ジャズそば、寺方そば、よがるそば、おコンそば

最近、1950年代のジャズをよくCDで聴く。
ニューヨークのジャズの黄金時代で、レコードをCDに焼き直し、最新の技術で
限りまくあなろぐに近い音がでて、自然な風の中にいるような気分になる。
2000年前後に、毎年のようにニューヨークにいき、生のジャズを聴いたりしたけど、
似て非なるくらい昔のジャズのほうが、感動的だと思う。

昨日もそんなものを流していたら、若い常連さまが「天真庵ではじめてジャズを聴きました」とのこと。
「え~ いつもほとんどジャズやん」と答えたけど、最近の若者がふれるジャズは、ラーメン屋でもしかり、カフェや
バーでも、耳やこころにひっかからない「BGM」みたいなものなのかもなんばん。

今日は「6人」の人が「味噌つくり」にくるので、そばを茹でる寸胴まで、味噌の道具になり、朝5時から
ストーブやガスで、豆をまめまめしく煮ている。
余談だけど、寺方そばといって、お寺の精進料理としてそばが食べられた時代は、大豆の煮汁に醤油で「そばつゆ」
をつくっていたらしい。なるほど、作ってみると、精進らしきそばになる。

今年からできた「おコンそば」は、落語の「安兵衛きつね」からヒントを得て、能登の合鹿碗(ごうろくわん)で
供すかたちで始めたばってん、すごい人気になってきた。
今日くらいまで、深谷のネギ名人「まつもときよし」作のネギを刻んで供している。

本日は12時から16時まで営業。
それから「味噌つくり」「UFO焙煎塾」「そば打ち教室」二階では「ゆるゆるヨガ」
よがった後のそばは、最高に美味い。最近女性の間で「ヨガ」が大人気。
集団で覚醒するパワーが、とても重要な年になりそうだ。みんなでよがって、いい世の中をつくりましょう。

明日から21日(金曜日)まで「味噌休み」   感謝

味噌つくりが、半分おわり、来週は「味噌休み」。

昨日は「くまもん」たちのそば会で盛り上がった。
長い「酒友」で、昨年まで社長だったAくん、ぼくが理事長をやっていたITの業界団体の
顧問弁護士だったGくん・・・それと若い「くまもん」ふたりが、おでんでそば前を楽しみ、サンゲタンをしめ前、
おコンそばでもしめず、酒を飲み、「ほぼぶらじる」で〆た。最近の「おまかせそば会」には、気がむけば、「サンゲタン」をつくる。
若いふたりは、押上界隈に住み、ふたりとも
熊本に本社がある会社の「東京支社長」という名刺。ひとりは、ぼくの高校の後輩だった。
ぼくらの時代は、年がひとつ違うと「王様と奴隷」というのが、九州人の不文律な掟だった。今は昔で、みんな旧知の友達みたいな感じで談論風発していた。

今日明日が「味噌つくり」のピーク。5とか6人くらい作りにこられる。ちょうど、折り返しになる。
来週の月曜日から金曜日まで、「味噌休み」。鄙びた湯治場にいって、鞭うった老体を休めてくる。
昨年は、その湯治場で、長野の川上村の農家さんと出会った。夏に畑に伺い「農」のイメージが一新した。

人はおそくもはやくもなく、大切な人と出会うようになっている。感謝。

今日明日は12時から16時まで営業。それから「味噌つくり教室」「UFO焙煎塾」「そば打ち教室」

くまもんたちのそば会

先日のブログに、大衆酒場の達人ことをのせ、大塚「江戸一」のことを書いた。
その日の夜、江戸一でよく飲んだ友達から電話があって、
「金曜日に、くまもと県人バ、四人で『おまかせのそば会』バ、やりたいんですけど、ヨカデスカ?」
と電話があった。最近、ときどき、そんなメニューにもなく、営業時間を超えたリクエストがあって、
「女子会みたいなそば会」とか「九州の引野中同窓そば会」とか「打ち上げのそば会」などを、やることがある。

