月曜の朝は卵かけごはん

今月のはじめに、105人目の味噌作りが終わり、ほっとしている。
大豆の産地、麹の種類、各ひとりひとりがもっている菌、収納する器(タッパー・甕・ホーロー・樽・・)
、保管する場所によって、味がかわってくる。105種類の「手前味噌」ができあがる、ということだ。

今年はじめて能登にいって、納屋で一年寝かせた味噌をあけて、近所のかたにお裾分けをした。
おかえしに、ざざえ、なまこ、ハチメ、こんかずけ(さばのぬかずけ)、能登名物味噌饅頭、大根、にんじん、ブロッコリー
など、やまんごと(たくさん、という九州弁)がきて、10日間、一度も買い物にいかなかった。
大豆は地元能登の珠洲の大豆、麹は茨木。来年は、能登町の麹やさんのを使うので、身土不二により近くなる。

昨日は蕎麦打ちふたり。ひとりは、3回目くらいの新人さん。夜奥様さからメールがきて、
「3人で7人分食べました」とのこと。もうひとりは、5年選手のG。5年前、二回目の蕎麦打ち
のそばを、フィアンセの家に持参した。猛反対されていた先方の家族も、キシメンからそうめんまで
の不ぞろいのそばだけど、それをわざわざもってくる人間性に惚れて?めでたく結婚し、昨日は
4歳になる嫡女のMちゃんといっしょに蕎麦を打った。

Gは、界隈の長屋の保存をライフワークにしていて、カフェにしたり、シエアハウスにしたり、その道では
有名人になってきた。ぼくのお茶のお弟子さまでもあり、原田先生のもとで花の修行をした同志でもある。
「なんとか、この長屋の街で天真庵のそば打ちを広めていきたい」と鼻息が荒い。
こちらは、そろそろ、「びんぼう」という名の「のし棒」を薪ストーブにくべて、酒でも飲もうか
なんていう境地でいるけど、このところ蕎麦打ちにくる人が増えている。
能登まで追いかけてこられても困るので、あちらには蕎麦道具を運んでいない。
ゆっくり、お茶とおちゃけの晴耕雨読の生活をしたいと思っている。

今日の「卵かけごはん」の味噌汁の味噌は、能登で寝かせた味噌。

顎の話 ぱあと2

顎博士の直してくれたドイツ製の柱時計が、快調に動いている。
「この音を大切にして、まっつぐ(左右にずれるとチクタクの音もずれるらしい)を保ってね」
といわれたように、そこを意識すると、これまで以上に静かだけど、躍動感のあるチクタクが続いている。
しかも、3時には3回のボンボン、5時には5回のボンボンが鳴る。ここで14年近く動いて
いるけど、3時に2回、5時にはサービスで12回、とか不規則なボンボンやった。

魚のアゴは飛び魚のこと。九州では、焼きアゴにして、うどんやそばなどの出汁に使う。
丸干しにして使うのがならわし。能登のアゴは、開いて炭火であぶって干す。
旬は夏で、能登の寿司屋では、アゴのにぎりを出すところが多い。そらをビュンビュン飛ぶ
ような躍動感ゆたかな身は、アスリートのそれのように引き締まっていて美味い。

東京に戻る日の朝、縄文真脇遺跡にいき、その近くの麹やさんを訪ねた。
これまで茨木のおばあちゃんに「生麹」を頼み、味噌作りをしていたけど、寄る年波におされ、
今年でおしまいになった。「きっと醸し文化の聖地」みたいな能登のあるはずだ、とネットで探していたら、
近くにあった。社長さんと名刺を交換した瞬間に「生まれる前から知り合いだった」という感覚になって、
いろんな話をして、麹を実験的に買わせてもろうて、昨日それで味噌を仕込んだ。
また来年の「菌活の会」に、新人の役者麹くんが登場する。

あまりにうれしくなって、「つくしさん」に鮨を食べにいく。12時過ぎだったけど・・木曜平日・・
このコロナ時代に、行列ができている。
挨拶だけだと思い「またくるわ」と声をかけたら、「今年はじめてなんで、ぜひ食べていって・・寂しいこといわんで」と引き止められ、
しばらく待って、鮨を食べた。久保さんの焼き締めの長皿に、12貫の地魚の鮨がのって、岩ノリのお吸い物、
朝どれ雑魚の小鉢がついて、750円。小皿も久保さんの焼き締め。8貫の握りは、550円(もちろん小鉢・吸い物付き)!
いっしょに並んだおばあちゃんが「このお店すごいんですね」と、聞かれたので、手のひらを頭の上でパーにして「大将が算数できんのです」
といったら、すこし間をおいて笑った。回転すしより安く、銀座の高級店に負けない器に、能登前の鮨がのってくる。
間違いなく、能登一の寿司屋になった。

