「半東半島」っていう新しい生き方はどやろう?

今日は日曜日なので、16時まで営業。
二階では「満つまめの会」 下は7人の味噌つくり、かたわらで「蕎麦打ち」という日だ。
なので今朝も5時に起きて、お店にいくと、いの一番に、ストーブをつけ、そこに寸胴をのせ、
大豆を煮る、から始まる。24時間以上水につけた大豆を、低温でゆっくりコトコト煮る。
電子レンジとか圧力鍋などをつかって、時短で料理をつくる時代だけど、ゆっくりコトコト
の中にけっこう大事でオイシクナールという魔法のエキスがつまっている。

3年後に大学が近くにできる、を前に、2年後に近くに電子専門学校もできる。そこの立ち上げの責任者
が昨日挨拶がてら、ほぼぶらじるを飲みにこられた。大阪なまりの流暢な言葉で夢を語られているので、こちらも
京都弁ではんなりとお答えした。少子高齢化で、大学生の数も減るし、大学も減っていかざるを得ない。
それにみな「奨学金」という名のサラキンみたいな借金を背負って、この斜陽で元気のない日本を背負っていかなくてはならない。
「これまでの発想」で生きていっても希望も夢も抱けへん。働き方を変える、いうより、生き方根本を変えんといかんばいね。

大学のほうは千葉大学の建築家の一部ができるらしい。その中で「トレーラハウス」の講義を教える、という
先生も以前珈琲を飲みにやってきた。最近タイニーハウスとかいう、移動式の家も静かなブームらしい。
東京一極集中で、地方にいくと空き家や休耕田や山も荒れ放題・・・といった光景が目につく。
ちょっと前に「半農半X」という生き方を提唱されてる人も遊びにきたけど、「半東半島」という暮らしは
どうやろう。「半分が東京、半分が半島とか田舎くらし」 元気で体が動くうちに、都市と田舎の二股暮らし。
そんな暮らしの実験室をやるような人が増えてきたら、「これからは日本の時代だ」
になるような気がする。うかうかしていると陽が沈んでいく。「よし」といって足を一歩すすめて、田舎に
いってみよう。青い海、希望に満ちた夕陽や美しい棚田、やさしいおじいちゃんおばあちゃんが歓待してくれるに違いない。

明日の朝は「卵かけごはん」  夜は「漢詩を詠む会」

ゆりかごからはかばまで・・・

小さいのは3歳、大きいのは古希過ぎまで、体をこきつかって「手前味噌」を毎日作りにこられる。
まるで「ゆりかごから墓場」まで、飲む点滴の味噌汁の元をつくりにこられる。
もちろん三歳児は親といっしょにこられる。今年は近所の幼稚園の「ママ友」たちが、
あまた参加された。彼女たちは「育児」の話題、とりわけ「食育」には興味深々の様子。
絶版になったけど彼女たちには岡田武彦先生の「ヒトは躾で人になる」をおすすめしたい。
躾とは、しつづけることで、ヒトが人、になって、身ぶり手ぶりが美しくなる。

「古希あたりの人は、断捨離で、自分が大切にした「もの」や「ものがたりを含んだこと」
の整理を真剣に悩む。その前の世代は「親の介護」とか「熟年離婚?」とか「これから、どこで
誰と過ごすか」なんかを悩んでおられる人が多い。昨日の最終のふたりは、そんな世代の人たち。
悩みに答えるわかではないけど、大石学さんのCDをかけた。

「行雲流水」(こううんりゅうすい)
というタイトルのCD。返り点をつけて反対に読むと、「うんこ、水に流す」。
禅語で、自然のなりゆきにまかせ、声なき声を聴きながら、行く雲のように、また流れる水のように、
さらさらと、たださらさらと生きていく、という境地か。
「一所不住」というのもある。「いたるところに青山あり」と同意義な禅語だ。便利な大都会で
暮らし続けようが、山紫水明の里山里海で暮らそうが、どこへいってもそこに「居」して、自分の
立ち位置がきめられる、そんな境涯を現した言葉だ。家族とかまわりの意見を聞いて右往左往しているようだと、
いつまでたっても「居場所がないよ」ということかもなんばん。

