鼠大根と猿梅

能登の梅を干し終え、今朝は紫蘇をとって、これから東京へもどる。

梅仕事が始まる年のとある春のおわりの佳き日。オカマのMくんが「これ読んでみて。とってもいい本だから
読んだら必ず返してね」といって、「百年の梅仕事」という本をもってきてくれた。三番叟(さんばそう)の猿
といっしょに「今年は申年ね。わたしたちが活躍する年(Mくんもぼくも申年つながり)
その日から何日かして、能登に移住した三輪福さんから「家の畑でとれました」といって、青梅が
一箱50kくらいが、突然訪れた。不思議なシンクロニシティーみたいだけど、昔から「猿年の梅はいい」
とわれる梅を漬けてから、梅林ガールズたちと「梅仕事」が続いている。その間に、こちらも能登に半分移住することになった。

今朝は、いつものように、海にタコを釣りにいったら、サザエをとる伝馬船が港にたくさんいたので、
シーバス釣りの竿に変え、港の隣の砂場の海に投げ入れた。今はまだ時期ではないけど、来月から
そのあたりで「ヒラメ」が釣れる。砂場といっても、底には岩場もあり、ドーバーソウルではないけど、
海の底に生育するヒラメやカレーを狙うには、ルアーが根がかりしやすいので、どこに岩があり、藻がしげっている、
とか、そんなことを確かめるようにリールをまいたりした。

帰りに、海の近くにある「腐りかけた空き家」の庭に生育している葉蘭(はらん)を、納屋にあった小さなスコップ
で掘って、「さつきの畑」のさつきの木の陰に植えた。
その家は、茅葺屋根で、葉蘭のほかにも、ツワブキや椿や、木賊(とくさ)、しゃがなど、茶花に使う植物が
主なき後も、季節ごとに元気な花を咲かせたりしている。きっと、お茶やお花をしっかり楽しまれたような家人が
住んでおられたのだろう。雨が少ないので、うまくつくかどうか不安だけど、大きく深呼吸して、お空の星と
さつきにお願いして、うめ星水をまいた。

畑には、小布施で昨年買って植えた「ねずみ辛味大根」の種を、二畝蒔いた。
これも、ほんとうは、来月あたりにまくのがいいと思う。昨年は、この種のほかに、「蕎麦用大根の種」
と「ゲキ辛大根の種」をまいたけど、結局「ねずみ・・」が一番、この土地にあいそうだし、
今年の干支が「ねずみ」なので、これまた星に願いを、で、うめ星水をまいて天にお願いしてみた。
「自然農」というのは、まこと、ほったらかし、というか、無為自然によりそいながら、おまかせする、
ような農法。近所の先輩農家さんたちに「そんな草ぼうぼうでは・・」とか、いろいろアドバイスを受けたり
するけど、タコ釣りといっしょで、「無手勝手流」だ。
植えた葉蘭を見て、筆子さんが「またお茶のお稽古でもするの?」と、質問するので、「花の教室をしようか、と思っとる」
と答えた。昔から池坊で葉蘭を5枚から奇数で7枚・9枚・・と竹筒にくばりという花どめをして生ける。
ぼくは、3枚ですかっと生けるのが好きだ。その生け方は「波乱万丈流」という。
ほんとうは、ひらめが釣れたら、「鮨フェス」をやろうか?なんて勝手に妄想して、その時は、久保さん
の黄瀬戸か志野の大皿に、その葉蘭を敷いて・・・なんてね・・・田舎暮らしは、夢や宝がいっぱいのほか、季語や話のタネも
いっぱい。すしのネタも近くの海にいっぱい泳いでいる。感謝。

ペニンシュラホテルとチンチン?

