子ほめ

古典落語に「子ほめ」というのがある。
あけすけな性格の八五郎(八つぁん)が、ご隠居さんから教わったお世辞を使って、子供を褒め、なんとかタダ酒にありつこうとするも失敗する、という噺。噺家によって、話のアレンジも違うし、オチも違っていておもしろい。

昨日、イワジーがそばを手繰りにきた。かっぽれの相方で、池袋時代は、いっしょに篠笛も練習した。
師匠は人間国宝の四代目 寶 山左衛門(六代目福原百之助)の娘さんで、きれいな先生やった。

イワジーが目を丸くして「やっと孫ができた」という。もともとハンサム(半分寒い)、というより、
ゼンサムな頭で、若い時から良寛さんみたいな風貌なので「イワジー」と呼ばせてもらっているが、昨日は
頭だけじゃなく、全体的にオーラがかかっていた。よっぽど孫ができたことがうれしいのだろう。
最近は、お酒を飲むと、帰る足取りがおぼつかないと、珈琲を飲んでいたが、いきなり「酒ください」
とのこと。山形の「初孫」でもあれば、いい場面だけど、最近は秋田の酒しか置いていないので、それで乾杯。

「インスタは死ぬまでやらない、と決めていたけど、孫の写真が更新されるのを見なくちゃいけないので、やることにした」
とのこと。のろけのような「孫ほめ劇場」が始まりそうな予感。
ぼくは、窓際でひとり酒を飲んでいる若い美人の子のほうが、気になって、「おかわり?」とか声をかけたりしてけど、
イワジーのテンションは全開(笑)
結局、本人の墓や戒名の話にまで発展した。
定番の古典落語と同じように、老人が集まると「年金」や「病気」や「墓じまい」などの話になることが多い。
「過去の話」「自慢話」「説教話」は、老害の三種の神器だ。

オギ、こと荻上直子さんの最新作の映画「まる」は、仙厓和尚の揮毫「〇◇▽」から、ヒントを得たらしい。出光美術館にいくと観れる。
仙厓和尚が、孫ができたと喜ぶ檀家さんから「なにか、おめでたいことを書いてください」と頼まれ、
「よし、わかった」といって「親死ね 子死ね 孫死ね」と揮毫したら、おこられた。「では」
といって「孫死ね 子死ね 親死ね」と書いたら、「なるほど、順番に逝きなさい、ということですね」
といって、喜ばれたという逸話。

人は親であろうが、孫であろうが、病気や老衰で死ぬのではない。生まれてきたから死ぬのだ。天地自然の理に、感謝。

三業地から、おいしいおにぎりが発祥?

水曜日は、歯医者。
あーん、と口を開けて、掃除や治療をしてもらう。だからどこでもいい、というわけにはいかない。
寿司屋とか、床屋、と同じように、店を選ぶ。

上池袋から押上にきてから17年になるけど、歯医者は上池袋時代から通っていたK歯科に
通っている。錦糸町から大塚駅行きのバスで終点。それから、元癌研通りを通り、明治通りに
ぶつかったら、右折、桜並木をJR板橋駅に向かって歩くと、公園の手前に歯医者がある。

大塚駅前は、駅舎が新しくなったのと、駅前の「ぼんご」というおにぎりやが、大フィーバー
していること。あと、産業地の入口のパチンコ屋「ひょうたん島」が壊され、置き屋や、ラブホなどが、ことごとく
消えた。ぼくがとあるIT業界団体の理事長をやっていた時、その三業地の中に事務所があった。Oさんという、
ゴルフ仲間の職人さんに、テントをつくってもらい、青地に「ネット21」と書いた立派なテント
を30年前につくってもらった。ぼくがでた後、ある婦人団体の事務所になったけど、テントは「そのまま使わせてください」
とのことで、今も当時のままだ。Oさんは、5年くらい前に住む場所を変えたけど、テントは生きている。

三業地というのは、旅館、料理、芸者、の「三業」が、それぞれ分業で、なりわいを立てている「地」だ。
今どき温泉地みたいに、ぜんぶをホテルみたいな旅館が「ねこそぎ稼ぐ」みたいなんとわけが違う。役割分担(シェアー)する精神がある。
芸者さんは卒業すると、置き屋の女将さんの面倒を見たり、独立して小料理屋や、お茶漬けや、おにぎりや
などで、たつきを凌いだりした。「ぼんご」ももともとは、そんな時代の流れの中で、うぶ声をあげた。