電話があった「くまもん」は、「ひごもんず」(今は、その名前を引き継いだ友達が、西荻でラーメン屋・成蹊大学前で中華屋をやっている)という名前の熊本県人会の会長をしていたころ知り合った。ちょうど、ぼくが小伝馬町のIT企業の「やとわれ社長」だったころ、飛び込み営業で、くまもん(当時は保険の営業やった)がやってきた。流暢な「くまもと弁」をしゃべるのを聞いて、「なかなかお国訛がきえませんね」というと、「え、ぼくは標準語のつもりばってん、ソゲンなまっとりますか?」という。「ほかにも会社をふたつやっていて、保険はいっぱいかけているので・・・」
といって、丁寧に断って、エレベータまでおくって、「では失礼つかまつる」と別れた・・・つもりだった。
二秒後に、閉じたはずのドアがあき、「今日、飲みバ、イカンデスカ?」と言われた。絶妙なフェイント?というか不意に懐に
ボディーアッパーを食らったような感じだった。その流れにのって人形町のおでんやで飲んだのをきっかけに、長いつきあいになった。

出会う人間というのは、あらかじめ用意されている、のを感じた縁のひとつ。

その後、彼は独立して「訪問看護」の会社を立ち上げ、昨年その会社を譲渡して、悠悠自適の老後をスタートさせたらしい。
「これからは、毎日が暇ですけん、酒バ飲みによらせてください」
半世紀になる東京暮らしなのに、まったく彼の標準語は退化していない。「ひごもっこす」そのものだ。感謝。

大衆酒場の達人

そんな本を、古本屋で見つけて、パラパラと立ち読みしていた。2016年の3月に発行、とある。
大塚の「江戸一」が、マンガで紹介され、若女将(といっても、主人はぼくと同級生でときどき、大塚からチャリンコにのってそばを
手繰りにくる)がかわいらしく描かれていたり、池袋の「千登利」の名物「肉豆腐」が写真で紹介されていた。千登利の女将さんは、
すでに八十路を歩いておられるけど、矍鑠としてお店で若い人たちとお店を切り盛りしておられる。やはりときどき、そばを手繰りにこられる。

ぱらぱら、を続けていたら、作家の「西村賢太」さんの特集を見つけたので、この本を買って帰った。
「苦役列車」で芥川賞をとった。「今の時代に、こんな私小説を書けるような生活をしている人がいるんだ」
とびっくりした。
この雑誌の中では、彼が長く住んでいた鶯谷の「信濃路」という大衆酒場で、ホッピーグラスを傾け、たばこを燻らせながら、
談論風発している写真がのっていた。でも彼は、その後「能登路」をなんども往復し、尊敬する藤澤清造の墓にお詣りし、
自分の墓もその隣につくった。そして、同じように2022年に突然召された。

ネットで「藤澤清造」で検索すると、こんな記事があった。

私小説作家の西村賢太は藤澤に傾倒し、『歿後弟子』を称していた。清造の月命日(毎月29日)には墓参を欠かさず、2001年からは自ら西光寺に申し入れて「清造忌」を復活させた他、2002年には清造の墓の隣に自身の生前墓を建てている[3]。西村自身が編集する形で、朝日書林から全5巻別巻2の『藤澤清造全集』を2001年から刊行する予定としていた。

2011年2月、西村が芥川賞を受賞し、藤澤もろとも脚光を浴びた機会をとらえ、「一杯やった勢いで文庫の部長に直談判し」、代表作「根津権現裏」の文庫復刊を新潮社にもちかけた結果、同年7月に復刊が実現。解説から年譜、語注まで西村が一手に引き受けた[4]。2012年には、西村を編者とした『藤澤清造短篇集』が出版されている。しかし、上述の『藤澤清造全集』は内容見本を出しただけにとどまり、西村は2022年2月に急逝した。

2024年(令和6年)1月1日に発生した能登半島地震では、西光寺も被災し、並んでいた藤澤と西村の墓石に地蔵堂が覆いかぶさるように倒壊して横倒しになった[5]が、ファンの支援や関係者の尽力によって、同年9月3日に二人の墓の修復が完了した[6]。

月曜の朝は玉子かけごはん!

