2007年の4月1日に、押上に天真庵を結んだ。
「珈琲一杯をいくらにするか?」を、まじめに悩んだ。
550円では高いし、400円、450円では、「そんじょそこらの珈琲と中身まで同じにみられる」
という自負があったように思う。それで、一時間くらいなじめに悩んで「500円」にした。それからこっち、ずっと17年間「500円」のまま。今では、「安い」という値段になっているらしい。
珪藻土でつくった「UFO焙煎器」で、少量の豆(世間では『シングルオリジン』とか、ツヤな言い方をする)を焼く。
ぼくは、「シングルオリジン」とか、「スペシャル珈琲」とかを「ウリ」にしているお店は絶対に入らない。
それを「今日のUFO珈琲」として、黒板(緑だけど)に、チョークで書く。「いつもガテマラですね」とお客さんに
言われたので、先週から「モカ」にした。
紛争や戦争で、イエメンの「モカ」が入らなくなった。エチオピアの「モカ」を焼いて、一杯500円にしている。これは「安い」と思う。
もともとモカが好きなので、能登の家の倉庫に、イエメンとエチオピアの「モカ」を貯蔵している。この先どこまでお店を
続けるか、は、白紙だけど、しばらくは持ちそうだ。それより、はやく紛争も戦争もない地球にもどってほしいものだ。
地球の環境変化で、2050年には、珈琲が飲めなくなる、という説がある。でもこのまま戦争が広がったりすると、
その前に、地球が滅んでしまうかもなんばん。
昭和51年、京都の立命館に入学した。下鴨神社の近くの「からふねや珈琲本店」でバイトして、半年後にそこの
店長になった。厳しいお店で、アルバイトの定着率が悪く、学生には悪評(今でいう、ブラック企業)みたい
だったけど、田舎(といっても、北九州はけっこう都会?)からでてきて、そこしか知らなかったので、
毎日が楽しかった。店長になった時の、ぼくの自給が250円。使っていた女子大生(近くのノートルダム女学院の子が多かった)
の自給が280円。社長に「おかしい、と思うんちゃけど・・・」と談判したら、あっさり「おまえの珈琲よりも、
バイトの子がかわいいので、お店が繁盛している」といわれた。そのころの珈琲一杯が280円やった。
今の「最低賃金」から比べると、珈琲の値段は安かった。だから、学生も仕送り前でお金が少なくなっても、なんとか
「お茶 せーへん」とかいって、ナンパもできた。ショートホープが一箱50円。居酒屋の二級酒一本180円の時代。
その当時の新入社員の初任給が9万円。
学生の仕送りの平均が5万円くらいやった。自給が250円でも、ブラック企業を憂えず、朝から晩まで(その時は、7時から23時まで
営業やった。セブンイレブンやね。市電の始発より前に店に入り、終電の後まで働いた。下鴨本通りに市電があったころの話)
家庭教師と、京都競馬場の臨時従業員(年40日・40万になった)もあったので、先輩の社会人の3倍くらいは稼いでいた。
ちなみに、そのころの立命館の学費(法学部)は、年198000円。国立大学よりも安かった。
いろんな事情で、仕送りを受けれない学生でも、「なんとかなった時代」やと思う。今の学費は、ちょっと滅茶苦茶やね。
昨日の夕方、銀座の「隕石カフェ」(正確な名前は知らない)から、豆の注文が入った。
「能登で焙煎してからおくる」と返事をしたら「まにあわない」というので、今朝そばを打った後に
焙煎して、今日発送する。銀座のそのお店も一杯「770円」(前後)で、珈琲をだす。
ぼくがいっても770円とるので、「え?」と思ったりするけど、今の銀座のカフェでは格安らしい。
そんなわけで、今日の16時にお店をしめ、用意ができたら能登に出発。
18日(金)まで能登休み。昨日きたばあちゃんが「能登休み?余裕があるのね。御趣味?」
といわれた。若い人にそう言われたら「自分でやってみろ」というけど、少しまるくなったので「はい。御趣味みたいなもんです」
と答えた。一杯500円で珈琲をだすのにも、いろいろなストーリーがあって面白い。
くふやくわずに くいつなぎ・・・・好きなことをやる・・・・に限る!感謝。