これから5月の連休くらいまで、富山湾のイワシが美味い。
日本で最初につくられた辞書「言海」にも、「氷見のいわし」のことが記載されているくらい。
お金が動くから、イワシより「氷見のブリ」のほうが、有名になっているけど、同じ海の能登側
を泳ぐイワシは、筆舌を超えたうまさなのだ。昨日はまたグラリと大地が揺れた。10年前と
変わりないのは、原発がまだ動いていることだ。世界一魚が美味しい国のまわりの海を、もっと
大切にしたい、と、みんなでまじめに考えたいものだ。感謝。

顎の話

ネットで「顎の話」と検索すると、草市 潤さんの本が紹介される。
佐賀に在中の作家で、99歳までで生きて、おもしろいエッセーと
を残した。
私ごとだけど、昨日宮崎の美々津の叔母が99歳で、天国に引っ越しをした。
叔父と養蜂と製麺所を経営し、幼いころ幼稚園を中退して、しばらくお世話になった。
そこで体験した養蜂や、叔母さんのいりこ出汁のそばが、ぼくの原点になっているように思う。
叔母さん、ありがとう。

話はアゴにもどすと、昨日は朝から仕込みに追われていた。珠洲で「あご」を買ってきて、
そばつゆをつくる準備をしていた。九州でもトビウオを使って「あご出汁」をつくる。
「顎が落ちるくらい美味い」から、九州でも能登でも「アゴ」というようになった。

洒落ではないけど、その時、お店に常連さんで、世界的な「顎の研究家?」のお医者さんが
「っちわ」といって入ってこられた。j医大を今月で退職される、という挨拶。
この奇人先生、巣鴨地蔵通りの縁日(4がつく日)には、にわか骨董屋として、縁日にお店を出していた。
そんな縁で、ときどき「骨董屋みたいで落ち着く」といわれ、天真庵にきて、蕎麦を手繰り、「これ売ってくれる」
とかいって、カウンターの上にぶら下げてある久保さんの珈琲カップなどを持ち帰ったりする。

昨日は、柱時計がとまってあるのを見て、目を輝かせた。世界的な建築家・故・白井晟一先生が
死ぬまで愛用した時計。昨年の暮れあたりに止まった。世界中がとまっているので「いいや」
と思い、一番幸せな時間(3時 おやつ時間)にして、そのままほっといたものだ。
骨董屋というのは、いろいろ古いものを修理して命を蘇さす仕事でもある。
「人の顎を治す」のと「時計の修理」をライフワークにしているその不思議な奇人先生は
「これ、一度修理したいと思っていたんよ・・・いい?」というので、「どうぞ」と
いうと、ポケットからマイナスのドライバーをとりだし、時計の文字盤をはずし、
「今貴重なものになったけど、ビニール袋ちょうだい」といって、オリンピック(近くのスーパー)の袋に入れてお店を
でていかれた。

そして、幸せ時間になったころ電話があり「なおったから、もっていっていい」といい、
生き返った時計をもってきて、またマイナスドライバーでとりつけた。
焙煎したての珈琲を飲みながら談論を風発。30分ほど過ぎたら、「30分は動きました」
「人を治すときは、文句がでるけど、時計は文句をいわないところがいい」と笑い、
十間橋通りをゆっくり闊歩しながら帰っていかれた。なんとも、不思議な骨董屋、もといお医者さんだ。

草市翁の「顎の話」は、

いつものように、安全カミソリでひげを剃っていたら、血がでたので、お店に電話をした。
するとお店の人が「ひょっとして、ひげを剃る時、入れ歯をはずしとなんね?」と言われ、よくよく考えたら、
そのとおりで、入れ歯を洗面所に置いたまま、顎をいろいろ動かし、剃り残しのないように剃って
いたら血がでた・・・・そんな年寄りの日常を、九州弁を交えながら、おもしろおかしく綴ったエッセーだ。

「アゴアシ付き」の講演などすることは、なくなったけど、せめて生きている間は、
顎を使っておいしく食べ、入れ歯ではないけど、髭をそり、自分の足を使って元気に徘徊したいものです。感謝。