今日も味噌つくり。夜はかすみちゃんの「ゆるゆるヨガ」
こころを波たたないような呼吸をする、笑顔でいる、感謝をしながら毎日を生きる。なんの不足もない。日々是好日。

学生街の喫茶店 で味噌つくり

昨日はまいかさんが、味噌作りにやってこられた。
100匹目の猿現象の一匹目の人だ。天真庵で
長いこと「ねんど教室」の先生をやってもらっていた。
8年くらい前のある日、「味噌つくり教えてくれへん」と大阪弁で
のたまわれた。「ええよ」とかみさんが、えせ関西弁で答えて、
「味噌作りキッド?」みたいなんで始めた。それから、口こみ広がっていき
今年100匹を超えた、という源流の一滴にあたる人。

次にきたのはかっぽれ仲間のおじさん。古希を迎えられたので、「い」をいれたほうが
いいような二人。足元をじっと見ていたら「どげ~したと」と九州弁できかれたので
「足がついとるか・・・と確認しとったと」と答えた、ら、笑っておられた。

ちょうどその時、区の人?がアンケート調査にこられた。近くに3年後に大学が誘致されることに
なった。それで「あなたのお店はそれにどう対応しますか?」というようなアンケート。
「別に・・・」というのが正直なところ。ガロの学生街の喫茶店よろしく、ボブデュランをかける
つもりはないし、学生相手の「大盛自由」みたいな「オモネリ」は死んでもいややし、「このままいく」
というようなことを30分くらい話した。でも最近は界隈にコンビニができたり、古い長屋が壊されて
おひとりさま用の賃貸物件や、建売住宅が増えてきたように思う。この辺の魅力が一気呵成に失われつつある。

ちょうどそんなタイミングで酔香のすがちゃんがいぶりがっこを納品しにやってきた。
日本一うまい「いぶりがっこ」は、彼らの親戚筋の人がていねいに畑仕事から仕上げてくれる。
市販されている「薬品つけもの」とは似て非なるものだ。どの世界も「大量生産のニセモノ」と「こつこつ手作りのホンモノ」
に二分される。
すがちゃんも京都の立命館で、ぼくの3つ下。そのころの京都は「街中が、喫茶店」のような街だった。
荒神口にジャズの名店「シャンクレール」があり、御所のまわりにはあまたのジャズ喫茶があって、
大きなJBLのスピーカーが鎮座していた。

そんな話をしていたら、古希のおじいちゃまが、「ぼくのJBLあげよか」とのたまった。
断捨離のひとつだという。「年をとってくると、あげな大きなもん動かすのも大変」だという。
近々とりにいくこととあいなった。
やっぱ「学生街の喫茶店」になるのだろうか?スカイツリーの時も、「できる前に引っ越したい」
と思っていた。東京オリンピック、大学・・・なんだか騒々しくなりそうだ。どこか北国の古民家
でも見つけて、「炬燵カフェ」でもやりたい気分。これから年とったらどうして暮らそう、というのも
問題だけど、この都市、東京の未来もいろいろ心配なこと多し。

今日も粒々皆辛苦の大豆旅

昨日と今日は、お休みだけど、お味噌つくりの佳境を迎えている。
昨年までは、北海道産の大豆と、埼玉産の「借金なし」という大豆のふたつから選んでもらっていた。
後者の生産者が高齢になってやめたので、今年は「暮らしの実験室」の青大豆をいれて、選んで
もらっている。今年のもうひとつの目玉は「しこみ水」には、「うめ星」をしのばせている。昨年までとの違いが楽しみでもある。
天真庵の「うめ星」の部屋に、植物やごはんの実験の写真がいっぱいのせてある。

