)の珪藻土竈に炭をいれ、羽釜をのせて
オコゲをねらって炊く。つまみぐいすると、一合くらいなくなりそうなくらいの筆舌を超えた世界の「ごはん」
ができる。ごはんがあまったら、夜は「天津飯」にすることが多い。
能登の椎茸と、玉ねぎと、ずわいがにの缶詰を入れて、そこに平飼いの玉子をいれてつくる。
これも、メニューに入れるとおもしろいかな?とか思っているけど、「美味しいものは、自分でつくって食べる」
ほうに軍配があがりぎみ。自分でつくれるものをよそに任せたりする現代の生活を続けると、「自分の生きがい」
が見えなくなってくる。
もしもメニューにするなら「天真飯」になる(笑)

そんなこと思いながら、月曜日は、ウキウキしながら仕事(遊び?)をしている。
脳内モルヒネが、あふれるくらいの月曜日。
能登輪島のさつまいも、の「干しいも」もできあがった。ほしい人は、一袋150円で売ってあげる。
「さつまいもからUFOまで」売っている下町商社・天真庵。感謝。

これがあれば、災害時にも憂いなし!

昨日は、開店そうそうに、みしらぬ人たちが、ぞくぞくと蕎麦を
手繰りにきてくれた。そろそろうちも「ミシラヌ?」の星がつくかもなんばん。
最初の女子ふたりは、「先日新潟の人たちを歓待してくれてありがとう」とのこと。
昔のことを覚えていても、最近のことや、人の名前などはすぐにわすれるようなお年ごろになったけど、
「新潟の人たち」とは、3人組の男子で、十間橋通りの新しくできたゲストハウスにチェクイン?した後に
カウンターに座って、四方山話(新潟も今回の地震で被害をうけた。そんな話)をしながら、
「夕飯は、燕京亭(えんきょうてい)にします」と、紹介したばかりの下町中華屋にいった男たちのことは、
鮮明に覚えていたので、「おぼえとるばい」といって、談論風発した。

次の老夫婦は、一番奥の二人掛けのテーブルに座ってもらった。どうも初めてこられたみたい。
カウンターには、長崎からきた常連さんが、「カステラ」を土産にくれたり、大分に帰ってきたばい娘さん
が「西の関」を持参してくれたり、九州弁の真空パック土産みたいな様相だった。
その老夫婦が、お会計の時に、ビニール袋に入ったお菓子をくれて、「なつかしいやろ」といって笑った。
「くろがね 堅パン」だ。北九州の人口は100万人を少し切ったけど、この「堅パン」はみな食べるし、
家に保存食としてもっている。くろがね・・・鉄。鉄の町が、新日鉄マンと共同で開発したパンだ。
災害の多き時代には、どこに住んでいても、必需品かも?「くろがね 堅パン」で検索するとネットでも買える。
瞬間に男の顔を見直して「OH!のーじ」とおらんだ村。
東京に「NOZY COFFEE」という有名なカフェがあるが、それと同じことだま。「のーじ」。
北九州の慶応幼稚園?みたいな幼稚園の同窓生だった。「所さんが美味そうに食べていたんで、そばを
食べに来たっちゃ」とのこと。表で肩組んで記念撮影をした(笑)

ちなみに、ぼくの渾名は「ノンチン」。昔は、もっと直情的なあだ名で、今ではクレーム
になりそうなんがいっぱいあった。「チンポ」というあだ名の友達は、その言霊の赴くまま産婦人科の医者
になった。もうひとり「ピーロン」というあだ名の男がいた。ブリーフなどない時代、体操の時間に、いちもつ
が、半ズボンから「ピーロン」とのぞけてしまって、瞬間的にその名がついた。命名者のセンスに拍手をおくりたいけど、
つけられた本人は、迷惑な思いで思春期を過ごしたに違いない。感謝。

今日も12時から16時まで営業。それから「味噌つくり」「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」

明日の朝は「玉子かけごはん」(8時ー10時)

伊那谷(いなだに)の老子

故・加島祥造さんの本。加島さんの息子さんは、何度か天真庵にきて蕎麦を手繰ったことがあられる。

神田生まれの江戸っ子で、フォークナーなどの翻訳で有名な著者は、60歳を過ぎて、長野県の南信地方「伊那谷」に定住する。中央アルプスと南アルプスに抱かれた、この大きな谷の自然の中で、老子の深い思想に目覚めてゆく自身を描く、名随筆集。「もとめない」「ひとり」・・など。
老子を英訳してから、はじめて興味をもったという逆輸入みたいな話だけど、だからこそ解りやすく、秀逸な老子本だ。
日本の文科省では、「論語」を中心に習うけど、「老子」や「墨子」のほうが、断然おもしろい。

先日「味噌休み」をもらって、伊那谷にいってきた。京都時代のからふねや時代の同志が眠っている。
墓標を見ると、「昭和57年4月22日 享年22歳」。もう40年以上になった。生きていたら
「伊那谷の老子」になれるくらい飄々としていた。城倉良雄くん。ぼくはその年の夏に京都から東京へきた。
ぼくが24歳の時、骨肉腫になった。お店のお客さんで、湯川秀樹と同じ時期に京大の教授だった人の
紹介で京大病院で検査を受け、京都府立大学の病院で手術をした。そこでリハビリをしている時に、彼
がバイクで事故をおこして、足を痛めた。軽い気持ちで「ここの病院がええで」といって、同じ病院で
検査をした。足の甲のあたりが真っ黒なレントゲンを見せられ、「同じ病気や」と主治医がいわはった。
ぼくは一年くらいで復帰したけど、彼は一年くらい入院して、伊那谷の墓に入った。

いつも、墓参りの後は、信州か山梨の湯治場みたいなところの湯宿に泊まる。
リュックに「伊那谷の老子」をいれて、ひさしぶりに読んだ。
「パーフェクトデイズ」を観た後でもあり、なんか新鮮にこころに染みこんでいく。

木曜日の夕方には、能登の「TOGISO]の佐藤くんと、天真庵を改装してくれた中西くんがきて、
おでんをつつきながら、能登の復興の打ち合わせ。〆は、山梨の道の駅で買ってきた「生ほうとう」
をおでんの汁にいれた。赤崎という志賀町にある港町は、土地の岩盤が
強くて、奇跡的に震度7の揺れに耐えた家が多かった。TOGISOも立っていたので、屋根とか、部屋の片づけを
して、今は「復興支援隊」の人たちの基地として活用している。
せっかく、昨年の夏に「カフェ」を併設したので、落ち着いたら、赤崎を中心に「癒し場」を作りたい、
とあれこれ無い知恵をしぼって、模索中だ。

昨日は、墨田の「やっちゃば」を主催しているHくんからの依頼で、能登島産の「ふくむらさき」が一箱届いた。
流通がストップした野菜を、墨田のカフェや食堂にお願いして、「墨田で能登野菜を」との提案。
さっそく「ほし芋」をつくった。「そばやのちょい飲みセット」で、ツマミにしようと思う。

ぼくが能登に移住するきっかけになった「能登」という雑誌も、冬号が休刊になった。
輪島にある事務所も甚大な被害を受け、今は金沢の仮事務所で、復活を準備中。
昨日は雑誌にはさんであるバックナンバーなどの注文するための用紙で、寸志寄付をさせていただいた。
天真庵にもおいてあるけど、ほんとうに、素晴らしい「能登本」。

今日からまた営業。12時から16時。
それから「味噌つくり」・・・6人。「UFO焙煎塾」「そば打ち教室。