今日明日はいつものように12時から16時まで営業。
その後は「蕎麦打ち教室」。

梅茶翁3周年

今週の20日に、梅茶翁の三周年のイベントがある。
今朝は三輪福さんから、梅林の梅が開花した写真がおくられてきた。
「この花さくや姫」よろしく、華憐な花たちが春を告げる。
ペチカをつくる手伝いをしてくれた人や、この3年の間にいろいろ
縁を紡いでくれた面々が集まる。
なんとか都合をつけて、その日に伺いたく思ったけど、「そばもん」
たちのスケジュールがおしていて、あきらめた。

今朝は、波が高く、釣りはあきらめて、近くの里山を散策。
熊はいないけど、イノシシと遭遇する可能性が高いので、マキリ包丁を
もって歩く。ヤブツバキが旬を迎えていて、蕾の枝を一枝ちょうだいする。
玄関に置いてある久保さんの信楽の花器に投げ入れると、家いっぱいに生気が満ちる。
梅茶翁の三周年記念にも、久保さんの信楽の花器をひとつ贈呈した。
きっと今朝は、瑞穂の里山の椿が投げ入れられていると思う。

帰りに野良仕事にでかけるおばあちゃんと会った。
「おはようございます」と挨拶すると、「はーい」と笑顔のお返事。
ニュアンスが伝わりにくいと思うけど、こちらの人の挨拶は、
「はーい」と返すことが多い。真民さん風にいうと、「はい、は、一番きれいな日本語」
だ。

そのおばあちゃんは、金婚式を過ぎたらしいが、結婚するまで、じいちゃんと
あったことがなかった(そのころは、普通らしい)。
じいちゃんは、遠洋漁業の船乗りで、定年までの間、ほとんど海の上の単身赴任。
留守の間に、3人の子供を育てながら、畑をやったり、海藻をとったりしながら
して家をまもってきた、という苦労話を、「このへんの人はみなそう」
と、笑いながら話す。「いつ終わるかしれない余生をゆっくりじいちゃんと過ごしています」
とのこと。

おじいちゃんが、横浜や横須賀の港に着く、と連絡があると、三明(ここから一番近くにあった駅)までバスでいき、
それから羽咋と金沢で乗り換えて、夜汽車で港町まで子供を連れて、合いにいった話を、懐かしそうに話していた。
大正の終わりか昭和のはじめに、ここ富来から新橋まで、二日かけて上京した筆子さんのおばあちゃんも、
同じような感じで東京にでたのだと思う。
♪花嫁は夜汽車にのって・・・だ。

金沢から東京まで2時間ちょっとでいける。能登空港をつかえば、ここから東京もあっという間だ。
便利な時代にはなったけど、不便だったころの「ロマン」みたいなものは、薄れてきたのじゃないかしらん。
なんでも「お金」で買おうとする習慣から、少し事の外に身をおいてみると、「ゆたかさ」の価値がかわってくる。
明日は東京へ。感謝。

陶九郎のいる茶会

織田流煎茶道のお稽古に表参道ヒルズ裏の茶室へ、10年くらいまじめに通った。
池袋にいたころは、埼京線で渋谷で降りて歩いていった。途中に今は閉店してしまったけど、
いいオヤジがやってる古本屋があった。そこには「銀花」という雑誌がときどき積んであった。
ぼくが、あるだけ、根こそぎ買っていく姿を見て、「そんなにいっぱい買っていくと、だぶっているのも
あるんじゃない?」と主人は心配した。実際、「あ、これあるわ」というのもたまにあって、その時は、
文庫くんや、おかまのMくん、とか、まわりの銀花フアンにお裾分け?したりした。
押上に移ってからは、半蔵門線で表参道で降りて、まずその古本屋にいって、リョックに銀花や気に入った
本をいっぱいしょって、お茶のお稽古、という日が続き、銀花も、創刊から最終まで、ほぼそろった。

能登の家は、本棚はなく、押し入れが本置き場だ。一階の押し入れには「茶と花の本」、台所付近の棚には「料理本」、
茶箪笥の上には、「能登」とか雑誌類、そして二階の寝室の押し入れに「銀花」が全巻収まっている。
能登の冬は寒い。一階の和室の囲炉裏の炭火に鉄瓶をのせ、その中に錫のチロリを入れて、ぬる燗
で体の外と内の暖をとった後、寝るにはまだはやい、という時、布団にもぐって、「銀花」を読み直す。
至福の時間。窓の障子をあけ、UFOの登場を待つが、いっこうに見えない。もっとも、目線は
銀花の記事を追っているので、先方が近づいていても知るよしもないけど・・

