青山に不思議な森の精たちが集まった!

3年前に、この世から迷い込んだみたいに、大分の杵築の「カテリーナの森」にたどり着き、
手前味噌みたいな珈琲を飲みながら、「いつか東京で・・」と約束したbaobabのコンサート
が青山であった。出かけ際に、そんな手前珈琲「ほぼブラジル」を手土産にしようと、用意していたら、
「小さな会場でのライブじゃないから、手渡しできないよ」といわれる。でももっていく。
チケットの手配を彼女に任せていたので、「青山」とだけきいていたのだが、「草月ホール」
が会場だった。

「池坊」「草月流」「小原流」が華道の三大流派。煎茶道は、「織田流」(わが流派も青山に拠点)が筆頭に(ウソ)・・・2000年前後に、南條先生や久保さんの作品展をニューヨークで企画した時、現地の「草月」の人たちが、久保さんの黄瀬戸や織部の花器に花を投げ入れてくれたことを思い出す。青山一丁目で降りて、草月ホールにいったら、人がずら~と並んでいる。
土日の二日間のコンサートが、丹下健三が設計した526人のホールを満席にした。1000人超え!
コロナ禍で、音楽家たちは、活動の場所を失い、大変な思いで活動しておられる。でも彼らは、不思議の森の中で、鳥のさえずりや、
木々の移ろいなどに心をよせ、楽器をつくり、田畑をやりながら、音楽も食も「ほぼ自給自足」の自然の営みの流れに身をよせて
おられる。目を閉じて、彼らの音を聴いていると、森の精や、虫のすだき、風の音が聴こえてくるようだ。

コンサートが終わり、余韻を楽しみながら、青山通りを歩く。「コンプス」があったビルの前で立ち止まって黙祷。
11月の28日に75歳で旅立った嶋倉社長と仕事をした場所。昭和58年に「パソコンらくらくレッスン」
というPCの入門ソフトを、コンプスにつくってもらった。独立してはじめてのソフトだったけど、日経パソコンの「教育ソウト」
のランキングで3年間一位やった。いろいろな技術者と触れ合ってきたけど、彼は類まれな天才だった。嶋倉昭男・金沢生まれ。
二番目にだしたデーターコンバータも、一流企業や国の研究機関などへ飛ぶように売れた。「横車」という名前だったけど、「UFO」にすれば、3倍くらい売れたかもなんばん(笑)大塚商会の技術顧問をしながら、いろんなものをつくり、マージャンも釣りもプロレベルだった。
突然「野村君、鯛が釣れたんで、おくった」と電話がかかってきて、翌日に大きな鯛がくるみたいな感じだった。
今でも厨房に、寒ブリをらくらく捌ける大きな出刃が研いであるのは、そんな流れが続いていた証拠。
ふたりでよく飲んだ青山のお店に顔をだして、「ほぼブラジル」を手渡し、故人を忍んだ。

コンプス、織田流煎茶道、骨董通り・・・青山というのは、実に縁のあるところだ。

今日は16時まで営業。それから「そば打ち教室」&「UFO焙煎塾」
明日の朝は、卵かけごはん。そばもお米も「新」の冠がつく季節になった。感謝。

カテリーナ古楽器研究所

大分の杵築(きつき)にこの世とは思えないような不思議の森がある。
3年前に、親父の墓参りに延岡に行き、帰りに国東半島(くにさき)のお寺の蕎麦屋で
ある女性と知り合いになった。運悪く、その蕎麦屋は定休日で、その女性の案内で、素敵な
レストランで食事をすることになり、「初めまして」からの会話の中で「なぜ、休みの蕎麦屋にいたのですか?」と質問したら、
「カテリーナ音楽研究所という古楽器をつくることを家族でやっていて、子供たちが楽器をつくり、音楽を奏で、CDを
つくって、それを蕎麦屋さんが営業中にかけてくれて、追加のCDを納品してきました」とそんな話だった。
「蕎麦屋でかかる音楽か~」と思った。