大豆を寸胴に入れ、二晩寝かす。昨日が5人、今日が6人なので、11個の寸胴(足りないときは蕎麦の寸胴まで借りだされる)
今日は10時から始まるので、蕎麦打ちはないけど、5時にお店にいき、ストーブの上に寸胴をのせる。
石油ストーブの石油を満タンにし、寸胴を上におくと、蕎麦打ちがないので、珈琲を飲みながら、本を読む。
今日は読みかけの「墨子」を読んでいる。今年の論語の会(順受の会)は荘子。老子・荘子・墨子を勉強すると、
人間が自由に生きる、ということのヒントがいっぱいある。墨子は、ちょっとくどいのと、遊びが少ないので、
あまり人気がないし、古典の教科書にものっていない。でもこれを読むと、おもろすぎて、珈琲もさめること多し。

麹は乾燥したものと、生を選んでもらう。種類もそれぞれ数種。生麹は冷凍保存を強いられるので、2月は
お店の冷蔵庫の冷凍室がそれで満帆になるので、魚の干物などを極力やらないようにする。したがって
毎朝のように食べる魚が、納豆や目玉焼きにかわることがある。

お塩は各自でもってきてもらう。麹と混ぜ合わせる時も、各自の手をつかってもらう。
大豆も旅をし、麹も旅をし、塩も塩の道の旅をし、人生の旅の途中の人の手によって、それらを混ぜあわせる
瞬間から、その人とその人の家の「歴」が始まる。「手作り」というものは、そこが醍醐味であり、すごく
大切な「食育」の根本があるように思う。大事な日本の習慣が失われつつある。一度失われると、大事であった
ということさへも跡形もなく消える。

そろそろ最初の女子がくるので、お店にいくとしよう。
今日で2月も真ん中。今年はのべ103人が味噌をつくりにくる。やっと今日で40人ちょっとが作りおえる計算。
人間は108の煩悩があるという。来年はそのあたりに近づくか超えるだろう。煩悩即菩提、という言葉もある。いろいろな煩悩を、混ぜ合わせ、菌
の力を借りて、美味い味噌に仕上げる。粒々皆辛苦の人生の旅が、パーっと明るくなる気がする。これも墨子効果か。天恩感謝。

自己破産が増えている らしい

今朝の新聞にそのようなことが書かれてあった。何日か前にも、奨学金の返済で
自己破産、保証人になった親も道ずれ、みたいな記事があった。大学の学費がそれだけ高くて、
「大学はでたけれど」、正社員の道も険しく・・・というのが実情なのだろう。
どちらにしても、今のような戦国時代みたいな時は、「自分に投資」するのが一番安全で、失敗
しても納得がいくので、「中卒でボクシングをやる」とか「寿司屋の修行をする」とか「百姓になる」
、「なまことり、たこ釣りの名人を目指す」なんていう道もありだと思う。

先日、着信に「岩本」というのがあった。ヨネクラボクシングジムで日本チャンピオン(11回?防衛 今は大山の「いわもと」という
寿司屋のおやじ)
からだ。毎年かみさんの誕生日に電話をくれる。彼は柴田国明さんにあこがれ、中学を卒業と同時にヨネクラジムに入門。
古傷から出血すること毎試合のごとく、で、「血止めの松本」という名トレーナーに見守られ、四角いジャングルで活躍した。
ボクサーは現役時間が少なく引退後のほうが長いので、リングから寿司屋の厨房に居場所を移し、「日本一元気な寿司屋」
をやっている。同じ年で、よくヨネクラジムではいっしょにボクシングをした仲でもある。
寿命が延びて、引退後の暮らしをどうしようか?なんて思い悩んでいる人は、大山の「いわもと」のカウンターで
鮨をつまんでみると、いいかもなんばん。

今朝の新聞の一面に「シャエアハウス投資 不正多発」という記事も。
楽して金かせぐこと、身につかないことはない。シャアハウスは、「家族」のようなふらあいが欲しい
人たちが共同で工夫しながら生き暮らす空間。「金だけ、今だけ、自分だけ」というやからかな金集めて、
儲け話をでっちあげるような輩のつくる物件ではないのではなかろうか?

