人生は四十(しじゅう)からが本番。

今朝は、燃えないゴミの日。曇りのち雨の予報。
能登の家では、ガスの契約をしていないので、調理はガスボンベと
冬は囲炉裏を使って、煮炊きをする。朝の茶や珈琲も、しかり。
ときどき、アルミホイルでさつまいもをくるんで、囲炉裏の灰に
埋めておくと、めちゃくちゃうまい「灰焼きいも?」ができる。

寝る前に、炭を灰にうめると、翌朝火種が残っていて、五徳の上に置いた鉄瓶の湯も
温かく、それを白湯(さゆ)として飲んだり、また沸騰すると珈琲を淹れたりする。
洗面もその湯を使う。もう少し本格的な冬になると、湯たんぽを使うので、朝の洗面は
湯たんぽの湯を使う。今年で7回目の「能登の冬」を体験することになるが、このシンプルな暖房で
厳しい寒さを楽しんでいる。能登はやっぱり冬がいい。

庭の柿の木に、朝からメジロ、ジョウビタキ、ヤマガラ、シジュウカラが残り柿をつつきにきている。
四十雀(シジュウカラ)・・・・・東京でもよく見かける鳥。メジロやヤマガラは、昔はよく家で飼われていた。
ジョウビタキは、渡り鳥なので、家では飼えなかった。シジュウカラは、ヤマガラといっしょに
行動することが多いが、「始終空」という縁起悪さのせいで、忌み嫌われてきた。

でも人生は「四十(しじゅう)から」がおもしろい。
最近「人生最後の10年を黄金期にしたいね」みたいな声をよくきく。
古代インドでは、「学生期」(青春)」「家住期」(朱夏)」「林住期」(白秋)」
と3つにわけた。
最後の「林住期」は、50歳から75歳。つまり、人生の後半戦を黄金期にしようということだ。
その為には、40代から準備をして、自分の「この花さくや」を咲かせることが肝要らしい。

立命館大学の総長で京都名誉市民だった「末川博」先生の最後の講演を昭和51年に、丸太町烏丸に
あった「京都産業会館」で聞くチャンスがあった。19歳の時。「人生を三分割して、生きなさい」というお話だった。

「人生をみっつに分けたら、これまでの君たちは『親に世話になってきた』時期。しっかり学びなさい」(学生期)
「卒業して、社会にでたら、自分と家族のために一生懸命働きなさい」(家住期)
「最後は、人のために、お金や名誉ではない働きをしなさい」(林住期)

・・・・そんな話だったように思う。先生は、六法全書を編集したり、民法の「権利の乱用」
などを確立された大法学者。
気骨の人だったけど晩年は、悟りの境地にあられたように思う。

その講演を聞いた時、「もう大学で勉強することはない」と思い、近くにあった「からふねや」
で珈琲を飲んだ。その一滴の刹那に、カウンターの中にいた堀尾社長に、
「ぼくを弟子にしてください」と頼みこんだ。数か月後に、本店の店長になった。ぼくの「二十歳の原点」(
当時、立命館文学部の高野悦子さんの「二十歳の原点」がベストセラーだった。)
林住期の今も、毎日のように焙煎をしたり、UFOや、新しい珈琲の器具のあれこれを、老朽化した脳を働かせながら、試行錯誤している日々。
まるで、学生期も家住期も林住期も、珈琲三昧の人生。「臨終期?」しか残っていないぼくの人生。なんの不足もない。感謝。

酒を神にささげ、花を神に手向け、チンポ立て!