不思議で無駄のない縁を感じて、「そのCD一枚ください」といって、その場で買わせてもらった。
「カナタ」・・・今でも天真庵のオープニングは、そのCDが定番になっている。
「baobab カナタ」で検索すると、聴けるんじゃないかな~ 不思議な森の動画も。。 気にいったら買ってください。3年毎日聴いてもあきない。15年間、いろいろなライブをやってきたけど、彼らの音楽は、なんか異次元のものを感じる。
その流れで、食事の後に、不思議の森まで行ってしまい、「ほぼブラジル」を飲みながら談論風発。
自画自賛でないけど、あれほど自分の珈琲の美味さを感じたことは、後にも先にもない。
「カテリーナ古楽器研究所」で検索すると、HPがある。写真を見るだけで、空気感が伝わっている。
今、NHKFMで、ピータバルカンさんの声が聞こえているのだが、彼との対談の写真も載っている。

今日、彼らのコンサートが青山である。
朝からウキウキしている。人生には、不思議な邂逅というのがあるもんだな、と彼らのCDを聴くたびに思う。

♪雪の降る夜は 楽しいペチカ・・・

いよいよ本格的に冬がやってきた。
今朝は、プラゴミの日だけど、風雨がすごくて家を一歩もでれず、断念。
なにせ、網戸をギッコンバッコン左右に揺らす能登外浦の冬の風物詩。
ブリお越し、といわれる雷も元気に鳴っている。この荒波の中、大きな目を見開いて、
裸で泳いでいるブリは(ほかの魚もそうだけど)すごい、と思う。

能登の家は、石油ストーブと炭で暖をとっている。炭は、焙煎や焼き肉などにも使うので、
ほんとうに重宝している。石油ストーブと囲炉裏の炭の上では、やかんに水を入れているので、
珈琲やお茶をいれたり、洗い物に使ったり(なにせ、ガスを契約していないので、貴重なお湯)
と大活躍だ。それでも余る場合は、湯たんぽに使う。これが思った以上に暖かく、寝る時はふとんが
薄くてもOK牧場やし、朝顔を洗う時は、湯たんぽのぬるいお湯で充分に洗顔できる。
アベノマスクは、あまり活用されなかったが、岸田ユタンポがもしか実現できたら、燃料費の節約と、
国民の健康、内閣支持率も上がるかもなんばん?

先日、梅茶翁にいったら、今年完成したペチカに火がともっていた。欧州からロシア経由で日本にやってきたレンガを使った暖房器具。輻射熱(レンガをあたためて、じわっと、部屋中がポカポカしてくる)の威力をまざまざと体感した。来年の1月にでるDIYの雑誌に紹介されることになったらしい。3年くらい前から、薪ストーブも使っていたけど、初期費用、薪の消費量、メンテ・・・総合的に「ペチカ」のほうに軍配が上がりそうだ。ペチカの火を見ながら、珈琲やウィスキーを飲む、なんて究極の至福時間。
私腹肥しに忙しい政治家たちに、ぜひ体験させてみたいものだ。思わず、北原白秋作のペチカが鼻歌になってでてくる。

雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
昔 昔よ 燃えろよペチカ

雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ 表は寒い
くりやくりやと 呼びますペチカ

雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ じき春来ます
今にやなぎも もえましょペチカ

雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ だれだか来ます
お客さまでしょ うれしいペチカ

雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
火の粉ぱちぱち はねろよペチカ

桜切るバカ 梅切らぬバカ

こんな「言い伝え」がある。
昨日は、久しぶりに雨があがったので、梅茶翁の梅林にて、梅の剪定(せんてい)をやった。
6回目になる。春を告げるように、桜の前に梅の花が2月ころ咲く。その前年の11月から12月に
剪定をするのがいい、といわれている。雪の中でやったこともある。20本近い梅の剪定をするのは、
けっこう重労働やし、脚立などを使って、木にのぼったりするので、危険も多い。
草刈り機やチェーンソーが一般化して、便利になってきたけど、それで事故も多くなっている。
どの世界も両刃の剣。

毎年、実った梅の収穫もするので、どの木のどの枝に、たわわになる、とか、日当たりがいいので
枝が元気なんだけど、お互いが邪魔して、風の通りが悪い、とかいうのがわかってきた。
石の上に3年、梅仕事も5年くらい続けると、いろいろな理(ことわり)が、わかってくる。
「切り上げ剪定」といって、太陽に向かって上向きの枝を残し、下向きの枝を切る、というのを基本にしているけど、
上を向く若い枝でも、その上の老枝を邪魔するような枝は、思い切って、切る。
正月に飾り餅の下へ飾る葉を「ゆずり葉」という。新旧が入れ替わる縁起で正月に飾る。この世の中、そんな
天地自然の理が生きているのがわかる。