慣れてきた、とはいえ、やっぱり2月の朝は寒い。
北海道や東北や北陸は、相変わらず警報クラスの大雪で、雪下ろしの事故
も多いみたいだ。くれぐれも、気をつけてくだされ!

土曜日日曜日は、「家族そろって味噌つくり」の人が多く、夕方はにぎやかになる。
カウンターに座って珈琲を飲んでいるお客さんも、16時になると、黙って席をたたれる。
味噌つくりに使う道具が、何回転かするので、カウンターが「道具おきば」になることを知っておられるのだ。
これもひとつの「カウンター学」

一組目は、三家族で毎年味噌つくりにこられる。同じ大豆、麹、塩を使っていても、それぞれの「家の味」
になる妙味を味わって5年くらい。「醸す」というのは、人間の見えないところで、いろいろ変化するようでおもしろい。
教育も、会社もなんだか「画一的なモノ」を目指すような世の中をあざ笑っているようで、おもしろい。やはり自然は人間
よりも優秀である。

その三家族のひとつのお父さんは、昨年の味噌つくりの時に「UFO」を買っていかれて、自分で焙煎を始めた。
「やっぱり、家で飲む珈琲と天真庵の珈琲は違います。毎日天真庵の『ほぼぶらじる』のような珈琲を飲みたい」
とのこと。ちょうど、筆子さんが、できあがった味噌のケースを新聞紙でくるんでいた。昔、酒蔵の酒を新聞紙に包んでいた技術。
「彼女は、毎年100人分の味噌を新聞紙でくるんでいるので、たぶん2000回はやったと思う。
珈琲も2000回くらい淹れると、『自分流の味』がでてくると思う」と答えた。ホンモノはみな簡素也。

その後は、いつも二家族4人で味噌をつくりにこられる。
やはり、ひとつの家族の親父さんが「UFO焙煎」を一年しておられる。
ちょうど、モカをUFOでシティーローストにして、笊にあげ、カウンターの上にのせていたら、
「ぼくが焼く豆と色が違う」と、のたまわれた。
「ニハゼが始まって、10呼吸くらいすると、こんな具合になろうもん」というと・・・
「ええ・・・豆は二回爆(は)ぜるんですか?」
天真庵のHPに、動画でUFO焙煎を解説しているけど、こんな早とちりをしている人も、ほかにもいるかもなんばん、と思った。
嗜好品だから、「自分が好きな味」が浅煎りの人だと、なんの問題もないばってん。

ちょっと「くそみそ」みたいな話だけど、昨日は「こーひーみそ」な話題で沸騰した。
今日も遠くから味噌つくりにこられる。日々是感謝。

旅枕

昔から「旅枕」といわれる花器がある。
京都のちゃんとした料理屋さんにいくと、壁に旅枕の掛花が下がっていて、季節の花が入れていたりする。「さすが」だ。
その後、和菓子の名前になったりしたけど、日本人は昔から花鳥風月を求めて、旅をした。

美濃の美術館にいくと、黄瀬戸の旅枕が展示されていることがある。
胴部をグラマーな女性のように強く絞り、ロが大きく開く立鼓形の花入である。
「たてはな」という生け花の原点の形をしている。その後、「オゲンチョ」
という銅を使った花器が華道で使われるようになった。「けんざん」は使わず、「込藁」
といって、藁をすだれのようにしたものを使って花留めにした。
久保さんの新作は、この旅枕をヒントにしたものだ?