先週、女子そばもんのお弟子様家族がペニンシュラホテル東京に泊まった。
シンコロの影響もあり、格安プランで、家族3人で泊まり、豪華車で押上まで送迎付きで
6万円・・そんな話だった。あのホテルが東京にできた時、プールサイドに、いろいろな有名な陶芸家の
器をオブジェにして飾る、というプランがあって、久保さんの作品もどこかにある。
香港には、半導体の買い付けやプーアル茶の買い付けなどでよくいった。九龍島のペニンシュラ
もその時何度もいったけど、「高級」なイメージしかないけど、ペニンシュラとは「半島」
という英語。先入観というのは、おそろしいものだ。

peninsula(半島)は pencil(鉛筆)、penis(ちんちん)と、みんな親類みたいなものらしい。
それは、それとして、昔から「半島」が大好きだ。先月も島原半島と国東半島にいってきた。
縁あってそばのお弟子様が移住したり、その後も蕎麦会を4回やって、そばのお弟子様がどんどん増えている。
何度か書いたけど、南島原とこの能登の志賀町は、船員さんを輩出する街として、日本で三本の指に入る。
今朝もスクールバスが釣りにいく途中すれ違ったけど、バスに鹿の絵がかかれてある。「金印」で有名な九州の
志賀島の神社の守り神は「鹿」なのだ。景色もそうやけど、島原半島と能登はよう似とる。

先日、メロンが能登の家に届いた。宛名を見ると、「丹後」にUターンした女子そばもんのお弟子様だ。
「琴引メロン」というブランドで、丹後チリメンと同じく、丹後半島の新しい特産品として力をいれているようだ。
先月、山口と島根の境あたりで願成就温泉にいき、静御前のお墓を見つけた。諸説あるが、静御前の
生まれは丹後、というのが有力説らしい。各地に「元伊勢」が存在するけど、丹後の「籠神社(この)神社」
にいくと、「お伊勢は、この神社からやで」という声が聞こえてくる。ほんま。
どの半島も、今の交通インフラでは行きにくい場所にあるけど、行くとびっくり玉手箱、で、
住むとどこも楽園のような場所が多いような気がする。ありきたりの「ゴーツーなんやら」はやめて
「半島めぐり手形割引キャンペーン」でもだせばいいと思う。みんなが半島を旅したら、国の未来が変わると思う。

今朝は食べころのメロンをデザートにいただいた。限界集落の漁村が、一瞬にして香港のペニンシュラで過ごしている、
そんな気分である。「気持ちひとつのおきどころ」だ。これから、珠洲へ・・
陶芸家はみな化学者。昔から別名「やきものぐすり師」と呼ばれている。久保さんから、不思議な探し物を示唆され、半島のとっぺん、珠洲へ出発。
能登半島の中でも、格別なパワースポットだ。感謝。

カラスも「かわたれどき」に「なにを」いたす!

朝まずめ(朝日があがるころ)に徒歩20分かけて釣り場にいくために、5時半くらいに
鳥の声や伝馬船の音で目が覚めたら、顔を洗って、ぽつぽつ出発。
6時になると、界隈の防災アナウンスのスピーカから大音響の音楽が流れる。
昨年は「さざえさん(うたなし)」だった。今年は「シャボン玉」(飛んだ・・・)

陽が登る前の薄暗い時のことを「かわたれどき」という。
「彼(か)は誰(たれ)時」の意。彼は誰だ?とはっきり見分けられない時刻のこと。
夕方の「たそがれどき」というのはポピュラーだけど、「かわたれどき」というのは、俳句
や短歌にときどき見かけるくらいで、今ではあまり日本語として使われていない。素敵な言霊をもつ言葉やけど・・

昔は日本津々浦々、「よばい」という風俗が残っていた。たぶん、よばいされる側の家族も、
誰が来る、というのはわかっていたろうけど、なかば公認で「よかよか」という感じだったらしい。
しかし、顔がよく見えない中でのやりとりなので、はやくしたくて、勇んで夜中にいったら、布団の中にいたのが、お母さんだった、とか、もっと最悪にお父さんだった、
とか、そんな悲喜こもごもな物語がいっぱいあったのではなかろうかしらん。そんな粋な逢瀬を育んできた「かわたれどき」。

今朝のかわたれどき、いつもの海までの表参道にある墓地で、カラスが獲物の上にのっていた。
たぬきかきつねなのかな~と思って、近づいてみると、獲物?から離れた。薄明かりの中で獲物を
見ると、もう一匹のカラスだった。なんと、交尾をいたしてる最中を邪魔したようだ。「野暮なおっさん」という顔された。
麦わら帽子を脱いで、「すいませんでした」と深々とお辞儀をして、気をとりなおして、海を目指す。