つるべ落としのように、午後4時くらいになると、梅林も暗くなる。イノシシがでる可能性もあるので、
店じまい。先週は梅茶翁でワークショップの後、上空にUFOがでた。
なんとなく「UFO日和」な空を見上げながら、忘年会で予約した居酒屋「風来坊」にいく。
ブリも先週より脂がのって、旬を迎えている。来月15日は「ブリ祭り」。これから正月にかけて、
富士の高嶺のような値段になるけど、そのころは、鏡開きのように、庶民価格にて提供される時でもある。

桃栗三年柿八年 柚子の大馬鹿十三年

なにごとも、手間をかけて、実をむすぶ。苦労もせず、すぐに成果を求める昨今の人間
のおろかな生き方を、糺すような諺でもある。

もも尻3年 胸8年・・・(さりげなく女性に触るまで、かかる日数?)そんなことを言った俳優もいたけど、今は鬼籍にいらっしゃる。
YouTubeで、『戦友別盃(せんゆうべっぱい)の歌』を検索すると、いい味で朗読をしている人(笑)

今日あたりり、能登は初雪になりそうだ。「能登はやさしや土までも」・・・冬の能登は厳しいけど、この冬を
体験しないと、「やさしさ」が感じれないのも事実だ。

やることは 山んことあるが 日が暮れる

東京と能登の二股暮らしもはや4年。年年歳歳、こんな毎日を痛感しながら、老体に鞭うつ毎日。感謝。

寿司の屋に季語あり 能登の海

月曜日に、氷見の「すしのや」という寿司屋で寿司をつまんだ。ぶりの脂は今いちだった。
もともと「氷見のぶり」ではなく、「氷見のいわし」がブランドだった。
イワシは毎日喰っても飽きないけど、商いにならないので、ブリをおした。
出世魚でその縁起かつぎもあるが、これからクリスマス、正月にかけて、高嶺の花のごとく大出世する。
東京は、世界中から築地に魚が集まり春夏秋冬いろんな魚が食べれる。地方は地魚中心なので、
寿司屋に「季語」がある。

12月は、よく雨が降る。毎日のように雷注意報。この季節の雷は能登では「ぶりお越し」という。
雷が鳴るごとに、マイナスイオンが発生し、海温もさがり、ブリがおいしくなる。先週は、夜中の雷で
同じ町の家(空き家だったけど)が全焼した。家を揺らすくらいの雷で、昨日は玄関に積んであった
プラの収穫籠が大きな音をたてて落ちた。風も強く、家の網戸が左右に移動する。都会ではない風物詩だ。

昼間少し小ぶりになったので、隣の集落のとある家に、年末の挨拶にいく。「つけを払いにいく」
みたいに、紙袋に「ご志納」と書き、5000円を入れて・・・
この夏に地籍調査を役所たちあいで、初めてやった。田舎はゆっくりしたもんだ。でも境界線なんかを
決める時は、ゆっくりが、すったもんだになるようだ。もともと、土地は所有するものでなく、農民に貸して
そこからの年貢で成り立っていた。明治になって欧米よろしく近代国家?を目指すために、土地を所有させ、
固定資産税という悪税をつくって、国の防衛費や政治家たちの私腹を肥やしてきた。今回も防衛費を捻出するために、
国民が汗を流したお金をポン引きする作戦をあれこれ考えている様子。マイナンバーカード、保険証と運転免許証の合体、
新しいお札・・・やるね~

話がそれた。4年前に、能登の古民家付きの家を買った。母屋だけ名義変更をして、隣の畑は
借り(無料)、上の畑は年払い、つまり5000円の「ご志納」で借りている。農業法人にしないと、農地は
買えないのだ。どうでもいいけど・・
上の畑は、里山の延長みたいな場所で、栗の木と柿の木が、それぞれ二本あって、秋にはたわわに実をつけ、
東京でお世話になった人や、お店の常連さまのお土産になったりする。畑の真ん中には「さつき」が植わってあり、
春には、野良仕事の一瞬のなぐさめになるし、横の畑では辛み大根をつくったりしている。
そして、そこには二階建ての小屋がついていて、一階は車庫。二階は、ぼくの商売道具の七輪や炭、釣り道具
などが納められている。天気のいい日は、ネコ(一輪車)に焙煎道具を積んで海辺で焙煎し、珈琲を飲み、
雨や風の強い日は、その小屋で焙煎し、里山の風景を見ながら、珈琲を飲む。さながら「里山里海カフェ」だ。