昨日は1985年第六十一号「陶九郎のいる茶会」を読んだ。加藤陶九郎、桃山陶の志野・黄瀬戸・織部
を、蘇らせた名匠、といっても今は鬼籍に入っておられるけど・・。
35年も前に、岐阜の建築家や料理人など若い文人たちと、陶九郎翁が茶会をする、という企画。
陶九郎さんといっしょに記念撮影をした写真が大きくのっている。その中に、作務衣をきたクマモン
の若かりしころの雄姿がひときわ光ってでている。
彼は、「金豊舘」の主人だ。招福楼で料理の修行をし、名古屋一、というくらいの名にしおう料理屋だった。
もとより金豊舘は、久保さんの器がふんだんに使われていたこともあり、IT関係の人たち
も時々、舌鼓を打ったもんだ。もっともIT業界の人たちに、器や軸や懐石料理がどれだけわかったか・・疑問だけど(笑)
残念なことだけど、35年前に「若者」だったご主人もこの一月に、旅立たれた。
ぼくが知る限り、日本一の料理人だった。

友を悼み 寝床にはこぶ 手向け酒     南九

今朝は早朝に釣ったハチメめばるの塩焼きを、久保さんの絵志野の長皿にのせた。
金豊舘の夏は、この皿に鮎が踊った。鎮魂。

能登で焙煎ができるようになる・・・

昨日は、思い立って、車庫の整理。
この界隈は潮風、とくに冬の風が強く、虫よけの網戸のサッシが
すべるのが日常茶飯。ほっとくと、塩でサッシが動かなくなる。
風が強い日の次の日がいい天気だったら、みんな窓ガラスを水で洗ったり
している。

だから、みな車はドアつきの車庫に入れて塩害から守っている。
うちも母家の上に、二階建ての車庫がある。今年の1月に、突風が
吹いて、車庫の瓦が3枚飛んだ。ちょうど瓦をかえようと思っていたので、
雪が解けた2月の終わりに、吹替工事をしてもらった。10坪くらいの小さな小屋の
瓦の葺き替えに、約50万ほどかかる。
ピンチはチャンスとばかりに、昨日は、車庫の中を一気呵成に片づけた。
「あこがれの小屋暮らし」が、秋くらいにはできそうだ!

車庫の裏に、里山から続く畑があって、栗木と柿の木があり、いちじくの木も植えた。
その畑では、春には枝豆をまき、秋に辛味大根をまく。水道はひいてないけど、雨戸井を
甕にため、その中に、隕石を入れている。その水を、如雨露で蒔くと、虫にも無視され、
イノシシも荒らさない、元気な野菜が育つから不思議だ。近所の人たちも、
今年の雪にもめげず、主人がいないのに元気なネギやタマネギを見て、「?」
な顔をしている。「隕石農法・・・」なんていうと、変な人が移住してきた、と思う(もう思っているかもなんばん)
だろうから、伏せているけど、時がきたら、教えてさしあげようか、などと思っている。
除草なし、肥料いらず、あるがままの農法。

その車庫に、「焙煎所」をつくろうと思っている。オフグリッドのまま、炭火で挑戦しようか、
などと考えている。来月あたりから、またちゃねったアイデアがあるので、ぼちぼちはじめようか?
なんて思っているところ。冷蔵庫、エアコンは使わないので、ソーラーの充電器でどうにか
なると思う。お店にする気はないので、珈琲豆は「道の駅」とか「直売所」においてもらえたらいい。
いや、それもいらない。縁ある人たちに、静かに優美に広がっていけばいいや。
東京や金沢にある知り合いのカフェや梅茶翁からは、オーダーがきそうだから、近くの郵便局から
発送すればよい。焙煎したての珈琲豆を、そこで里山や里海の景色を借景に失敬して飲む、のは
最高の贅沢だと思う。明日も「燃えるゴミ」の日なので、今日もこらから、車庫の掃除。感謝。