ときどき、その道で雉(きじ)を見かける。♂は鮮やかないでたちをしている。
鳥は一般的にオスが、メスの気をひくために、鮮やかなファッションをし、美しい声をだして「させて~」
と囀るようになっている。カラスには、♂と♀の区別がないけど、彼らには区別がつくのだろうか?
なんていうような高尚ごとを思いながら、海までぶらぶら歩いた。
たぶん、彼らの中では、男と女の区別も、いい男と、ブ男、いい女とブス、の区別があるのだろう。
そして、彼らの世界で、彼は誰だかわからい時刻の事を、「カーたれどき」というのだろうか?
ま、カラスの勝手でしょうけど・・・

「のむら暮らし」に、一昨日釣ったタコの写真をアップした。
昨日は、この夏最大のタコ(1k以上あった)をゲット。
昨日は、それを、横の畑(正確には、隣のおばあちゃんの畑でとれたものをいただいた)で
育った、トマトやナスやオクラを材料にしてパスタをつくった。
タコを煮た後のだし汁で、南瓜をたいた。この「タコ汁でかぼちゃをたいたん」は、都会ではできない南京味!
毎日がタコフェスタ!今日は畑仕事をまじめにしま~す!感謝

羽咋に古墳って、あるんけ?

そんなパンフにひかれて、「羽咋市歴史民俗資料館」の夏休み企画「探検!羽咋(はくい)の古墳」
にいってきた。
「はくい」と読む。昔は「羽喰」と書いたらしい。人を襲う大鷲がいて、村人が困っていたところ、
犬が国士のように、命をはって、大鷲の羽を喰った、そんな話から命名され、いつしか羽咋になった。
今は、「UFOと自然農で村おこしをした」ということで全国区になった。そんな街だ。

能登は真脇遺跡という縄文遺跡があるが、古墳もいっぱいあって、羽咋だけでも109ある、らしい。
煩悩プラスひとつ、だ。日帰り温泉で「古墳温泉」というのも近くにあるし、まことに不思議なところ。
「祈り」の場がたくさんあるところは、気がとてもいい。宗像も、車で走っていても、古墳時代と同じ景色
を感じとれる街だが、羽咋も同じような風景だ。

その後、近くの蕎麦屋へ・・
齢80をとっくに超えた主人が、ひとりで石臼を手でひき、ざるそば、鴨せいろ、とろろそば、そばがき・・
だけでやっておられる。耳が少し遠いので、静かに空いているところに座り、じっと待つ。
一日20食限定。昨日は12時50分くらいに入ったら、売り切れじまい、になった。
その後にきた人が「まだ、一時前なのに・・・」とかいう、なげきごとを言っていたら
「なくなったもんはしかたない。まだお客さんがそばを食べていらっしゃるので、ぐだぐた大きな声をださないようにして、帰ってくれ」
といって、踵をかえして厨房へ。今は少なくなった、頑固オヤジ系列の主人で、打つそばも、そんな気骨が練りこまれて
いて、のど越しも潔い。これ以上、有名になると、持続可能の残り時間が短くなるので、お店の名前は内緒!

今朝は(も)、どんよりした日本海気候。短パンにTシャツに、レーバンのサングラス(正確にいうと、釣用の偏光レンズをいれたもの)に
麦わら帽子、肩にトートバック(昔四国の牛の市場で牛にかけていた帆布・・屋号が落川と藍染してある。四国のバッグ職人さんにオーダーして
つくってもろうたもの。お茶のお稽古に表参道にいってた時、お茶道具を入れていた)、といういつものスタイルで、となりの浜までテクテク歩く。
昨日も棹を入れて10分くらいで、タコがいっぴき釣れた。今日もすぐにいっぴき釣れた。
昨日のタコは、夜「カレー」に入れて食べた。今日のはかなり大きいタコなので、さしみかカルパッチョにしようかと
思っている。3時間くらいかけて「タコのやわらか煮」にするのも好きだけど、能登の家にはカセットコンロしかないので、あきらめる。
「ほぼ毎日」のように、タコを釣るようになった。一匹釣ったら、おしまい、ということにしている。
「朝まずめに、30分釣りをして・・・」という、そばもんになってからのささやかな夢の中を一歩歩きはじめた?かもなんばん。感謝。