お店(墨田区)の平均的な車庫の賃料は月25000円。それに比べて、栗と柿の木付き、畑付き、車庫付き・・
もっといえば、「海付き」「里山付き」の土地を、年に5000円で借りている、ということだ。
縁、と情報をまじめに集まれば、田舎には、こんな「宝」がいっぱいあるのではなかろうか?(不動産屋を通すと、
「商売」になるので、こんな物件はないけど・・) 「小屋に囲炉裏をつくり、ゆっくり隠居」なんてこれから
みんながあこがれる生活スタイルになると思う。七輪で炭をおこす・・・の訓練さへしとけば、なんとかなる。

時代が大きくうねっていて、「違う生き方」を模索している人が多いのではないかと思う。
東京と能登をいったり、きたりしていて、いろいろな気づきがあった。
もっとも大きい違いは、空気と水が違う。もちろん能登のほうが美味い。
昨日は、この小さな集落から、徒歩20分の隣の小さな集落に「ご志納」にいく道すがら、
ビュースポットにもなっている棚田のあぜ道を歩きながら、「東京には、ひとがいっぱいいるけど、
集落というのがないな」と、当たり前のことに気づいた。億ションや、高級住宅地に住んでいても、
その「まち」と「ひと」に、かかわりがもてない人の烏合の衆になっている。
匿名性のあるそんな東京が、けっこう居心地のいいのも否めないけど・・・・

おでん 熱燗 昔の女(男)

全国的?能登は毎日雨が降っている。今朝は少しお日様がでているので、
ソーラーパネルを玄関先にだし、蓄電池に電気を溜めている。もともと12月は
風も強くて、まだ集落の人たちが海に伝馬船ででていく気配がない。
タコ釣りも12月はお休みだ。したがって、食卓には魚がのぼることがなく、湯豆腐や
パスタなどで、熱燗もしくは能登ワインを飲んでおりまする。それはまたそれで、けっこう。
腹をすかしてやってくるノラちゃんたちも、牛乳と九州で買ってきた「イリコ」で
辛抱させている。

門前(総持寺)のまわりは、豆腐屋のレベルが高い。今上映中の「土を喰らう日々」の原作者の水上勉さんも
幼いころ福井から京都の妙心寺に修業にだされ、典座(てんぞ)よろしく畑仕事に、精進料理などを身に着けた。
寒山拾得(かんざんじっとく)の拾得(じっとく)である。寒山は詩を書く筆を持ち、拾得は箒(ほうき)で落ち葉を掃いている。
京都もそうだけど、普茶料理(禅寺に伝わるお茶と精進料理)には、
豆腐はかかせない食材だ。したがって、昔から美味い「おでんや」も多い。

もともとおでんは「三都物語」みたいな「二都の別」という言い方をした。
関東では「おでん」、関西では「関東煮(だき)」といった。今は、コンビニのおでんが代表選手
みたいな顔をしているばってん・・・
ぼくらが大学生だったころは、京都のおでんには必ず「ころ」という、クジラの脂身があった。
今は国際条約でクジラの捕獲が禁止されているので、しばらく食べていない。

昨日は、近所(といっても、車で15分)に灯油の買い出しにいった。その灯油や(ガソリンスタンド)の蓮向かいに
小さな食堂がある。女将さんひとりで切り盛りしていて、50年。天ぷらや刺身がおいしいけど、
冬はカウンターの中におでんの鍋が、いい感じのにおいを漂わせている。
いきなり「今日は私の75歳の誕生日。ようこそ」といって笑った。車にもどって、「ほぼぶらじる」の200グラム
入りを渡して「♪ハッピーバースデー・・・」のおでんパーティーが始まる。
昆布と干し椎茸と能登の塩で味付けされた「おでん」は、東京や京都でも食べれないレベルだ。九谷焼の鉢に、
卵・こんにゃく・厚揚げ・くるまふ・・を入れ、ネギの刻みをたっぷりのせた「盛り合わせ」、もちろん辛子は
お手製(チューブじゃなく)で、3合飲んだ。
かわいそうだけど、運転手の筆子さんは、ノンアルコールビール。

近所の同級生の板金屋さんが、カウンターに座った。昔から板金屋さんは、冬は仕事が少ないので、
1月2月に「味噌つくり」をするらしい。麹も自分でつくっているので、その期間は納豆も食べない(納豆菌が悪さする)し、
葬式(人と接すると、自作の菌が死んだりする)にもでない、とのこと。
能登に暮らしている人たちの「日常」は、縄文時代からずっとかわらない流れがあって、驚かされる。
菌の話がはずみ、少しメートルがあがり、「来年、麹をすこしあげる」というので、彼にも
「ほぼぶらじる」を手付けみたいに渡した。板金屋さん・・・番菌じゃない?