昨日は満月。残念ながら、能登は曇って見えなかった。
今日も朝からどんより曇っている。お昼前から雨との予想。

いつものように、瞑想しながらタコヤンをもって海にいく。
少し波高しで、おじいちゃんたちは伝馬船にのることをあきらめ、港で海をながめている。
これもまた瞑想みたいなもので、邪魔するわけにいかず、あちらから「おはよう」とか
「ごくろうさん」とか声かけてもらった後に挨拶する。70年80年と毎日見ていても
あきない海の近くで生活している人たちは、幸せだと思う。

帰りに神社にお詣り。参道に藪椿のつぼみがひとつ。「いただきます」と挨拶して、釣りバックに
忍ばせている京都・安重の花鋏で切る。パチンという音が、これまで華人たちに愛され続けた老舗の技のなせる音だ。
帰り道に、解体される家がある。今は避難所で生活されているけど、よく「釣れた?」とか挨拶されていたおばあちゃんが住んでいた。
今日の午前中で、たぶん完全に解体される。家の玄関横に、着物をきせられた人形がおいてあった。地震がなければ、この家の人と
永劫の時間をともにしたに違いない。そのかたわらに九谷の徳利がころがっていた。それに水甕から水をくみ、
藪椿を投げ入れた。ほとんど解体されて、残った玄関の土壁の色に華やかな赤。
手向けた瞬間に、人形が笑ったように感じた。

昔、新宿伊勢丹で個展をやっていた「草の頭窯」の青山禮三翁(99歳の天命を全うされた)に、
「福」の話を聞いた。彼は、染付の名人で「福」や「寿」や「寒山詩」などを書いて皿や酒器や茶道具をつくった。
「『福』の由来はのお・・・田んぼで獲れた稲を神棚に授ける、という意味だ。
日本は瑞穂(みずほ)の国とよばれ、そうゆうことを幸福に思ってきた民族なんや」とのこと。
伊勢丹の若い女子スタッフがいいタイミングでお茶をだしてくれた。翁は続けて、女子にも聞かせるように
「この『寿』はのお・・・(ここで齢90の翁がニヤリ)・・田んぼの真ん中で、チンポが立っている、という文字や」
と教えてくれた。若い女子は少し沈黙した後、「ふふふ」と笑った。その後、めでたく寿退社をしたや否やの顛末
は知らんばってん、そんなことを思い出した。
能登の家には、青山翁の水差し、とか、湯冷まし、茶わんなどを置いてある。ときどきそれで、お茶を淹れたりする時、
在りし日の翁の笑い顔が蘇ってくる。人は死んでも、生きている。感謝。

月見酒 宵待草に じゃまされて     南九

珍品堂主人と秋田の銘酒。

井伏鱒二先生の小説に「珍品堂主人」というのがある。映画にもなった。
ひと昔前までは、どの街にも骨董屋があった。家の中には、床の間があり、
その家の家宝のような軸がかかり、季節の花を好みの花器に投げ入れ、
香炉で香りを聞いたり、燭台の和ろうそくに火を灯し、茶などを楽しんだ。
さしずめ、どの家も床の間という「小さな美術館」があった。床の間は日本人の美意識を育んだ空間だ。
床の間も骨董屋も絶滅危惧種になった。同じように在日日本人も絶滅危惧種になる寸前かもなんばん。

押上の天真庵を2006年の秋から改装しながら、2007年の4月1日に開店した。
カウンターの檜のカウンターは、夏目漱石の草枕をこよなく愛した近くの居酒屋の主人(すでに故人だったけど)
からもらった。その店の名前が「百尺」という店だったので、そのカウンターが檜であることを知る。
柱時計と店のランプ類は、世界的な建築家の白井晟一さん(すでに故人だったけど)にもらった。
しばらく二階で使っていた灯篭は、向島の料亭が壊される時に、解体屋さんにいただいた。

いろんな紆余曲折があったりしても、「残るもの」というのは、やはり「素晴らしい珍品」だと思う。
毎朝、海までいく道すがらの家が解体されるようになった。時代ものの箪笥や家具や、その家で使われてきた調度品
なども、行き場をなくして、ほったらかしにしているものもあまたある。
ひと昔前なら「これいただいていいですか?」と解体屋におねだりするのだが、こちらもすでに骨董みたいなもの。
最近は「ひとつものを増やすと、ひとつ捨てる」をこころがげていて、とても声をかける気になれず、素通りしている。