そんなわけで、「ぼんご」のおにぎりは、毎月の勉強会、理事会、小腹がすいた時、飲んだ後・・・
よく通った。女将さんは、雑誌やテレビで紹介され、「おにぎりのカリスマ」に君臨し、お元気な様子。
ぼんごのおにぎりは、「のりに包んだおにぎらず」だと思う。
ぼくは時々、サランラップにのりを一枚のせ、そこに能登の塩をパラリとかけ、その上に炊いたばかりのごはんの「かまじか」
をのせ、ふんわりくるんで「能登のおにぎらず」を作って食べる。
かまじか、というのは、羽釜で炊いたごはんを、しゃもじでまぜる前に、上の部分をすくって、そのまま食べることをいう。
だから、せいぜい、ふたりぶんくらいしかできないので、お店のメニューにはできない。
最後のおこげの部分は、お茶を注いで茶漬けにしたりする。もともとの「茶事」のごはんは、そんな風にして楽しんだ。

天真庵では、月曜の朝だけ、珪藻土の竈(かまど)に炭をおこし、羽釜のごはんを「玉子かけごはん」として供している。
冬は、「おこげ」のごはんに、おでんの汁をかけると、「このまま天国にいってもいいや」くらいの気分になる!
土鍋でごはんを炊くと、同じような味になる。「オール電化」に洗脳された家だと無理だけど、「ひとてま」かけるとどれもが
「至福の時間」になる。犬みたいに忙しくて、あっちに駆けてってワン、また明後日に駆けていってワンワン・・・
みたいな多忙な人は、「カリカリごはん」を食べていればいいけど・・・・

おコンそば

昨日、黒板(といっても、緑色)に、新しいそば(新そばはまだ)の「うすあげUFO」
と書いていたら、女性が入ってきた。「温かいそばでおすすめありますか?」
というので、「うすあげUFO」と答えると、「じゃあ、それください」になった。
なかば、半強制的に、UFOがそのお客さんに飛んでいった。

するってーと、来月24日に「落語会」(一日で満席ごめんになった)をすることになった橘家竹蔵師匠がやってきて、
カウンターに座った。「今日は寒いね~ あったかいやつをよろしく」とのこと。「うすあげUFO」が続けてでる(笑)
師匠がきて、そばを手繰る間、お店の中は「時そば」の舞台になる。「このきつね、うまいね~」と褒め殺しされた。

閉店間際に、「押上文庫ちゃん」が珈琲を飲みにきた。彼が東京音大の学生のころ、青山の骨董屋で出会った。四半世紀のつきあい。
押上文庫の二階は、お座敷になっていて、女義(じょぎ 女義太夫)や、落語会などをときどきやっている。

閉店して、ひさしぶりに志ん生さんの落語のCDを聴きながら、酒を飲んでいた。
「安兵衛狐(やすべいぎつね)」
亀戸が舞台で、墓参りにいって「狐」の幽霊を嫁(おコン)にする小噺。まいどばかばかしい・・・
が、志ん生が演じると、笑いのるつぼと化す。
落ちが、「安兵衛もきつねじゃないか?」と彼の家に集まる長屋の住人たち。そのひとりがポツリ。
「安兵衛はコン(来ない)」。やっぱりきつねだ。

そんなわけで、昨日からはじめた「うすあげUFO」は、真打に昇進して
「おコンそば」になります。感謝。

月曜の朝は玉子かけごはん!

今回の能登休みは、安曇族・宗像族が、九州からヒスイを求めて、糸魚川にいき、
そこから姫川をのぼって、安曇野にいった道を通って東京にきた。
はっきりとした声は聞こえなかったばってん、先祖さんから歓迎されたような気がした。
「いつかきたことがあるとこやな」と思う場所がある。そんな気がした。

途中、安曇野で「平飼いの玉子」を買ってきた。見るからに、元気そうな玉子。
今日の「玉子かけごはん」の玉子は、その安曇野の玉子。
昨日は、それをゆで玉子にして、おでんにした。食べたお客さんが「うまい」「きれい」
といった。近くの有名なスパイス・カレーの両親なんだが、さすがに、嗅覚や味覚がするどい。
もうひとつ、「うすあげ」の美味さに感動されていた。ぼくの腕ではなく、その豆腐屋の魂がこもったうすあげ。