朝まずめに30分釣りをして
いっかい20人ぶんのそばを打ち 売り切れたらおしまい
午後は晴耕雨読を旨とし
夕まずめに若い料理人とバトンタッチ
沈む夕陽を見ながら 朝釣った雑魚をつまみに 一献

立雲と天風先生

先月、後輩がお菓子をもって挨拶にきた。
天真庵のHPで、テレビ金沢のテレ金ちゃんで紹介された映像を見て、
夫婦で話し合い、四国へ移住することになった。かいつまむとそんな話だった。
彼は、ねっと21の会員で、韓国のIT会社視察旅行もいっしょにいった縁もあった。
よき人生がお遍路さんの街でありますように・・・「そんなかんたんには、おへん」?

そのテレビの中で、中根商店という酒屋のおっちゃんと会話するところがある。
徒歩20分ちょっとかかるのだが、ごみの券を買いにいったり、能登ワインなどを買いに
いったりする。往復の時間プラス、おしゃべりが約一時間(9割がおっちゃんがしゃべる)かかる。

5年くらい前に、そのおっちゃんのところへ、若いカップルが立ち寄った。ふたりとも木地師(塗りもの木地をつくる職人・漆をぬる職人が塗師(ぬし))
で、「古民家を借りて、家とアトリエにしたい」という相談だった。親分肌で、地元のことに詳しい世話好きのおっちゃんが、海に近い納屋付きの空き家を
紹介し、藤懸神社で集落の人を集めて、祝言をあげた。その様子は地元の季刊誌「能登」でも紹介された。
こんな逸話の残るこの界隈は「住みやすき」というか、いい人が住んでいるところ。
ぼくも地元のテレビや新聞で紹介されたこともあり、釣りや散歩ですれ違う人たちに「あ、テレビにでた、あの東京から越してきた人」
みたいに顔パスでなんとか通る。移住を考えている人は、その土地の中の酒屋とか魚屋とかお菓子やに通って、そこの主人やお客さん
さんたちの「生活感」みたいなものと、自分の波動が同調するかどうか、そんなことを自分の感性で感じることが肝要だ。
「不動産や」や「役所」にいくのは、その後よ・・

このおしゃべり好きのおっちゃんに負けないくらい、よくしゃべる骨董屋が銀座にあった。
「一楽堂」。池大雅の研究家で、煎茶を好んだ文人の書を集め、田能村竹田と頼山陽の書簡の「一楽帖」
から屋号をとった。銀座の七不思議のひとつにあげられる奇人だった。
一階の玄関をあけると、人がきたサインを伝えるチャイムが奇妙キテレツな音がして、お店になっていた二階にいくのを
一瞬ためらわせた。でも勇気をもって階段をあがりつめたところに、張り紙があって、「一時間以上はおしゃべりしないでください」
と自筆で書いてある。座ると、主人がみずから玉露をほどよい加減に入れてくれ、京都のお菓子がでてくる。
それから、京都の話や文人の話、最近のできごと・・・など自噴するように機関銃トークが50分くらい離される。
少ない残り時間の中で、懸けてある軸の作者と値段を聞くと、いつも「お金はいつでもいいです。気に入ったら、もっていって」
といって、品物を上手に包んでくれる。そんな主人だった。3年くらい前に86歳にて緞帳を下げた。
最後に買ったのが「のむら暮らし」の5月の藤を飾った床の間に飾った「立雲」と号のある軸。
昭和の哲人「中村天風」先生の師匠。頭山満の号。国士、という人がいた時代の主人公みたいな人だ。

私は、力だ。

力の結晶だ。

何ものにも打ち克つ力の結晶だ。

だから何ものにも負けないのだ。

病にも、運命にも、

否 あらゆるすべてのものに

打ち克つ力だ。

そうだ!!