井伏鱒二先生は「備前の徳利に斑唐津(まだらからつ)の盃で飲むのがいい」とのたまわれた。
酒飲みの憧れの酒器である。(ほんとうは、その前に、根来(ねごろ)の折敷(おしき))
昨日は、輪島塗の折敷に、備前徳利、能登焼きの盃(能登の珪藻土で久保さんが焼いてくれた黄瀬戸)で飲んだ。
酒は夏にお邪魔した秋田の齋彌酒造(さいや)の「雪の茅舎」の山廃を、囲炉裏でぬる燗にして飲んだ。
この酒蔵の酒はみな美味い。理屈ぬきに官能に感応するほど美味い。筆子さんが秋田でコンピュータの仕事をしていた時、お客さんにいただいた酒。以来、なんども秋田に車ででかけ、酒を調達している。「飽きた」といわせぬ銘酒だ。

先日、天真庵のカウンターに素敵な女性がとまって「ほぼぶらじる」を二杯飲んでいかれた。
階段下に置いてある「雪の茅舎」と印刷したの6本入りのダンボールを見て、
「わたくしは、ここの杜氏・高橋藤一さんの本『美酒の設計』を書いたものです」といって名刺をくれた。「藤田千恵子」さん。
先日、「美酒の設計」を読みながら、雪の茅舎を飲んだ。いつもは2合くらいでおしまいになるところ、
3合くらい飲んだ。

「日本酒の原点」というところで、こんな一文にひっかかった。

「今の日本酒の消費の苦戦は、お酒というものがそもそもは、五穀豊穣の恵みに感謝して神様に
捧げていたものだという原点を忘れてしまったことにもあるんじゃないかと私は思っているんです」

その通りだと思ったら、勢いがついて、もう2合飲んでしまった(笑) 感謝。

能登のタコ焼き

昨日は、道の駅・とぎ海街道の隣の「渤海」で汗を流す。
罹災した地元の人たちは、今年いっぱい?無料で温泉に入れる。
午後3時から入浴できるようになっている。
あらかじめ登録した「スイカ」を入口でかざすと、OK牧場。

いつもは、入浴の後に、橋本食堂でてんぷらをつまみに一杯・・・
がならわしだけど、昨日はお風呂の施設の横にできた「仮店舗」
でタコ焼きを二箱買ってかえった。(一箱8個500円)正月にレストランが全壊になった人がやっておられる。
その横には、同じく全壊になった料理屋がお持ち帰り専用のお弁当の店をやっておられる。1000円前後で
おいしいお弁当が食べれる。みんながんばっています。

お話を聞いてみると、この仮店舗は3年契約らしい。厨房器具やエアコンの設置などは、自腹。
もちろん、3年たって撤去する時も、本人負担でやる契約らしい。
お店が全壊して、公費解体の後、また新しい店ができるまでに、2年や3年かかるし、膨大な費用もかかる。
その間の「つなぎ」という意味では、行政のありがたい支援になるかもしれないが、冷静に考えると、その3年で
黒字で経営していくのは、簡単ではない。同じ稼業をやる身としては、複雑な心境になって、タコ焼きを食べた。
東京のタコ焼きより、地元のタコを使っているので、美味い。

3尾の立派なブリっこがお頭つきで到来し、3日続けて、ぶりずくしの夕餉。
アラは、ほんとうは「ブリ大根」なんかにして、一杯やりたいが、お腹をすかせた野良ネコたちが、
毎日10匹近く托鉢僧よろしく玄関先にやってくるので、小さく刻んで、施してシェアしながら
ともに生きている。「ネコ元気」と「牛乳」が我が家のエンゲル係数を押し上げているが、袖振り合うも他生の縁と
なかばあきらめ半分で、昨日は全壊した近くの郵便局近くに設置された「キッチンカー」みたいな郵便局の
「ATMカー」でお金をおろして、「元気」という能登のスーパーでネコの食料を買った。たこ焼きよりも、
何倍もする(笑)