夜は「ゆるゆるヨガ」だった。5人のヨガ女子のうち、うたりの女子のお母さまが、たてつづけに召された。
こんな日は、献杯せなあかんし、それならざるより、もりのほうがよかろうと、その「芸術的なうすあげ」
をいれて、合六椀にいれてだした。5人とも、おつゆまで飲み干した。お酒も飲みほした。
温かい汁もので酒を飲めるようになると、左党大学も卒業まじかになる。
昔「とんさま」という豚そばで5合飲んだ強者がいたが、このそばも3合くらいはいけそうだ。

関西の「きつね」が美味いのは、出汁もしかりだけど、美味い豆腐屋の「うすあげ」がきいている。
ミシュラン系のお店も、こそっと使っているその「うすあげ」をいれた新メニュー(といっても、17年前から『まかない』で
だしていたそば」を、新メニューにすることになった。

「うすあげUFO」

UFO珈琲よりも人気になったら、お店の名前を「UFO珈琲天真庵」から「うすあげUFO天真庵」に変更しなくてはいけなくなる。感謝。

焼きそばUFO?おでん?熱燗?昔の女?

おでんの季節になった。
天真庵では「文膳(ふみぜん)」という昼酒セットがある。冬は三種盛りが「おでん三種盛り」になる。
そば豆腐・三種盛り・酒一合・そば・珈琲で2500円。ちかごろ流行りの「センベロ」(千円でベロベロに酔う)
にはかなわいが、リーズナブルだと思う。ときどき、店の前でウロウロしながら、入ろうか、やめようか、
と迷う人いる。決心して入ってこられる時には、「よくこんな入りにくいお店に入ってこれたね」と声をかける。
追加で「ぼくなら、ぜったいに入らない」(笑)
でも、「文膳」なら、徘徊散歩の途中に入りたいと思う。
吉兆時代のながや君(今は、早川で『ながや』という日本料理屋を経営)に教えてもらった「そば豆腐」
は、自分でいうのもなんやけど、逸品やと思う。久保さんにつくってもろうた「ひさご皿」にのせてだす。

おでんにはまったのは、小学校の6年のころ。近くのスパルタ塾に、衆議院議員の末松義則くん
たちと、机を並べ、ビンタされながら勉強した。
塾へ通う途中に、左に「酒屋」、右手に「おでんや」という、きわめて「昭和の北九州」という場所があった。
おでんは持ち帰り専門なので、「ごぼてん」とか「ちくわ」とかを買って、歩きながら食ったものだ。
酒屋は、伊藤酒店といって、「角打ち」もやっていた。おでんやでおでんを買って、角打ちというのも、ルール違反じゃ
なかった。九州では、小学校6年か中学に入ると、家では酒が飲めたが、外で飲むと補導されたので、「中学生になったら、
角打ちで一献」と思っていたけど、店主の伊藤さんに「まだはやか」としかられた。
そのうちに・・・と思っていたら、後継ぎの伊藤くんが、京都のからふねやで働いていたぼくのところに弟子入りし、
下鴨神社の横の「からふねや下鴨店」の店長になったので、ついに「伊藤酒店で角打ち」の夢はかなわなかった。

でも、そのころ伊藤君や松崎くん(ふたりとも、引野中学の3年後輩でともに、からふねやで働いた)とは、荒神口にあった「安兵衛」というおでんやでよく飲んだ。
近くには、「シャンクレール」という有名なジャズ喫茶があり、ジャズにも、おでんにも、はまりまくっていた。
「豆腐」「薄揚げ」「玉子」などをアテに、伏見の「名誉冠」という二級酒の燗酒を飲んだ。
比叡下ろしが、体を縮こませるくらい寒い京都の冬に、伏見の「おんな酒」(甘い酒)の燗はしみた。

作家諸井 薫さんの本で「おでん 熱燗 昔の女」という名エッセーがある。ときどき読み返す。  
昔の女を、酒のツマミにすることはないが、今でも能登に若い女の子が遊びにくると、
橋本食堂にいって、「おでん」を食べながら熱燗を飲む。「おでん 熱燗 未来の女」
・・・・時間は、未来~今~昔の順にに流れている、って知ってる?感謝!