森鴎外に「寒山拾得」の短編があるが、芥川龍之介も俳句を残した。
粗衣粗食に耐え、「足るを知る」の象徴みたいなふたりの生き方に、文人のみならず、日本人は
自分たちの「標」(しるべ)にしてきたのだろう。

拾得は焚き 寒山は掃く落葉     芥川龍之介

UFOの里 珠洲の丸和工業さんの窯が再興した!

6月の地震で、窯が崩壊した七輪屋さん(丸和工業)にいく。
スタッフは古希を超えているけど、クラウドファンディングや、有志や、行政からの
援助もあり、新しい窯がほぼ完成して、来年の2月くらいに火が入る。
6月の地震の3日くらい後に、現場にいって、壊れた七輪の瓦礫をかたずけるのを手伝って
いたら、チャネって、「珪藻土七輪UFO」ができた。
売り上げの一部を、寄付したら、小さな朝顔七輪をいただいた。天真庵のカウンターの上に
置いたら、多くの人に「ほしい」といわれた。丸和工業さんのネットショッピングで8800円で
売っている。珠洲の道の駅でも売っている。能登に旅する機会があったら、ぜひお土産にどうぞ。

3日前にブログに書いた戦友みたいな後輩の葬儀が水曜日にあった。能登でのスケジュールがあったので、土曜日に
成城の自宅で最期のお別れをした。「やり遂げた」という爽やかな顔が印象的だった。

彼ら夫婦が4年前に能登の家に遊びにきた。今思えば、難病に罹病し体調も悪かったろうに、さすが
「今ここ」を大事にする行動力に脱帽。その後、近くの「義経の隠し船」にいき、珠洲の平家の里「上時国家」を旅し、梅茶翁に
いった。不思議な縁だけど、天真庵で三輪福さんに煎茶を教えている時、後藤くんが「ぼくもやってみたい」
という話になり、いっしょに星野村の玉露を喫した。その時に、「義経」の話や義父の平忠時(清盛の参謀)
、その娘のわらび姫の話をしたら、「能登へ行きたい」ということになり、そんな流れでやってこられた。
「あんな空気がきれいで、太陽がきれいな海に沈んでいく風景は、この世のものとは思えませんね。きっと神様が
極楽浄土をちょっとご褒美に見せてくれてるみたいでした」と、後日メールがきた。若いのに死生観がしっかりしている、
と思った。当たり前のことだけど、みんな100%死ぬ。だから生きているつかの間の毎日毎日が、輝いているのだと
思う。

夕方、珠洲から帰る帰路に、その極楽浄土みたいな洛陽に、大きな船の影が見えた。
思わず、『戦友別盃(せんゆうべっぱい)の歌』を口癖みたいに、口ずさんだ。大木敦夫(おおきあつお)さんが、
戦時中に船の上で作った歌。YouTubeで、検索すると、森繫久彌さんの朗読がでている。泣けるな~

言うなかれ 君よ別れを 世の常を また生き死にを
海原の はるけき果てに 今やはた 何をか言はむ
熱き血を 捧ぐる者の 大いなる 胸を叩けよ
満月を 盃に砕きて 暫しただ 酔いて勢へよ
わが往くは バタビアの街 君はよくバンドンを突け
この夕べ 相離るとも 輝やかし 南十字星を いつの夜か また共に見ん
言うなかれ 君よ別れを
見よ空と 水うつところ 黙々と 雲は行き雲は行けるを

還暦過ぎたら、義理など捨てて気楽に生きる!