さきほど、ネコの朝ごはんが終わり、これから自分たちの朝飯。
さきほどから、ぶりかまを囲炉裏で焼いている。ワンパターンの朝ごはんだけど、
毎日食べても飽きない。感謝。

能登くらし みっかめ

今日も朝から天気がいい。
いつものように「たこやん」をもって、海まで散歩。
「こんな風が強い日は、海はあぶないよ」と近所のおばあちゃん。
「ぼくの釣りは、瞑想やけん・・・」というと、不思議な顔してた。
迷走、と思ったかもなんばん。ぼくてきには、都会の徘徊散歩と同じく、瞑想みたいなもんだ。
潮騒やかもめの声を聞きながら、たこやんを流していく。

海までの道中でも、解体される家がポツポツ増えてきた。
家の人たちは、仮設住宅に住んでいる。法律できまったことらしいが、仮設住宅に
住める期限が2年。もうすぐ地震から1年。あっという間に、時間が流れていく。しかもこれからの冬が厳しい。
仮設住宅にも、年齢制限があったりすることを知る。ほとんどが後期高齢者なのに、何か不自然
だけど・・・・・「納得がいかない」ことをあげると枚挙にいとまがない、どころじゃない。
ほんとうに、この日本は住みにくい国に成り下がっているよね。

東京と能登の二股暮らし。「東京もいいし、能登もいい」と思ってまる6年になる。
でも、今回みたいな地震が東京で起きたら・・・と思うとゾッとする今日このごろ。
帰り道に、仮設住宅に暮らしているおばあちゃんから声をかけられた。
「明後日くらいから、寒くなるみたいなんで、風邪ひかないでね」。
ほんとうは、同じ言葉をこちらから言わなくっちゃ、な気持ち。能登人たちは、びっくりするほどやさしい。

車庫の中に釣り道具を置き、この家のじいちゃんが残してくれた「炭」を家に運び、ノコギリで
小さく刻んで、囲炉裏に入れる。
あさごはんは、到来ものの「ぶりのかま」を囲炉裏で焼いた。味噌汁の具も、じゃがいも、たまねぎ、〇〇茸・・
みんな到来もの。味噌は点前味噌やけど。漬物は、こないだ長野の川上村でもらった野沢菜を筆子さんがつけたもの。
そして、鉄瓶で沸かした能登の霊水で、珈琲を飲みながら、ブログを書いている。
少し時計を昭和あたりにもどしたような生活だけど、なんの不足もない天真爛漫な能登暮らし。まだお金は一円も使っていない。感謝。

能登くらし ふつかめ

夕方、囲炉裏に炭を入れようと思ったら、着火剤がないことに気づく。
東京では、火起こしを、ガス台にのせると、5分くらいで炭がおきる。
能登は、ガスの契約をしていないので、着火剤で炭をおこす。
しかたないので、カセットコンロのガスバーナで炭をおこした。

東京では、「オリンピック(近くのスーパー)に行ってくるわ」で、ほとんど用が済む。
田舎は、「お金で買う」よりも「自分でなんとかする」のほうが優先。
311の時は、東京もスーパーからモノがなくなり、「お金があってもモノが手に入らない」
生活を実感した。これから、いつ、どこで災害に合うかどうかわからない時代。
少しづつ、「自分でなんとかする」ほうへシフトしないと、生きていけない時代がきたように思う。

寝る前に、囲炉裏の残り炭を灰にうめておく。朝起きたら、その炭を灰からだしてあげると、種火
になって、小さな炭で囲んであげると、また今日の暖がとれる。給湯器もないけど、大きな鉄瓶を
囲炉裏にかけておくと、朝の洗面、珈琲、お茶、ごはんの後の洗い物・・・・便利だ。
小腹がすいたら、網に野菜やもちをおくと、御馳走になるし、夜は錫のチロリに酒をいれると、
やさしいぬる燗ができる。先々月、秋田で調達した「由利政宗」を囲炉裏端で飲むと、
秋田美人にお酌でもされてる気分になる?