今日は16時まで。それから「UFO焙煎塾」「そば打ち教室」二階では「ゆるゆるヨガ」
明日の朝は「玉子かけごはん」(8-10)

UFOコースター

川口葉子さんが、新しい本を上梓され、昨日おくられてきた。
「今日も、古民家カフェ日和」(新たな時間の旅42軒 ・世界文化社)
これまでは「長屋茶房・天真庵」だったけど、「UFO珈琲天真庵」に名前を変更した。
「路地に残る店」というところに、「UFO珈琲天真庵」とは、奇妙な感じがするけど、目次
には、そんなふうに紹介されている。今日あたり、街の大きな本屋に並んでいると思う。
骨董もそうだけど、時代にかかわらず「古い新しいもなく残っていくモノ」というのは、
いいものが多い。これから「カフェ」をやろうなんて奇特な人にはおすすめ。
ぼくの店を参考にすると、危篤になるのでご用心。

古民家というのは、50年以上の建物のことをゆうらしい。天真庵の建物は昭和20年の東京大空襲で
焼かれた家を建てたものだから、来年で80年になる。17年前に、柱など耐震補強したおかげで、
さきの大地震には、耐えた。今いわれている「次の東京直下型地震」に耐えられるかは、?だけど・・・
能登の「寒山拾得美術館」の建物は、来年あたり50歳になる。今回の大地震には、ほんとうに
よく耐えたもんだ。

UFO焙煎器をつくった記念に「UFOコースタ」もつくった。前回のコースタは〇だったけど、
今回は◇にした。7年くらい前に、ベトナムに呼ばれて「そば会」をやった。
その時に、マジェスティック・ホテルのバーで、ウィスキーを飲んだ。サイゴン川のほとりに建つコロニアル風
の素敵なホテル。開高健が、ベトナム戦争を取材にいった時に泊まったホテル。
そこででてきたコースタが◇で、とてもシンプルなものだった。それを意識して、なつきくんに頼んだ。
なかなか好評だ。

200人の部隊で生き残りが彼(開高健)を含めて17人という、凄まじい現場から東京の雑誌社におくった国際電話。

「ベトナム人はそういわけで、貧しい農民兵であって、海外に逃げることもできず、戦争に狩りだされて、
ジャングルへ忍びこんで同じベトナム人に撃たれて死んでいく。いつかは必ず死んでいく。アメリカ兵はアメリカ兵で、
まったく自分の意志が通じないで、命令系統を持たないですから、よい意見をだすけど、よい意見は空中で散ってしまってですね、
採用されない。そのままやっぱり後ろから撃たれて犬死にで死んでいく。ベトコンのほうはどうかというと、空から今度は猛爆撃を
食らって、えー、何十トンという爆弾を浴びせられるわけですが、やっぱり死んでいく。結論を最後に申しあげればですね、
アメリカの曹長が私に、のどからからになってですね、水筒の水をやったときに言ってましたけど、『戦争に勝利者はいない』
ということだと思うんです。このことだけは、あのー、はっきり書いておいていただきたいわけなんです」

今も世界中で戦争モードになっている。結局、あの当時から人間は進化していないのだ。
開高健が、サントリーの宣伝で伝説のコピーライトがある。時代が変わってもまったく古くならない文だ。感謝。

「人間」らしく
やりたいナ

トリスを飲んで
「人間」らしく
やりたいナ

「人間」なんだからナ

碌山美術館・・

安曇野の碌山美術館にいく。三本の指に入るくらい大好きな場所。
今、森靖さんの特別展をやっている。
先日、さっちゃんがお店にきて、「知り合いが
碌山美術館で展覧会をやっているので、ぜひ・・・」と教えてくれたので、
行ってみた。なかなか迫力とメッセージ力のある作品が並べられていて、なんども立ち止まって
眺めてみた。木の「根っこ」まで、魂がほとばしっている木彫だ。

美術館の駐車場のところにある「蕎麦屋」で昼食。
昨日も蕎麦三昧だったけど、今日も宿で「新そば」がでることがわかっていたけど、
このまま『即身成仏』するのもいいか?と、わさびそばを食べた。
昔から、最後はそばばかり食べると、即身成仏ができるらしい。ぼくも最後はそうありたい。
界隈のそばが美味いのは、水と空気がおいしいので、そばも、わさびもおいしい。しかも凛とした寒さが新そばを
ますます美味くする。
東京ではありえない「自然味」と「生命力」が強いそばだ。

その後、宿にいく途中に、カフェを発見。「チルアウト スタイル コーヒー」・・
安曇平の絶景を借景に、マグカップでたっぷりのモカを飲む。東京から10年前に移住して、珈琲屋をやっているとのこと。
「スタッドレスをはいていても、すべることがあります」とのことだ。
安曇族や宗像族が、糸魚川から姫川をのぼって、この地に住み着いた、というのが定説だ。糸魚川のヒスイがひとつの目的だ
ったという。それで勾玉をつくった。カフェのある場所が「有明」というのも、九州を感じる。
「茶味禅味」みたいな珈琲だった。元気シールを一枚プレゼント。キョトン、とされていた(笑)