強い強い力の結晶だ。(昭和の哲人 中村天風)

梅干しポテサラとユーリ

今日は、敗戦記念日。原爆から75年、敗戦から75年。
天真庵の建物は、その年の3月の東京大空襲で焼けた後に建てた。一日で下町の10万人の命が灰に帰した。
2007年に開業した時は、「築60年の建物を改装して(リノベーションという言葉が流行り
だしたころだったけど、流行り言葉の横文字がきらいなので、その後も「改装」といい続ける)
、といっていたけど、その建物も古希を過ぎ、75年とあいなりまする)
B29の空襲に供えて、竹槍で反撃、みたいな茶番な戦は、二度と繰り返さないことを切に祈る。
阿部ちゃんは、アホだということは、国民はみな知ってしまった。このあたりが引き際。
ここで「戦争ができる国にする」という憲法改正は、あの世で、トランプか花札しながら勝手にのたまってほしい。
この国には、まだ「やらんとあかん」未来があるけん。

昨日は「ユーリを偲ぶ会」を能登天真庵でやった。7月8日に36歳で天に召されたイギリス人のユーリを
梅茶翁のふたりを招いてささやかにとりおこなうた。ぼくのHPの「のむら暮らし」に、ユーリと畑仕事をし、
梅茶翁の庭先でいっしょに食事をする写真をのせた。イギリスから仕事(東洋医学の鍼灸などを施す医者)
しに日本にきていたけど、シンコロで帰国できなくなり、梅茶翁に居候しながら畑仕事を手伝ってくれたり、
金沢で仕事したりしていた。その日はじめて梅茶翁で合い、珈琲の入れ方を伝授し、ひとり娘のななちゃんとは、
次あったら釣りをしよう、と約束した矢先の突然の訃報やった。まさに人生は一期一会。あっというまに、おわる。
まだ骨になったユーリは日本にいるけど、魂は実相のこの小宇宙を自在に遊んでいる様子が感じられた。

今年は亡き親父の三回忌もできなかった。大半の日本人が、初盆も墓参りも法事も、ふるさと帰りもできないお盆。
♪わたしのお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません・・
そんな歌が一世を風靡した。「家」単位で考えると、お墓やお墓守り、というのは、先祖を啓し、今の自分
の命につながる血をおわけくだされた人たちに感謝の意を表する、というのは、人間としてとても大切なことでは
あるが、「お墓」とか「お寺」とか、「宗派」とかに、とらわれすれぎると、「お金」や「めんつ」や「体裁」
なんかが優先して、中心にある「祈り」とか「感謝」とかが、後回しになっていく、そんな感じも否めない。
シンコロが、そんな「常識みたいな悪習」までも、一瞬にして変えてしまいそうなお盆。覆水盆に返らず、か?
いいか?そのまま自然の流れにまかせてしまえ!

人は肉体が滅んで灰になっても、魂は、縁ある人たちの中で生き続ける。
やっぱり「魂」は、お墓の中には、いないのではなかろうか・・・?
生前ユーリが大好物だったpizaを、そば粉で焼き、ひがな飲み続けてくれた「ほぼぶらじる」で
一献かたむけながら、ユーリの話をしていると、「ありがとう」と笑顔のユーリが横にいるように思えた。
三輪福さんがつくってくれた「梅干しポテサラ」も、とてもうまかった。
稲は天に向かって伸びる。桜切るバカ、梅切らぬバカ、で、梅の木は切り上げ剪定(元気で天をめざす枝を残し、残りは切る)
、で元気を残す。夏野菜の新芽や、これから蒔く大根の種も、みな「天」を目標に生きる。そんな生き物たちの頂点にいるような人間が、
生きても死んでも、地べたをはいつくばって右往左往しているのは、なんとなく荒唐無稽な気がしませんか?もっと自由でいいはずだ。

今日は土曜日。ここ志賀町では、土曜日の朝6時から日曜日の朝6時までは、船で魚を釣る、岸壁で魚を釣る、
もぐってさざえやあわびを捕る・・・一切の「漁」が中止の日。
いっしゅの「自然をつぎの世代につなげる日」であり、「働き方生き方を改革する日」である。小さな一歩
だけど、そんなちっちゃなことからわたくしたちの生かされている、この星ガイヤの持続可能な残り時間がきまってくる。
「今ここ」を大切にしたいものだ。感謝。