正月に罹災して、家がびしょぬれになり、二階の畳をぜんぶ捨てた。
屋根にブルーシートをはってもらい、なんとか雨露をしのいでいる。屋根を修理するのに、550万かかる見積がきた。
平常時の二倍くらいの見積もり。「しばらくブルーシートでいいわ」と返事をした。もう一度同じような地震が
きたら、能登から離れノマド生活もいいなと思って生活している。9月は、家の隣の畑が土砂崩れで埋まった。
そこの修理も、屋根と同じくらいかかりそうだ(誰がやるか、いろいろ微妙な問題が残っているけど・・)
もともと、ノー天気な性格だけど、今は何がおきても、「あるがままを受け入れる」を楽しめるような心境になってきた。
テレビでも、やったみたいだけど、「私の見た未来」というマンガで予言された、2025年の7月にくる大災害
のことも、来年あたりは大きな話題になると思う。

「明日大地震や、富士山が爆発や、大洪水がきても・・・」悔いのない人生をおくりたいと思う。
だから最近は、なるべく好きなコトだけやり、イヤなことはしないことにしている。
終活や断捨離も大流行りだけど、一番たいへんな片づけは「人」じゃない?
群れずに生きていくと、好きなことができ、長続きするコツだと思う。でもほとんどがsnsなんかで「つながっていたい」
とか思っているひとばかりが目立つ時代でもある。
来年は巳年。「ながいものに巻かれるな」、というメッセージかもなんばん。感謝。

能登くらし いちにちめ

先月まで、「あついあつい」といっていたのが、今月は「寒い」
になった。でも車中泊した松代の気温が13度。例年なら、限りなく0
に近い5度くらいだから、温かいほうだ。冬用の寝袋の中では汗がでた。

いつものように和倉温泉の「総湯」で、禊よろしく都会の疲れをとり、
界隈を徘徊散歩。休業中の加賀屋の駐車場でトレーラハウスでハンバーグやを
やっている主人とビール片手に談論風発。ここで10分ほど話をすると、
和倉温泉の復興状態の進捗がよくわかる。「まだまだ」だ。

続いて、富来(とぎ)の「橋本食堂」にいって、天ぷらをつまみに酒を飲む。
女将のてるみちゃんが「野村さんの家の隣の畑が土砂崩れしたんだってね」というので、「うん」
と答えた。「また大雨が降ったら、家まで土砂がいくんじゃない?」と心配顔でいうので、
「そのときは、庭にテント張って暮らすか、車庫になっている小屋を改装して住むわ」
と言ったら、笑って「若いっていうのはいいね。その勢いで、こっちにもそばやをだしたら」という。
68歳の老人をつかまえて、「若い」というモノサシが、今の日本を象徴している。てるみちゃんは後期高齢者になった。
まだまだ元気だけど・・

家にもどると、駐車場にダンプがとまっていた。近くの家の浄化槽が地震で壊れ、それの
修理らしい。被害状況は役所の人の「目視」で、全壊とか、半壊とか、一部損壊とかランクがきまる。
でも、浄化槽やトイレ、家の中の土壁が壊れていたり、家具や調度品が倒れて、畳などが損傷したりするのは、評価の対象外。
そのランクによって、これからの助成金などの額がきまるので、罹災者にとっては死活問題だが、なんとも
微妙な問題である。大阪と同じ面積に、わずか19万が住む能登で、グラッと震度7の地震がきただけで、水が足らなくなり、
トイレに困窮した。大阪や名古屋や東京で、同じことが起きたらどうなる?というシミュレーションをどれだけの人
がしているのだろうか?一回のトイレに、焼酎の大五郎(2~3L)の水を使う。どう見積もっても、ひとり一日5リットル
くらい使うんじゃない?家族ふたりで10L。それを地震で電気がとまったマンションの〇階まで運ぶ。
〇の限界は、3階くらいじゃないかしらん。