昨日、新しい「黄瀬戸の縄文ドリポット」のことをブログに書いたので、それを読んだお花の先生のAさんが
「予約していい?」と蕎麦を手繰りながら、ひとりごと。
彼女は、久保さんの器のファンで、黄瀬戸が大好きで、酒を飲まないのに、久保さんの黄瀬戸の
徳利を一輪挿しにしている。珈琲も飲まないので、きっと縄文ドリポットも、花器にするのだろう。

ぼくも新しい「黄瀬戸の縄文ドリポット」ができたら、旅枕に見立てて、世界中を放浪して
わたろうかしらん?

久保さんは、今大変に忙しくて、半年先まで休みが取れないくらい注文がきているようだ。
だから、ぼくのブログは、業務報告を兼ねることがしばしばある。
昨日今日のを読んで「やばい、そろそろ、黄瀬戸の土をこさえて、縄文ドリポットと珈琲カップを
つくらなくては・・・」と思っておられる。もう30年くらいのつきあいなので、そのあたりは阿吽の呼吸だ。

「二日続けてUFOが売れた」という話は内緒にしておこう(笑) しかもふたりとも美人だ!・・・これも内緒。 
カフェなども、物価高騰の折の「これから」のことを考えたら、「自家焙煎」にしたほうがいいかもなんばん、と思う賢い美人が
増えてきた。感謝。

フランス人が味噌をつくった。

落語の「唐茄子屋政談」みたいな名前のトーナスくんが東北巡礼を
終えて、味噌をつくりにこられた。
エプロン姿もさまになっていて、はじめてとは思えないくらい
手捌きがいい。前世は本人もいってるけど、「日本人」に違いない。趣味が「おへんろ」「ねぶた祭」「温泉」「味噌つくり」。

トーナスの前は、「前世はフランス人」だと信じているTさんが、味噌を
つくりにきた。彼女は天真庵の二階で「竹の教室」をやっていたころからのつきあいなので、
前日の「おさ」と同様、味噌つくりも10年選手だ。最近は「麹二倍」で味噌をつくるので、
持ち帰る味噌の目方が、普通の人よりも重い。に、かかわらず、「久保さんのドリッパーと珈琲カップも買っていきます」
という。「それは重すぎて、新宿のマンションに辿りつく前にへばるばい」といって、あきらめさせた。
というか、来月くらいに「ドリポット」と「珈琲カップ」の新作ができそうなので、「それができたら連絡する」にした。
一瞬、フランス人形みたいな笑顔になって、重い味噌をリュックに積んで新宿へ帰っていかれた。

今日も朝おきたら、お米を研ぐ(冬は一時間ほど水につけておきたい)。その後石油ストーブと、ペレットストーブをつけて、その上に「寸胴」(ずんどう 味噌つくりのため、大豆を水につけている)をおく。近くのコンビニに新聞を買いにいき、読んでいる間に、囲炉裏の炭をおこす。
その間に、そば打ちの準備やそばつゆなどの細かい仕込みはあるけど、鼻歌うたいながらちゃちゃとこなす。
炭火がおきたら、能登の珪藻土竈にうつし、羽釜をのせる。15分ほどで炊きあがるので、「用意うどん」もとい「よういそば」
で、水回しを始める。つまりごはんが炊けるのと、水回しの競争。
電気釜でごはんを炊くと、「早炊き」でも45分ほどかかる。土鍋や羽釜で炊くと、15分くらい。つまり「火力」がそんなに
違うのだ。それが、「ごはんの味」に反映しないはずがない。少し便利な暮らしから、逆行するけど、「ひと昔前の暮らし」
に時計をもどすと、「ゆたかさ」を再発見すること多しだ。