ななみときじばと

今日も天気がいいので、近くの里山を散歩しながら、となりの浜までタコ釣りに・・

藤懸神社の看板を右折し、神社を詣でて、釣り糸を垂らす。
釣果もそうだけど、丁か半かの賭け事も、その時の運によるものが多い。でも今日はそのご利益はなかった。
神社の手前に小さな寺がある。廃仏毀釈までは、神社といっしょだったに違いない。
今朝は、お盆なので、その寺の横にある墓地には、花が手向けれれ、坊さんの般若心経が聞こえてきた。
その墓地近くに立派な「ななみ」(七実)の木がある。九州では訛って「なのみ」という。

赤い実をつける木なので、南天や万両と同じように、昔の庭には、縁起がよいと、よく植えられた。
宗像の実家には、立派ななのみが庭の中心に華道の「真」のように、鎮座していた。ぼくが中学3年の時、
宗像に家をたて、延岡のなにしおう植木屋のせがれの父が、自分で作庭した。近くに山があり、そこに立派な
「なのみ」を見つけ、ふたりで夏の暑い日、一日かけて掘り起こし、レッカー車を頼んで、家に運んだ。
あまりなんでも、うるさくなく、ゆるーい昭和の時代のお話。
その後、赤い実のなるころ、なのみの木の梢にきじばとが、巣ごもりして、卵をあたためたりしていた。
今まさに「巣ごもり」の時代になったけど、自分の家の中の木に鳥が巣ごもりをしただけで、こころあたたまる
ような温かさを感じた木。

311の前の年の秋、愛犬のチワワが旅立ち、東京で骨にし、かば細工の茶筒の中に入れ、実家のなのみの木の下に、埋めた。
目印に「ふーじいさん」が石に刻んだ六地蔵をおいた。生前も元気を孫のようにかわいがってくれた両親は、
毎日仏様にごはんとお茶を手向ける時に、その六地蔵の前にも、水をそなえてくれた。父親が旅立ち、母が施設に
入ったので、実家を売ることになった。先月「これが最後」と庭と家を見て、頭を下げて、その六地蔵を車にのせ能登にもどってきた。
六地蔵を玄関前の小さな庭に置き、水をあげたら、「酒のほうがよか」という元気の声が聞こえた。水を植木にまき、クロキリを入れておいた。
10年くらい九州で暮らしたので、元気が酒飲みになり言葉が九州になっとーと。ヨカヨカ。感謝。

無花果とサラスポンダ

一か月ぶりに能登の家にきて、まず駐車場(二階建ての小屋)についたら、
その小屋の浦にある「さつきの畑」にいく。一月でこんなに伸びるの?といった
具合に名無しの権兵衛草が、あたりいっぱい元気に生い茂っている。
里山に続くこの土地は、肥沃な土があり、徒歩3分の里海からミネラルいっぱいの塩風
が運ばれてくるので、野菜や果物といっしょに、名無しさんたちも元気に共存できている。

昨年は、そこに夏は枝豆、秋に辛味大根の種を植えた。月一の畑仕事なので、蒔く種には限界がある。
もうひとつ、家の横にも小さな畑があり、そこにはネギ、紫蘇、さつまいも、しょうが、などを植えている。
「さつき・・」がぼくがやっていて、家の横は、筆子さんが担当している。

辛味大根の種をまく季節が近づいてきた。先月は畝をつくり、その畑の外に無花果の若木を植えた。
梅茶翁に自生しているものをわけてもろうた。その木の向こうには、栗の木があり、今年もたわわに毬栗が
丸いとげでたくさんぶらさがっている。シンコロや猛暑や大不況と世間は騒いでいるけど、自然の運行は
さらさらと、人の浅知恵を笑うごとく、静かに悠々、である。

公害で廃校になったけど、小学校の3年から6年まで、北九州の城山小学校に通っていた。
西に城山、東に妙見山(火山)、北に洞海湾があり、八幡製鉄所ができるまでは、豊かな漁港だったとこだ。
公害の街として有名になり、よくテレビの取材にきていた。コロロといううがいぐすりで、あまった教室を
「うがい教室」(教室に水道菅をめぐらせ、みんなでうがいができるようにしていた)にして、うがいをする映像
がよく紹介された。