地震の後、珈琲のお弟子様が、「お見舞い」といって、鹿児島の「財寶温泉」(2ℓ)を、10箱くらいくれた。
能登の家に運んで、玄関のテーブルの足がわりにして、その上に般若くんの文机(正確には、煎茶の手前に使うためにつくったちゃぶ台)
をおいてある。それを運ぶ時に、『都会で罹災したら阿鼻叫喚やな』と思った。

今日のあさごはんは、お米を「財寶温泉」で炊いた。昨日の海は凪いでいたので、近所の人から、
がんど(ブリになる前のブリっこ)を二尾いただく。3枚におろし、今夜は「さしみ」で一杯の予定。
骨付きの切り身を今、囲炉裏の炭で焼いている。目黒のサンマじゃないけど、匂いだけで、一杯やれそうだ。
「田舎暮らし」は、財寶がいっぱい。

能登休み・・・・22日(金)まで!

最近、秋という季節がなくなって、夏のとなりが冬のような感じ。
鹿児島では、季節外れの豪雨があったり・・・水温があがって、タコも少なくなり、
西のほうで採れたイサキや鰆(さわら)などが、能登で獲れている。ブリはどうなるのかしら?
能登の大雨で、知り合いも「泥かき」のボランティアに参加されたりしてるけど、
いった人はみな「反対に能登の人に元気をもらった」という感想。
「お互いさま」という精神が清い。明日から22日(金)まで能登休み。だいぶ家の片づけもおわった。

昨日の「そば打ち教室」は、佐渡に移住した夫婦、と、将来佐渡に移住したい夫婦、
が重なり、盛り上がった。新潟の島で、船を使ってしかいけないところだけど、
「将来佐渡に住みたい」という人は、けっこういらっしゃる。
もっとも、マンガの「私の見た未来」のように、来年の夏に、大洪水があって、海水が90m
もあがったりするのことがあったら、今栄えている平地はみんな海になり、島があちこちにできることになるかもなんばん。
天真庵のあるゼロメーロル地帯(正確にはマイナス)の墨田区なんかは、
スカイツリーの500mくらいが海水からニョキッとでて墓標のようになってる?泳ぐ訓練をしておかねば!

昔から「一寸先は闇」というけれど、そんな気持ちで「今ここ」を大切にしながら、生かされていることに感謝
していくしかない。そうすれば、瞬間に「一寸先は光」にかわる。感謝。

今日は12時から16時まで営業。それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」
明日から22日(金)まで「能登休み」

クリスマスイブは落語かい?

クリスマスイブに、橘家竹蔵師匠が「芝浜」をやってくれるようになった。
昨日のお昼、前売り券を、師匠自ら作って、もってきてくれた。
「だんな(ぼくのこと)びっくりしたよ。一日で完売したんだって・・ありがとうございます」と笑う。
根っからの落語家で、のべつ幕無しで、機関銃トーク。いつものように、ざるそばを「時そば」よろしく
ズズズと手繰り、バイクにのって帰っていかれた。

今週(もう先週かな?)の「女性セブン」の「最初の晩餐」というところに、鶴太郎さんが
若かりし日に、竹蔵師匠と稽古場であって、そのまま「おれんちに遊びにこいよ」といって、阿佐ヶ谷まで
いき、奥様の「角煮」を御馳走になった話がのっていた。一宿一飯の恩を、売れっ子になっても、忘れないところが、
「さすが」だと思った。売れる、売れないは、才能や運におうところが多い世界だと思うが、そんな「こころがまえ」
をもつ「人間性」が大事だと思う。どの世界もそうだ。