長生きしている老人を見ていると、「自分らしく生きる」(ある意味、マイペース)というのは大事だ。
とくに、女子は、その傾向が強いような気がする。「自分のことは自分でせんとあかんばい」ということを、
男よりも自覚しているのだろう。昔は秀才でちょとしたいい男だった伴侶が、定年後は家にいて、みそ汁はおろか、魚も焼けない、
洗濯機も使えない(珈琲くらい淹れられたほうがよか)・・・社会的な立場がなくなると、ぬれ落ち葉になり、粗大ごみのシールをはって、捨てようか、という気分になるようなことを、多かれ少なかれ感じるようだ。あげくに、介護が必要になったりすると、首を
〆ようか・・そんな気持ちになることにも同情できる。

よく、近くの「お世話しあうハウス」の女将とシエアメイトさんたちが蕎麦を手繰りにくる。
「いずれいく道」が、すぐそこにきている感もあり、笑ってばかりいれない今日このごろ。
総入れ歯の人ほど「ごはんは固いほがいい」といい、自分の歯が残っている人ほど「こんな固いごはんはいやだ」
というらしい。普通に考えて、歯がたたないようなことだけど、女将はちゃんと涼しい顔して、毎朝
二種類のごはんを炊くそうだ。新潟の村上出身のおばあちゃんは、毎朝ふるさとの「鮭」が食卓にのらないと機嫌が悪い。
しかも、週に一度は「鮭のかま」を食べたい、とうるさいらしい。こんなことに右往左往していたら、老人たちの
お世話などできない、と女将はいう。しかも、全部、自分の年金を使ってお世話している。なかなかできないことだ。

最近、そのお世話ハウスに、エスプレッソマシンがはいった。女将が「せめて素敵なカフェみたいに・・」という
計らいから。でも、「お茶にしますか?珈琲にしますか?」と聞くと、ほぼ全員が「お茶」しかも、お抹茶を
所望するらしい。この女将は、名にしおうお抹茶の正教授でもある。「先日、断捨離と思って整理していたら、トークロウの
茶わんがでてきたので、それでお茶をいれたのね。そしたら『こんな重くて汚れた茶わんいやだ』だって、といって
笑った。当分苦労しそうな、ウソのような本当の話。一度見せてもらったけど、ホンモノの加藤唐九郎さんの黄瀬戸茶わん。
なにはともあれ・・・

酒飲み仲間に 仕事の仲間 苦労し遂げて 茶の仲間

日曜日に、四谷と銀座の喫茶店から豆の注文がきたので、能登の家には「生まめ」しかない。
朝ごはんの後、煎茶を飲みながらPCに向かっている。明日は能登のカフェに配達があるので、
これから珈琲の焙煎。冬は朝から炭をおこして暖をとっているので、「よし」とスイッチが入ると、
すぐに焙煎ができる。「どこでも誰でも珈琲が焙煎」・・・そんな時代がきてほしい。感謝。

インスタ映えする景色やけど・・・

日曜日の夕方東京を出発して能登を目指す。
東京はまだ10度以上の温度だったけど、仮眠する佐久平のパーキング
の温度は0度。信州の山はすっかり冬景色だ。
そこから妙高高原までは雪が深いところ。来月はきっと冬タイヤが必要。
もっとも、先月からスタッドレスタイヤに履き替えているけど・・

先月は、三段締め、紅葉の山の頂に雪の冠、という景色を味わえた。
今回は、山の中腹から上は雪景色、下半分が樹氷というモノクロのグラデーションの
景色を味わえた。どちらもインスタ映えする景色だけど、車の中から撮るのは難しいし、
もとより、写真より自分の目で愛でるタイプなので、横で運転しながら「写真撮って」という
筆子さんの言葉を、耳が遠くなった老人のフリして、無視。

氷見のクロネコに寄って、東京の喫茶店から頼まれた珈琲豆を発送。そこから5分の「すしのや」
という、「はやい やすい うまい」の牛丼みたいな店で、寿司をつまむ。
「朝どれ三種」「氷見三種」「地物三種」「氷見ブリ三種」・・・一貫づつ3貫が一皿にのり、300円から700円。
氷見牛、のどぐろ、マグロ・・・・そんなゲテモノ高級魚(ひとつは牛)、は興味がなく、イワシとアジ
あたりの光もの、タコなどがあれば、3合は飲めるタイプ。いつもふたりで食べて4000円
いかない。まさに「はやい やすい うまい」寿司屋だ。

そして、能登の家の近くにある「ますほの湯」にいく。
町営の温泉で、65歳以上は260円。(一般は460円)。
家には、立派な風呂があり、石油ボイラーを修理したら、いつでも風呂に入れるけど、
260円で、温泉に入り、地元紙を読み、希望であれば、運動器具などを常備(誰も使っていない・笑)している
ここにきたほうが、いいことづくめだ。移住する条件に「日帰り温泉が近くにある」は大事なポイント。