そこから、車で10分ほど山に入ったところの宿に泊まる。
源泉の温度が90度。湯舟にそうろうと入ったけど、肩までつかるのに3分ほどかかった。
後に「金沢からきました」というかたが、「毎年ここにきます。でも熱いでしょ」と笑う。
ふたりで、我慢大会のような様相で、玉のような汗をかきながら、談論風発。
地震の話になったら、ふたりとも湯舟に浮かびそうになったので、洗い場で並んで話す。
朝風呂にも入ったけど、やはり5分が限度で、部屋にもどって、ブログを書いている。

今日は、松本の醤油屋さんに行ってから、東京に向かう。窓の外の木々には、お猿さんの集団。
明日仕込みをして、土曜日から営業。感謝。

温泉も そばも過ぎると 般若かな   南九

「たらべる」が長寿のコツらしい。

昨日は、全国的に「冬」になった。
朝能登の家を出発。霊水を汲み、冬の日本海を見ながら、糸魚川まで走る。
日本海に臨む糸魚川から、内陸部信州の松本城下とを結ぶ街道は、「塩の道」と呼ばれる。

能登の塩を使い、松本の醤油を使って「かえし」をつくり、霊水を使って、蕎麦や珈琲を
淹れている。さしずめ令和の「塩の道」を旅しているみたい。

途中「たら汁街道」と呼ばれる場所がある。冬のたらを釣る漁師が、温まるようにとふるまわれたのを原点とする。
12時44分に、ときどきいく店についたら、「本日はたらが売り切れたので閉店します」とのこと。
はじめて、その店のはす向かいのお店に入った。
だいたい、界隈のお店は「ごはん、小鉢、たら汁」がついて1000円。良心的だ。
能登もそうだけど、「冬のたら」は秀逸。白洲正子さんも生前は「冬の能登」でたらを堪能されていた。

姫川に沿いながら山に向かって走ると、山が「三段締め」(紅葉の山の上が、雪帽子をかぶっている)になっている。
小谷(おたり)という豪雪地帯にある小さな湯宿にとまって、昨日の夕餉は、「信州の新そば」をいただいた。
小谷杜氏が醸す地酒も美味くて飲みすぎた。今朝は、酒くさい汗を温泉でながし、二日ぶりのブログを書いている。

長生きするには「たられば」じゃなく「たらべる」がいいかもなんばん。
先日、NHKのラジオから、毒蝮三太夫さんの88歳の毒舌が流れてきた。
彼いわく、長生きするには三つの「べる」が大事だとのこと。
「食べる」
「しゃべる」
「調べる」(好奇心をわすれない。スマホに頼らない)
それに旅「とらべる」だって。感謝。

人生は四十(しじゅう)からが本番。

今朝は、燃えないゴミの日。曇りのち雨の予報。
能登の家では、ガスの契約をしていないので、調理はガスボンベと
冬は囲炉裏を使って、煮炊きをする。朝の茶や珈琲も、しかり。
ときどき、アルミホイルでさつまいもをくるんで、囲炉裏の灰に
埋めておくと、めちゃくちゃうまい「灰焼きいも?」ができる。

寝る前に、炭を灰にうめると、翌朝火種が残っていて、五徳の上に置いた鉄瓶の湯も
温かく、それを白湯(さゆ)として飲んだり、また沸騰すると珈琲を淹れたりする。
洗面もその湯を使う。もう少し本格的な冬になると、湯たんぽを使うので、朝の洗面は
湯たんぽの湯を使う。今年で7回目の「能登の冬」を体験することになるが、このシンプルな暖房で
厳しい寒さを楽しんでいる。能登はやっぱり冬がいい。

庭の柿の木に、朝からメジロ、ジョウビタキ、ヤマガラ、シジュウカラが残り柿をつつきにきている。
四十雀(シジュウカラ)・・・・・東京でもよく見かける鳥。メジロやヤマガラは、昔はよく家で飼われていた。
ジョウビタキは、渡り鳥なので、家では飼えなかった。シジュウカラは、ヤマガラといっしょに
行動することが多いが、「始終空」という縁起悪さのせいで、忌み嫌われてきた。