昭和58年に秋葉原で、ITの会社を創業した。その年に、毒蝮三太夫さんの「ミュージックプレゼント」で紹介されたことがある。
1969年10月6日から放送されている公開生放送のラジオ番組である。2019年10月11日の放送で50周年を迎えた長寿番組。
その前はウルトラマンの嵐隊員で当時の子供たちに人気だった。その後、談志さんが司会をやっていた「笑点」の座布団番になり、
こころあたたまる毒舌で今も各地で活躍されている。毒蝮三太夫というのも談志さんが命名。そんな縁があって、毒蝮さんの
竹馬の友がやっていた吉原の寿司屋で、毒蝮さん、談志さんと飲んだことも、懐かしい。
ふたりとも、素はとってもやさしい人だということが、わかった。

池袋に会社を移したころ、借りていたビルのオーナーが、「まるまど会」の後援会長をやっていた。
まるまど・・・・三遊亭圓窓さん。「笑点」を卒業されて、「圓窓五百噺を聴く会」をやっておられる最中で、
(2001年3月9日、含笑寺で「圓窓五百噺を聴く会」500席達成。)その中のいくつかは生で聞かせてもらった。
2年前にもっと高い高座に居場所を移されたけど、ときどきメールを
やりとりさせていただいた。高坂カントリークラブで、よくゴルフもしたな~。落語ほどうまくなかった(笑)

そんなことを思いながら、夕方のお客さまと談論風発していたら、バイクの音がして、竹蔵師匠が、
「ちょっと、二階を貸してちょだい。満席になったので、練習しなくっちゃ」といって、折詰をカウンターに
置いて、階段をのぼり、厠で用足しの後、降りてきた。
「毎日そばばかりじゃ、体に悪いから、寿司買ってきたので、食べな」といって折詰をくれて、またバイクの人になる。
落語は上手だけど、普段は上手が言えないシャイな一面ももっておられる。
芸というのは、縁から縁が紡がれ、自分の本来の人間性(天真)というものが、引き出されていくもんだなあ。感謝。

今日明日は12時から16時まで営業。それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」
明日の営業が終わったら、しばらく「能登休み」。

酒々井・・・酒が美味そうな土地名の酒がくる 

「しすい」と読む。千葉にあって、最近はアウトレットができて、東京からそんなモノ好きがあまたやってくる街。
養老の滝と同じように、孝行息子が酒好きの親父に酒を飲ませたいけど、金がない。
そんな時に、酒がでてくる井戸があった。そこが由来らしい。だから、酒もそばもうまい。

昔、ヨネクラボクシングジムが目白にあって、通っていた。
ときどき、目白にあった「坂田」に遊びにいった。
骨董好きには名にしおうお店だった。何年か前に緞帳を下げた。

主人は、ぼくと同郷で無類の蕎麦好きで、目白界隈ならず、全国の「うまいそばや」
を教えてもろうた。あるひ、「女主人だけど、最近よくいく蕎麦屋が近くにできた」
といって、道案内してもらって、自宅の一階を改装した蕎麦屋にいった。
女性が打ったにしては、角がたっていて、いいそばだった。
ちょうど、そば修行の途中で、ときどき池袋の天真庵でそば会をやっていたころなので、
「もしよかったら、そば粉の仕入れ先を教えてください」といったら、「酒々井のそば&そば農家」
を教えてくれた。そのお礼に、久保さんの黄瀬戸の蕎麦猪口を5個さしあげた。
以来20年近く酒々井のそばを使っている。縁とは不思議なものだ。

うちの常連さまの酒屋・「リカーショップすぎうら」から、今日の朝汲んだ酒が届く。

千葉県酒々井にある飯沼本家が醸す「酒々井の夜明け」。

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり   牧水

クリスマスイブに、落語とそばと酒の企画をブログに書いた。
一日で満席になった。ごめん。