能登の珠洲はいいよ!海よし山よし 人もいい

昨日の能登は一日雨だった。
朝8時に出発して珠洲へ・・
開店前だけど「けんちゃんパン」で、ハムカツサンドを買い、
雨の中を車で走る。なまり色した日本海には、演歌が似合うけど、
昨日は国貞雅子のCD聴きながら、塩屋さんまでいく。
「味噌つくり」の時に、足らなくなって二回も発送してくれたおじいちゃん。
じいちゃんの昔ながらの「揚げ浜式」の塩をつかって、味噌をつくると、味が
一オクターブ以上あがる。「小豆」の味も、二オクターブくらいあがる。
もちろん、その他いろんな料理の調味料の真ん中に「塩」がある。
「巣ごもり」のおかげもあって、「違いがわかる人」も増えてきていると思う。

東京にいる時は必ず食べる「豆源郷」の豆腐も、珠洲の「にがり」を使っている。あたり前だけど、能登
の豆腐は、全体的に美味い。もっとも東京のスーパーで売っている安い豆腐では、
一丁に大豆が6粒、というレベルのものもあるらしい。

その後、ジャム屋さんに。
退職後にご夫婦いっしょに珠洲にUターンして、奥様がジャム屋、おとうさんが陶芸家
になった。10年過ぎ、おふたりともに古希を迎えたけど、元気ハツラツオロナミンは飲まないけど、だ。
季節季節になると、近くの農家さんたちが、軽トラや、ショッピングカーに、トマトや、キューイや、イチジク
などを持ち込む光景は、なんともほのぼのしていて、ほっとする。
今回は、ご主人がつくった無農薬のレモンのジャムもあったので、東京にもって帰る。
「マルガージェラートの塩ジェラートに、イチゴジャムの中のイチゴの塊をのせたら美味いよ」と、ご主人
が教えてくれた。先日遊びにこられた三輪福さんの梅茶翁から徒歩5分のところにある。
「能登ジェラトン」と命名した「隕石粉入り陶器」も、そこの塩ジェラートを食べている時に、チャネッたものだ。

帰りは、門前にある中野酒蔵へ。
「亀泉」を自宅用に調達。小さな酒蔵だけど、しっかりと「能登の酒」をつくり続けている。
店番のおばあちゃんもいつもサービス精神が旺盛で、昨日も「これもっていって」」といって、
亀泉と書かれた手ぬぐいと、アクエリアスのボトルをくれた。

それから、じんのびの湯につかり、帰ってから炭火をおこし、
隣のじいちゃんにもらったざざえをつぼ焼きにし、のと115、というアワビみたいにおいしい椎茸
なども炭火で焼き、三輪福さんがつくってくれた土産のサラダやこんかさば(糠につけたさば)
などを酒肴に、亀泉を飲む。
亀の歩みは、ウサギの歩みよりもはやい。
自然によりそういながら、長い時間をかけて、醸されてきたモノにふれあっていると、
それだけで幸せな気分になってくる。感謝。

なまこフェス

今日は、三輪福さん一家が我が家にやってくる。
いっち、こと市松は、今年20歳になるミニチュアダックスフンドは
昨年軽自動車にはねられるというアクシデントにもめげず、回復して
歩けるようになった。東京から5年ほど前に能登に移住してから、不死身
のように元気になった。

昨日は、家に能登ワインがあったので、パスタをつくった。
小倉一の寿司屋のオヤジがつくったカラスミをいただいたので、
いただきもののブロッコリー、近くでとった蕗の薹、などといっしょに
「和風カラスミパスタ」にして食べた。能登ワインとの相性もいい。

今朝は家の前の海で釣り。小さなハチメ(めばる)が5尾。
近くで、お隣のじいちゃんが、小さなタモみたいなもんで何かを取っていた。
わずか30分のあいだに、黒海鼠を5匹とったみたい。
「うちは食べないので」といって、我が家にくることになった。

なまこは、海鼠、とかく。
最初にこれを食べた人は、勇気ある人だったろう、というくらいグロテスク。
でも、内臓をとって、大根おろしにポン酢で食べたら、酒がいくらあったて
も足りない。帰りに畑から、辛味大根を一本抜いて、
今夜の宴の一品の用意をする。

今朝は、ハチメの塩焼き、ごはん、みそ汁、つけもの・・・
東京でも能登でも、一汁一菜が基本。

今年はじめての能登くらし

昨日、ひさしぶりに能登にきた。今年はじめてだ。
集落の人が、近所の神社のお札をポストにいれてくれている。
さっそく神棚のお水とお花とお酒を手向け、新しいお札をおいた。