昨日は、開店と同時にこられた喫茶店の女将さんが「UFO」を買っていかれた。
脇にいた噺家さんみたいな人が「これ一個売れるといくら儲かるの?」と無粋なことをいった。
「定価は一億なので、儲からない」と答えた。
使う人が、お金に換算されない「ゆたか」を実現できれば、幸いである。まわりの人もきっと幸せになれる。
寸胴の中の「大豆」も、UFOで焼かれる珈琲豆も、羽釜のお米の一粒一粒も、みな命いっぱい生きている。
この季節は「粒々皆辛苦」という禅語が、身に染みる。ぼくたちも、その仲間の一粒也。感謝。

osakentaro

長(おさ)が、味噌つくりにきた。10年目になる。
ちょうど、10年前に、「このへんに住みたいんス!このへん、やばいっすね!」と
若者がそばを手繰りにきた。
運よく、お店から100mくらいの長屋が空いていて、いっしょに大家さんに交渉にいった。
「貧乏くさい恰好してこいよ」といったけど、自分がつくった洋服を着てきた。
ぼくと同じくらいの大家さんには、それの良さがわからなかったと見えて、風呂付で二階建ての家が
5万くらいで借りられた。
今では、大人気の「osakentaro」ブランドの原点。

5年くらい前に、モデルのようなカミさんをもらった。彼女の実家に挨拶にいく時に「とらやの羊羹とかをもっていくんだよ」
と老婆心さながらアドバイスをしたけど、馬耳東風で「東京バナナ」をもっていったらしい。
万事がそんな感じで、少し天然ではあるけど、このアパレル不況の中にあっても、万事順風で、まっすぐ突き進んでいる感じがする。

今は世田谷に住んでいて、今年はじめてなので「あけおめです」といって入ってきた。
味噌つくりが終わって、清算する時に、「のり」と「能登塩」を買ったので、「ぼんごのおにぎらず」
と作り方と、妹がおくってくれた「もち米」を少しあげて、「サンゲタン」の作り方を伝授した。
うれしそうに「あざっす」といって、帰っていった。

土鍋に半合もち米(ふたりぶん)をいれ、骨付き鶏適宜に水を7合いれ、ニンニク一かけらを入れて、強火で炊く。
クコの実とかあれば、いれてもいいけど、朝鮮人参は高いし、ほとんどがニセモノなのでいれない。
冷蔵庫にあまった野菜があれば、いれてもOK牧場。20分たって、おかゆのようになったら、「塩」で
味を調える。

今は、日本人のほうが強いけど、昔は韓国ボクサーが圧倒的に強かった。
それは、「サンゲタン」を減量中に食べていて、日本では知られてなかった。
ヨネクラボクシングジムの最初の世界チャンピオンの柴田さんに直接聞いた話なので、信ぴょう性が高い。

今日も味噌つくり。フランスからやってきた君が、つくりにくる。
先週「宮沢賢治」にあいに花巻にいっているので、「雨ニモ負ケズ・・・」の精神でやってくるに違いない。
宮沢賢治や、法華経が、やたらと身近なものに感じられるようになった。世界が混とんとする中で、日本の
役割の重要性がクローズアップされている感が強い。ひょっとして、このあたりが、世界を救うカギになるかもなんばん。感謝。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

TKG(玉子かけごはん)が、やっぱ好きやねん!

「月曜の朝は玉子かけご飯。」
だいたい、月曜日の朝は、そんな出だしでブログを書く。311があった2011年から続いている。
昨日は、「いきなり山梨」から、親子で食べにこられた、というふたりから始まり、常連さまと続き、
ブログを書く時間がなかった。寒い朝だったけど、わざわざ足を運んでくれるお客さまに足を向けて寝れないような気分。

京都に住んでいたころ、ときどき京都一乗寺にある「天天有(てんてんゆう)」というラーメン屋さんにいった。
すぐ近くにIくん(今は上場会社の社長をしている)の下宿があったので、彼を訪ねた時は、ふたりでいった。
看板娘のおばあちゃんは、お客さんに水をだすと「にーちゃん、なにしょー?」とオウム返しのようにやさしい京都弁で
聞いた。鶏ポタージュの「元祖店」といわれ、学生に人気があった。そのラーメンの上には、「温泉卵」がのっていて、
常連さんの「裏メニュー」に、それをごはんにのっけたん・・・つまり「玉子かけごはん」があった。寒い冬に食べると最高やった。