その新聞を配達してくれるところに、少しはやめのチョコレートを届けた。味噌作りの時は、
つくった日付を忘れないように、その日の新聞でつつむ。人数が多い日は新聞屋さんに
余った新聞をいただきにいく。そのお礼に新聞少年たちにチョコ、というのがならわしになった。
山田太郎ではないけど、新聞を配達して学校にいく、ボクシング(ヨネクラは、新聞少年には入会金を免除していた)
をする、というのが普通だった。今の新聞少年はほとんどが、ベトナムや中国人である。
汗を流して金をかせぐ、学費という自分投資をする・・・そんな基本的なところが、消えてしまってませんかね。

今日も夕方は「味噌つくり」 近くのシャアハウスの女の子たちがやってくる。代表で味噌をつくり、
共同の台所の床下にねかせ、できあがったらみんなでシャアして、みそ汁や野菜いためや、もろきゅうにして
「共食」をする。それがシエアハウスの基本的な姿。
「おいしいものを食べる」・・・バブルの時代。今は「おいしく食べる」
「おいしく食べる」こつは「気のおけない友達といっしょに食べる」ことだと思う。感謝。

月曜の朝は 卵かけごはん

今日は旗日の月曜日。旗日であっても、月曜の朝は卵かけごはん。
今日も味噌つくりがあるので5時にお店にいって、ストーブに大豆を一日つけた寸胴を
のせる。低温で「ゆっくり」時間をかけた手間が、大豆をおいしくするのです。
それから蕎麦を打ち、いつものように家にもどり、これを書いている。

昨日は「巫女っちゃけん」のみこちゃんが味噌作りに参加。彼女の両親は、天真庵
のイベントで知り合い、結婚し、みこちゃんが生まれた。
その後に味噌をつくったのは5歳になる「たつき」君。二歳から手伝っているので三年目の味噌つくり。
人生の半分以上を味噌つくりに費やしている。味噌人生。ここの両親も天真庵で出会った。

昨日味噌つくりが終わった後、湯豆腐でぬる燗を飲んだ。「惣花」という灘の酒。ぬるめで燗にすると美味い。
鍋には「ギマサ」も入れてみた。昨年の夏に「能登そばUFO」という新作そばにいれた海藻。

ホンダワラの若い芽で、能登半島では「義馬草」(ギバサ)と呼ぶ。壇ノ浦で平家を破った義経は京に
凱旋し、不思議な縁で、平家の重鎮、平時忠の娘の「わらび姫」を妻にした。
そして誰もが知るように、その後兄頼朝の嫉妬により、奥州にのがれた、とされる。
その時、平時忠とわらび姫は能登半島に流された。落人になった義経は、最後の別れをと、能登に
立ち寄った伝説が能登にはあまたある。「義経の舟隠し」という夕陽が美しい場所があったりする。

ギバサ、とはその時、義経の馬に海藻のホンダワラを与えた、という「義経の馬の草」として、今も
能登では呼んでいるのだ。

厳しい能登の冬を連想させるようなギバサをつまみに、ぬる燗を飲む。義経とわらび姫の悲しい話が
五臓六腑に涙のように染みるのである。

いけない。卵かけごはんの時間だ。今日は「満つまめの会」もある。

巫女さんがやってくる

毎日毎日、いろいろな人が味噌をつくりにやってくる。
親子でやる人。家族できて、お父さんが代表でつくる人。子供
が幼稚園の時間に、ママ友とやってくる人。引っ越して岐阜に住んで
いるけど、家族が交通費をカンパして作りにくる人・・・
その家の朝ごはんの真ん中にある味噌汁の味噌は、それぞれの家族の味があっておもしろい。
「食育」と改めていう必要もないくらい、命を育む食だ。

昨日は南島原までいっしょに遊びにいったYさんが作りにきた。小学校3年生の娘さんが
初挑戦。4年前に初めてつくりにきた時は大雪だった。娘さんは幼稚園生だった。
確実に元気に育っている。

今日はみこちゃんが味噌作りにやってくる。お父さんは結婚する前年から味噌をつくっていた。
まるで、その味噌ができあがるころに、結婚し、みこちゃんが生まれた。今年5歳になる。