今朝は、タコ釣りのため、タコやんをもって海にいった。
途中、イノシシがよくでる場所があるので、今回からトートバッグにマキリ包丁を
忍ばせていく。残念ながら一匹も釣れなかったけど、帰る道で、うぐいすの声が
聞こえた。緑ゆたかな能登で、花は咲き、鳥がさえずる。日本のふるさとの原風景。

月曜日に、常連さんがいつものように蕎麦を手繰りにこられた。大きな会社の社長さん。
12年くらい前、川口葉子さんの本に紹介されて以来、蕎麦を手繰りにこられる。
彼は川口さんのファンで、彼女が紹介するカフェをまわるのが、ライフスタイルなのである。
二階の「普茶料理の会」も、お仲間の社長さんや、取引先の人たちとやってくれて、
「茶会」のような宴を楽しんでいただき、京都の好日居で茶会の時も、東京から
わざわざきていただいた。来月また川口さんの新書「喫茶人かくかたりき」にて、天真庵
が紹介される。

帰り際に、挨拶状をいただいた。退職の挨拶状。エッセーも出している風流人でもあり、
毎年いただく賀状も素敵。

ときは宝をみるがごとし
おかげさまで振り返れば 宝の山ができていました

という言葉が添えられてある。さすがだ。

お返しに久保さんの黄瀬戸のぐいのみをもっていってもろうた。下手な字で箱に「晴好雨奇」と筆ペンで揮毫した。

大好きな蘇東坡(そとうば)の詩。

この処 これ道場
道窮りなし
出逢いは 人生の宝
雨も奇なり 晴れも好し

さよならだけが人生だけど、そこには宝がいっぱい、でもある。感謝。

アフロ記者

「アフロ記者」で検索すると、『アフロ記者』 (朝日文庫 稲垣えみ子著) がでてくる。
表紙の写真は彼女の「素」のアフロスタイル。
昨日まで柳橋(昔の花街)の「白日」というギャラリーで陶芸家の広瀬陽くんの陶展を
やっていた。彼らのミニマムな生活スタイルが、アンドプレミアムの3月号に大きく紹介された。
さっそく、スカイツリーの中の本屋で買って、珈琲片手に読んでみた。おもろすぎ。

雑誌の中ほどに、気になる部屋が紹介されていた。東京のフリーランサーで、えみ子。と簡単なプロフィール。
その子の部屋には、冷蔵庫もエアコンもない。もちろんテレビも掃除機もない。日当たりのいい部屋にちゃぶ台がおかれ、キッチンには、
カセットコンロ、かたわらにわらいずみ(お櫃(ひつ)をつつむ道具 ちゃんとした寿司屋には必ずあった)の自作もの、
そして、アフロの女子がベランダで、野菜を干している・・・・
さっそく、ネットで「アフロ記者」を買って読んだ。今は筆子さんや、味噌つくりにきた女子たちに
コロナの何倍かの感染力で、アフロ現象(まだアフロにした人はいない。最初にやった人には、商品を用意してます。ウソ)

今日は「国際女性デー」
朝日新聞の朝刊には、それに関連して川上映子さんの短編が紹介されていた。
さすが、芥川作家。コロナ禍の中で煩悶する女性の心理を、上手に表現されている。
アフロ記者は、50歳まで朝日新聞の社会部の記者。その後退職して今はフリーランサー。
彼女の「もうレシピ本はいらない」(マガジンハウス)は、これからの「豊かな暮らし」を創造するヒントが
いっぱい満載。やはり「一汁一菜」を旨としている。ごはん・味噌汁・漬物があれば、なんの不足もない。

これから「卵かけごはん」
ごはん・味噌汁・漬物  プラスX  今日のXは「平飼いの卵」

明日からしばらく「能登やすみ」(20日土曜日から) 今年はじめて能登にいく。
能登で暮らしはじめて3年。やはり、キッチンには、カセットコンロ。プロパンは契約していない。
お風呂の給湯器も、修理してなくて、近くの温泉にいく。そのうち、五右衛門風呂でも作ろうか、
などと思っている。トイレはコンポストトイレ。畑では、かぎりなく自然農(無農薬・無肥料・無除草)、
甕の中に雨水をため、その中に隕石を入れております。なんだかその「宇宙水」を畑にまくと、
虫も無視してくれ、イノシシやシカも避けてくれる。
今回は、タコ釣りにいく海辺の山(能登は、山と海が隣あわせ)で、タラの芽の木を見つけたので、
イノシシに遭遇してもいいように、まきり包丁を、もって山菜採りにいく予定。
能登くらしは、学(めぐみ)がいっぱい。感謝。