駐車場には、「田舎のベンツ」である軽トラがいっぱい。じいちゃんもばあちゃんも、ゲタ代わりに
これを運転してやってくる。
脱衣所や、湯舟での話もシルバー川柳さながらで、ときどき吹き出しそうになる。昨日の湯舟・・

「やっと、運転免許が更新された。だんだん、運転がむずかしくなるの~」とあるじいちゃんがいうと、
「ほんと、『年寄は運転するな』ような感じやな」とあるじいちゃん。すると傍らにいる3人目のじいちゃんが、
「最近、スピードがだせなくなり、初心者なんかにブーブー鳴らされるの腹たつな。」というと、最初のじいちゃんが
「日本刀をもって、脅したろうか思うことがあるわ」・・にみんながカカと大笑い。なかなか漁師町の男たちは、気持ちは若いし、男気?にあふれている。
都会にいる一般的な年寄は「昔自慢」「孫自慢」「薬自慢」「病院自慢」ばかりで、聞いていても辟易する。
こちらのじいちゃんたちは、毎朝伝馬船にのって、魚を釣り、田畑をやり、若者にパッシングされながらも、自分の
力で生きている。数字とか言葉の「くくり」で、高齢化社会、限界集落などを語ると、暗い未来しかないばってん、
少し見方をかえ、元気な仲間を味方にすると、けっこう日本の未来は「ゆたか」だ。感謝。

インスタばえ 新種のハエかと 孫に聞く(シルバー川柳集より)

いろいろあるから人生か?

先日、戦友みたいな後輩の訃報が、奥方から。しばらく自宅で病気の療養を
しながら、いろいろな会社の顧問をしていた。それでもよく蕎麦を手繰りにきてくれたり、
能登の家にも遊びにきてくれた。玄関に置いてある石仏に手を合わせ、「こんなのが玄関に
あるのは、野村さんらしいですね」と笑った。その時の満面笑みの笑顔が、印象的だった。
能登ワインを飲みながら、昔の話とこれからの話をする。話し尽くせず、飲み尽くせずの至福な時間。

ソフトバンクの創業のころ(日本ソフトバンクやった)、まだ東郷公園の横の半地下のマンションに、
営業・出版・倉庫・・・全部入り、ごった煮みたいなところで、いっしょに
仕事をした同志だ。享年58歳。後藤誠二くん。ソフトバンクの元常務。Y!モバイルの社長までやった。
短い人生やったけど、中身の濃い盛大な人生でもあった。二日間聴いているバッハのボリュームをあげ、
静かに黙祷。「営業が終わりしだい、顔を見にいく」旨を奥方に伝える。

世田谷の家にいくのに、首都高で事故渋滞があったので、下道をいく。
ナビの支持どうりにいくと、靖国神社の前まできた。「ナビもいきな計らいをするな」と、
神社と、反対側の東郷公園の方に向かって合掌。さすがに、涙腺がゆるんでたまらない。

「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」、と東郷元帥が日本海海戦の時に
いったように あのころはみんなよく働いた。

そのまま市ヶ谷から四谷経由で新宿を超え、世田谷に入る。「ラーメン荘 歴史を刻め 世田谷店 」に
人が行列を作っていた。大阪から東京に進出してきたお店。ラーメンは滅多に食べないが、同じ系列で
京都で3店舗やっている「ラーメン荘 地球規模で考えろ」の柳原社長も、京都のからふねや時代の後輩。
奇しくも、彼も5月に脳梗塞で倒れ、リハビリ中。ときどき、京都弁で「まだへたったら、あかんで」
みたいなメールをおくっている。まだ還暦を過ぎたばかり・・・ほんまにへたったら、しばきにいくで!

ほんの少し前、昭和の時代は、戦争もあって、男子の平均寿命が20代という時代があった。女子も
40代。食料がよくなったとは、思えないところもあるけど、医療の発展(いらぬ世話みたいな部分もあるけど)で
「人生100年時代」なんていわれている。戦争や地球環境の変化などにより、また危うい時代の足音も近づく今日このごろ。
仏さまになった後輩の顔を見ていると、「おさきに」という爽やかな声が聞こえてきた。「ごくろうさま」と答えた。
「・・・こんど能登でタコ釣りを教えてください。感謝」の後に、合掌している仏さまの絵文字、が
最後のメールになった。化けてでてきても、また飲みい。そんな友との惜別の日だった。合掌。