今「巫女っちゃけん」という映画が放映されている。わたくしの田舎の宮地嶽神社がロケに
使われている。監督と原作は、うちの常連さんの同級生とお兄さん。
2月は味噌つくりにおわれていけないけど、3月にはいきたい。

3月24日には、宗像ユリックスで、「空海」をテーマにしたイベントがある。
二胡の奏者の「さとちき」(今は漢字・・里地・きはわすれた!)がでる。先月、ふらっとサトチキが遊びにきた。
2007年の大晦日に天真庵で「カウントダウンライブ」をやってくれた。まだ20代だったけど、
今は台湾と日本を往復しながら、頭角を現してきた。

♪君に胸きゅんきゅん

YMOの曲?確か30年前あたりにCMに使われた。

昨日の夕方カウンターに、男三人がとまって、酒を飲んでいた。
3月2日に「女声で味わう江戸の艶物語」という天真庵初の「春画ライブ?」のイベントにくる3人。
先日の阿久悠さんのピンクレディーや山本リンダさんの話で盛り上がった。

こないだYMOのメンバーのひとりがカウンターで珈琲を飲んでいかれた。その話に、一番若い「おっさ」(30歳)
という今けっこう売れっ子のファッションデザイナー?が「ぼくYMOの歌をカラオケでいつもうたってます」
といって、♪きーみに胸キュンキュンと口ずさんだ。おじさんチームがびっくり。「なんでしっとんや」
との質問に「生まれてなかったけど、ユーチューブで見つけて・・ボリボリ」。
そんな時代である。中島みゆきの時代ではないが、くるくる時代がまわる。頭もくるくるまわる。

昼間は、生井厳さんが「絵」を三枚もってそばを手繰りにこられた。今年になって彼の絵が3枚売れた。
彼も「ギャラリー」の南條先生の部屋の写真で、尺八をふいている人だ。
ぼくが京都で毎日珈琲を入れているころ、大原の里で自給自足をしながら、とある著名な日本画家に師事し、
絵描きの土台をつくっていたひと。脳梗塞やガンを克服しながら、今も積極的に絵を描いておられる。
「道」というのは、教えたり習ったりするものではなく、その人が「どう生きたか」だ。
そんなことを自然に悟らせてもらえる人だ。尺八の写真のころ、芸大の学生たちに、ふたりで「ヨカチン」を
披露したことも懐かしい。今の芸大生はやらないんだな~。

それこそユーチューブで「よかちん」を検索すると、きっとでてくる・・
バカになる、ということのない時代。バカになるという気分転換をするくらい、まじめに
あることを極めようなんてしていない時代。政治家やリーダーたちが、あまりにもバカすぎて、しらけきった時代・・
今日あたり「時代」でもうたってみようかしらん。♪そんな時代もああ~たねと・・・

30年前は誰に胸きゅんきゅんしてたのかな~
胸に手をあて 考えてみるのも、いい!

阿久悠さん

昨日は阿久悠さん追悼の番組があったので、ひさしぶり(今年はじめて)にテレビをつけた。
彼の作品では、「五番街のマリー」が好きで、40代のころ毎年のようにニューヨークに
いってるころ、界隈を歩き、口ずさんでいた。
♪時代おくれの 男になりたい が彼がスランプのころ書いた、というのにびっくりした。

昨年緞帳を下げた「ヨネクラボクシングジム」。ここも40代のころ週二回くらい通って
ボクシングをした。柴田国明、ガッツ石松さんら5人の世界チャンプをつくった名門ジム。
昨日の「ギャラリー」の写真に、岩本選手も映っている。元日本チャンプで、その当時の
連続防衛記録保持者。やはりヨネクラジムで、南條さんの寒山拾得の世界が好きやった。
大山で「いわもと」という寿司屋を経営している。

ヨネクラジムにいくと、歴代のチャンピオンや現役選手の名前が黒い漆の板に書いて
かけてあった。横には「後援会」の人たちの名前がかけてあった。
「株アーム 社長 野村栄一」というのもすみのほうにかけてあった。
そこには、経営者や芸術家、俳優などボクシング好きなお歴々の名前があまたあり、その中
に「阿久悠」という名前もあった。野球だけではなくボクシングも好きだったのだ。

後援会に入ると、時々後楽園のチケットといっしょに、会報が入っていて、2007年の
9月号に「親友の阿久悠さんが逝った。これまでも友達をたくさん見送ってきたけど、今回はじめて
涙が流れた」というようなことがかかれていた。

体ひとつで、孤独なジャングルで戦う姿に、みんな「自分」と重ねていた時代。
歌にもボクシングにも、「こころ」が通っていた。

どんな台所がいい?