ぼくは、ソフトボール部に所属していて、5年からピッチャーやった。女房役のキャッチャーは笠間くん
で、学校までの途中の妙見神社の脇に住んでいたので、毎朝いっしょに学校に通い、陽が暮れるまでソフトボール
に興じていた。笠間くんの家に大きな無花果の木があった。ときどき、名バッテリーが悪ガキに変身し、ふたりで、熟れた無花果を
もいでおやつにした。きまって、その時に、笠間くんのオヤジが見ていて、つかまり、タバコのパイプで
頭をくらされた(なぐられた、の北九州弁)。ときどき、その雷オヤジの晩酌につきあった。(そのころの
九州では、小学生高学年になると、晩酌の相手をする、のが当たり前やった。北九州の条例でも酒は11才から、とあったのでは?)
上機嫌になると、おやじさんは、自慢のパイプをくゆらせながら、♪サラースポンダー サラースポンダ サーラスポンダー レッセッセ・・
を歌った。教科書にもなく、ラジオやテレビでも聞いたことがない歌だったけど、それがはじまると、手拍子をして、いっしょに
うたう、がならわしになった。オランダ民謡の「糸巻きの歌」だということを後から知った。

大人になり、時々、八百屋に無花果の実が並んだりすると、白みそで酢味噌をつくり、あえて酒肴にして一献することがある。
一説では利休が考案したということで、茶事などにお目見えすることがある。
しかし、無花果の実を見ると、味の記憶よりも、こめかみあたりに残るパイプの痛さや、サラスポンダーの歌
が、パプロフの犬よろしく、蘇ってくる。
うちの無花果(イチジク)が実をつけたなら、サラスポンダーを歌い、収穫祭をやろうか、なんてほくそえんだりする今日このごろ。
ひとの「こころ」とは、不思議なもので、コロロの縁でそんな遠い記憶がもどってきた。

能登の一日目

危険な暑さの中、車に本と陶器と絵と、クーラーボックスの中に、
保冷剤変わりに、そばと汁を冷凍したもの、カレーを冷凍したもの、
そばかす(ガレットの材料)、前のアコレで売ってる一袋98円のカチワリ氷、
パラダイス酵母・・・などを入れて出発。
水筒ふたつに、アイスコーヒーを入れて運転中のガソリン補給。

だいたいいつも、佐久平のパーキングで仮眠。気温が22度。さすが避暑地。
車用の網戸をネット買ったので、無駄なガソリンを消費することなく、心地よく寝れる。
小さなペットボトルに、「上喜元」を入れてきたので、それを「マイぐい飲みきんちゃく袋」
に入った久保さんの志野のぐいのみでナイトキャップ。
朝は鳥の声におこされ、さながら高原の別荘で過ごしたような気分になる。かたかむな呼吸法?
をして、顔を洗って出発。ナビの目的地は「神代温泉(こうじろおんせん)」。
深夜12時を高速上で迎えると、高速道路の料金が3割?くらい割引されるので、東京から
片道6500円で、OK牧場。

10時過ぎに、氷見の神代温泉に到着。無人の玄関入り口に、1000円(ふたりぶん)入れて入浴。
都塵がいっぱいの体とこころを洗い流してくれる。
その後は「すしのや」にいって、鮨ランチ。まだ12時前なのに、並んでいた。毎月くるので10%
の割引券があるので、ふたりで3200円のところが、3枚でおつりがきた。(ほとんど地魚のすし)
「ゴーツー トラブル」は、東京もんは、仲間外れにされたけど、それを使わなくても、たとえば
このコースの後、能登をぐるりとまわっても、けっこう思い出深い旅ができると思う。

一日目は、「何もしなくて、即飲み」と決めている。同じ集落に住むおばちゃんがやっている「タコ焼きや」
で、たこ焼きを買い、能登の家についたら、そく飲む。クーラーボックスのカチワリ氷が、まだ少し
凍っていたので、安土さんの「へちかんだグラス」に、角を注ぎ、水割りにして飲んだ。