でも人生は「四十(しじゅう)から」がおもしろい。
最近「人生最後の10年を黄金期にしたいね」みたいな声をよくきく。
古代インドでは、「学生期」(青春)」「家住期」(朱夏)」「林住期」(白秋)」
と3つにわけた。
最後の「林住期」は、50歳から75歳。つまり、人生の後半戦を黄金期にしようということだ。
その為には、40代から準備をして、自分の「この花さくや」を咲かせることが肝要らしい。

立命館大学の総長で京都名誉市民だった「末川博」先生の最後の講演を昭和51年に、丸太町烏丸に
あった「京都産業会館」で聞くチャンスがあった。19歳の時。「人生を三分割して、生きなさい」というお話だった。

「人生をみっつに分けたら、これまでの君たちは『親に世話になってきた』時期。しっかり学びなさい」(学生期)
「卒業して、社会にでたら、自分と家族のために一生懸命働きなさい」(家住期)
「最後は、人のために、お金や名誉ではない働きをしなさい」(林住期)

・・・・そんな話だったように思う。先生は、六法全書を編集したり、民法の「権利の乱用」
などを確立された大法学者。
気骨の人だったけど晩年は、悟りの境地にあられたように思う。

その講演を聞いた時、「もう大学で勉強することはない」と思い、近くにあった「からふねや」
で珈琲を飲んだ。その一滴の刹那に、カウンターの中にいた堀尾社長に、
「ぼくを弟子にしてください」と頼みこんだ。数か月後に、本店の店長になった。ぼくの「二十歳の原点」(
当時、立命館文学部の高野悦子さんの「二十歳の原点」がベストセラーだった。)
林住期の今も、毎日のように焙煎をしたり、UFOや、新しい珈琲の器具のあれこれを、老朽化した脳を働かせながら、試行錯誤している日々。
まるで、学生期も家住期も林住期も、珈琲三昧の人生。「臨終期?」しか残っていないぼくの人生。なんの不足もない。感謝。

酒を神にささげ、花を神に手向け、チンポ立て!

昨日は満月。残念ながら、能登は曇って見えなかった。
今日も朝からどんより曇っている。お昼前から雨との予想。

いつものように、瞑想しながらタコヤンをもって海にいく。
少し波高しで、おじいちゃんたちは伝馬船にのることをあきらめ、港で海をながめている。
これもまた瞑想みたいなもので、邪魔するわけにいかず、あちらから「おはよう」とか
「ごくろうさん」とか声かけてもらった後に挨拶する。70年80年と毎日見ていても
あきない海の近くで生活している人たちは、幸せだと思う。

帰りに神社にお詣り。参道に藪椿のつぼみがひとつ。「いただきます」と挨拶して、釣りバックに
忍ばせている京都・安重の花鋏で切る。パチンという音が、これまで華人たちに愛され続けた老舗の技のなせる音だ。
帰り道に、解体される家がある。今は避難所で生活されているけど、よく「釣れた?」とか挨拶されていたおばあちゃんが住んでいた。
今日の午前中で、たぶん完全に解体される。家の玄関横に、着物をきせられた人形がおいてあった。地震がなければ、この家の人と
永劫の時間をともにしたに違いない。そのかたわらに九谷の徳利がころがっていた。それに水甕から水をくみ、
藪椿を投げ入れた。ほとんど解体されて、残った玄関の土壁の色に華やかな赤。
手向けた瞬間に、人形が笑ったように感じた。

昔、新宿伊勢丹で個展をやっていた「草の頭窯」の青山禮三翁(99歳の天命を全うされた)に、
「福」の話を聞いた。彼は、染付の名人で「福」や「寿」や「寒山詩」などを書いて皿や酒器や茶道具をつくった。
「『福』の由来はのお・・・田んぼで獲れた稲を神棚に授ける、という意味だ。
日本は瑞穂(みずほ)の国とよばれ、そうゆうことを幸福に思ってきた民族なんや」とのこと。
伊勢丹の若い女子スタッフがいいタイミングでお茶をだしてくれた。翁は続けて、女子にも聞かせるように
「この『寿』はのお・・・(ここで齢90の翁がニヤリ)・・田んぼの真ん中で、チンポが立っている、という文字や」
と教えてくれた。若い女子は少し沈黙した後、「ふふふ」と笑った。その後、めでたく寿退社をしたや否やの顛末
は知らんばってん、そんなことを思い出した。
能登の家には、青山翁の水差し、とか、湯冷まし、茶わんなどを置いてある。ときどきそれで、お茶を淹れたりする時、
在りし日の翁の笑い顔が蘇ってくる。人は死んでも、生きている。感謝。

月見酒 宵待草に じゃまされて     南九