昨日は休みだけど、味噌作りをやった。
途中錦糸町の古本屋でおもしろい本をみつけ、豆源郷に豆腐を買いににいき、ブラブラ往復
一時間の散歩をした。ここの豆腐は、能登半島の古式でつくる塩のにがりを使ってつくる。
ぼくは勝手に「縄文豆腐」と呼んでいるけど、京都の豆腐よりもうまい。主人はときどき蕎麦を
手繰りにこられる。

その本には、30代、40代、50代、老後・・・・の「台所」のかたち、が検証されていておもしろかった。
天真庵のHP、ギャラリーのところに南條正一、とかいう部屋がある。
平成8年、つまり1997年に天真庵が池袋にて結ばれた。小生41歳の時やねん。
最初の場所は、敷地100坪ちょっとのとこの3階建ての家。上場会社の社長宅でバブル期に
根抵当などがついて、微妙な物件を月50万円で借り、二階をギャラリーと会社にし、3階
部分が台所と、4部屋あって、炬燵にカセットコンロをおいて、おでんか何かを横の台所で
つくっている?そんな懐かしい写真がある。まだ久保さんと出会っていないので、器は、
黄瀬戸や織部などがない。

途中から、コンクリート打ちっぱなしのところがギャラリーになっている。そのお化け屋敷みたいなところ
が、マンションになり、隣の家を同じ条件で借りた。一階が駐車場。二階が会社、三階が自宅で、
4階に台所とギャラリースペース。このころは、久保さんの個展をやったりして、器に、織部や黄瀬戸や志野
が豊富になってきた。そばも打つようになってきたので、そばちょこも集まってきた。
平成18年の写真には、ながやくん(早川のながやの主人)が、花見の料理をつくってくれた写真がある。
彼の登場で、器に漆なども加わり、お客さんの舌も目もかなりきたえらえた。

このふたつの家で活躍しているのが、木の囲炉裏。鉄瓶で湯を沸かしたり、鍋をおいたり、餅やサンマを
焼いたり、台所の中心になって、たびだび写真に登場する。
この囲炉裏は、池袋にカメラ(当時はこっていた)を買いにいく途中の骨董屋でみつけ(ちょうど東北の古民家から引き取って
きたタイミングにでくわし)、買ったものだ。今でも天真庵の二階に鎮座していて、ひさごの五徳の上に、鉄瓶がのっている。

台所に「火」が消えて久しい。でも火のあるところに人は集まる。今年は格別に寒い。寒いときは、あたたかい
火が恋しいもんだ。

今日は「満つまめの会」 便利な世の中になり、台所から火が消え、高断熱、高気密の部屋で過ごす
ことが多くなった。花粉症やいろんなアレルギーは、便利さや人工的な快適さとうらはらに、増えているように思う。
「あるがまま」に生きる。四季おりおりの季節を五感を開放して楽しむ。そんなことを「台所」を含め、家に
求める時代がきているように思う。少し時代を昭和あたりにスイッチすると、答えがいっぱいある。

今朝も5時にお店にいき、ストーブに寸胴をのせ、大豆を煮ている。
豆源郷の豆腐がうまい、もうひとつの理由は、同じように低温で時間をかけて大豆を煮ているところが秘訣。
これも「古式」であり、昔の豆腐屋さんはみなそうやった。桃源郷も、遠い昔の神話ではない。すこし
「不便な生活を楽しむ」にスイッチを切り替えると、目の前に現れる?かもなんばん。