今朝は6時に起きて、近くの港町まで15分ほど歩き、「たこやん」という疑似餌でタコを釣る。
先月最終日にタコを5分で2尾ゲット。今回も、釣りはじめの2投目にいい方のタコが釣れた。
客人の予定もないので、そのまま買い物袋にタコを入れ、神社にお参りし、近くの畑野良仕事をするおばあちゃん
たちと、少しエッチな四方山話(今日はタコとエロスの話などをしたら、おばあちゃんたちが入れ歯が落ちるんじゃない?くらい笑っていた)を
しながら、道草くって家にもどる。近所の人と、珈琲豆なんかとぶつぶつ交換した、トマトやキョウウリなどが、サラダになり、デザート
も畑つながりのおばちゃんにもらったスイカ。なんとも、身近な地産地消で身土不二な能登暮らし。
。吝嗇家もびっくりするほど、お金を使わない暮らしの実験室?
基本的に一日二食。夜は、島原でゲットしてきた島原ソーメン。梅味が大好きで、それを東京からもってきたソバツユで
食べる予定。今朝つってきたタコ・・・今冷凍庫。2時間くらいそうして、塩を使って洗うと、ヌメリをとる水の量が少なくてすむ。
明日の朝は「あこがれのタコガレ(たこのガレット)」
ぼくがまだ30代とか40代やったら、海辺の家を買って、「タコガレや」をやるけどな~。

日曜の夕方は蕎麦打ち 月曜の朝は卵かけごはん

3月から「寺子屋」とライブはず~~と中止。
読む本はいっぱいあるし、飲む酒も売るほどある。ので、けっこう
充実した夜を楽しんでいる。少し酒の量は増えてきてるけど、なあに、
どうせ人間一生に飲む量は、おおよそ決まっているし、そこまでは
毎日痛飲していきたいと思う今日このごろ。
久保さんも、いろんな酒器や茶器の新作をつくってくれるので、
エターナル新人よろしく、それに酒や茶を入れて、楽しんでいる。

「蕎麦打ち教室」と「そったく焙煎塾」は、この巣ごもり期間に「新人」
が入門してきた。「金継ぎ教室」も、このブログを読んで?なのか、新人が
入門してきた。
そろそろ能登で「タコ釣り教室」でも開設してみようかしらん。これからサバイバルな時代に、
貴重な「技」を伝えることができそう?

昨日の「そばもん」は、今きておられるお弟子さんの中で、一番古参になった。
マイのし棒を持参でやってくる。茨木の「くらしの実験室」での蕎麦打ち教室も手伝って
くれたりして、はたして師範代レベルになってきた。今はつまらぬIT業界とやらに身を
おいておられるけど、そろそろ横に卒業して、蕎麦道を歩く日も近いのではないかと、ひそかに思うている。
蕎麦打ちの時、そばの切れ端ができる。これまでは、それで「ガレット」をつくって食べる、が
、基本だったけど、昨日は「そばピザ」の作り方を伝授した。「くらしの実験室」から野菜を頼んで
おられるし、お店レベルの質のいい「そばピザ」を堪能したに違いない。

今日は「山の日?」いわゆる祝日だけど、8時から卵かけごはん。

勝手に自粛で、夜は暗くなったころ閉店(18時)にしている。
明日からしばらく能登休み。久保さんにつくってもらった丸い志野の皿を
まとめて能登の家に運ぶ。タコやイカを釣って、能登の家では毎朝「タコ(イカ)ガレ」にすることが
多くなってきた。志野の「燗鍋」(かんなべ)も車に積んだ。アニメの「風立ちぬ」で、戦争中に
主人公が祝言をあげるシーンを見て、久保さんに作ってもらったものだ。
今もある意味、戦争中みたいな時代。モノやコトを大切にする時間がもどってきそうな気配もある。
家で酒を飲む機会も増える。ヒャッキンのぐい飲みで飲むと、万年100円程度の「ゆたかさ」が均一。
作家もの、で酒を飲むと、飲むごとに「古色」がついて、知らぬ間に買った値段とは比べる必要もない
「ゆたかさ」がこころの歴の引き出しにたまっていく、そんな気分が味わえる。
これからの時代は、そんな「ゆたかさ」を日常のささいな一刻の中に見出して生きていきたいものだ。感謝。