昨日は、無性にその「天天有の玉子かけごはん」が食べたくなった。
ので、10時になってのれんを下げ、買い物をした後、「まかない」に、ソレをつくってみた。
雪平にお湯をわかし、沸騰したら玉子をいれ、12分待つ。それをごはんにのせ「かえし」をパラリ・・・
天真庵が、京都になった!醤油でも代用できるので、忙しく、京都までいけない人は、試してみて!
「簡素なもの」がいいね~。最近つくづくそう思う。

今日も、朝からそばを打ち、かたわらの石油ストーブと、ペレットストーブと、囲炉裏の上には、
「味噌つくり」の大豆をいれた寸胴をのせている。
明日・明後日は、お店はお休みだけど、「味噌つくり」と「UFO焙煎塾」はやっておりまする。感謝。

シイタケに続いて、高級なネギが飛んできた。今日は「かも」がくるかもなんばん!

「くうや くわず庵」みたいな、貧乏っぽいお店の存亡を心配してくれてか、
シイタケが飛んできた翌日、つまり昨日の昼に「下仁田ネギ」が飛んできた。
「つばさグリーンファーム」の「まつもときよし社長」の手土産。IT時代からのオールドフレンド。先ごろまでIT企業と農業法人
の二股社長をやっておられた。今は農業一本のランチェスターで、今年から米つくりも始めるらしい。
名前は一度聞くと誰でも覚えられるビックネーム。でもぼくのそばのお弟子さま、の末席にちょこんと座っていらっしゃるシャイな性格
の持ち主でもある。

いつも天真庵にくるときは「文膳(ふみぜん)」という、「昼酒コース」を所望される。
そば豆腐をアテに「雪の茅舎」で、一献。おつれのかんなさん(共通の友人)と、楽しい談論風発
が始まる。かんなさんは、最近瞑想中にちゃねったみたいで、あの世のことこの世のこと、
そして今年から始まる不思議世界の話を機関銃トークのように話始めた。次の「おでんの盛り合わせ」の用意を
していても、背中に向かって「ねぇ~ねぇ、野村さん、そうでしょ?。『神との対話』みたいな話でしょ!」とか、容赦ない。
何杯かおかわりをしてるうちに、精妙とはいわないまでも、テンションが落ち着いてきた。

そんな時、近くの長屋に住んでいる「みかんくん」(愛媛出身で顔がまるくてミカンみたいなこ)がカウンター
に座って「ほぼブラジルください」。彼は酒の卸をやる会社で仕事をしている。
ふたりが飲んでいる酒「雪の茅舎」を「まったく欠点のない日本酒」とお墨付きなもんだから「やっぱり、お酒も飲みます」
ということになった。
すると、こんどは「まつもときよし社長」が、ちゃねって「ぼくの後輩が、酒の卸の会社に入ったんだけど、Mって
そちらの会社にいませんか?」とみかんくんにいったら、ビンゴだった。あまたあるそのような会社の中にあった、不思議なシンクロニシティに
みんなびっくり。東京の人口が100人、深谷の人口が10人、みたいな話。

〆のそばは「おコン蕎麦」。極上の「うすあげ」に、高級ネギをたっぷり刻んで、能登の合鹿碗(ごうろくわん)で供す。
奥能登で自給自足をしながら「一汁一菜」を旨としてきた、清い蓋付きの漆器。これとそばの合体は、歴史的な産物では
ないか?と自問、いや自画自賛しながら、毎日そばを打って、ちゃんと出汁をとって、ちゃんと薬味を添えて、
愛情いっぱいのそばを供す日々是好日なり。

4時からは、岐阜から「味噌つくり」の三人組。奥では「そば打ち教室」・・・
「くうやくわず てんやわんや」な天真庵の週末だった。

今日も神奈川からさっちゃんが味噌つくりにくる。埼玉に移住したそばのお弟子さまも、味噌をつくりにくる。
昨日と同様、お店は16時まで。その後は「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」「味噌つくり教室」

明日の朝は「玉子かけごはん」(8-10)。