朝日新聞の朝刊の一面に、「折々のことば」というコラムがある。
鷲田清一さんが、本や見たテレビや映画などから、琴線にふれた「ことば」
を紹介する素敵なコラム。他所で炊き立てごはんに、みそ汁を御馳走になるような「ありがたさ」
を感じさせてくれ、忙しくて「天声人語」を飛ばしても、ここだけは読むようにしている。
先週は、友人の書家の初エッセー「書くということ」が紹介された。著者の沢村澄子さんは岩手に住んでいて、
ときどき近くのギャラリーアビアントで展覧会をやる時など、ひょこっと蕎麦を手繰りにきてくれる。
「坊さんの書」はどこか説教臭く、「書家の書」は、茶と同じで、決まり事や原理原則を抜け出せないような
ものが多く、あまり好きになれない。でも彼女の書は、そんな「くくり」から解き放たれていて融通無碍の世界を
遊んでいるようで、とても自由でいい。「書くということ」を読んで、ますます、そのナゾが解けた気がした。
今日のことばも、知り合いが紹介された。
「ごめんなさい。ちょっとだけ 今だけ来させてください」(七輪づくりの職人・石川県珠洲市)
天真庵の珈琲を焙煎する七輪を作ってくれた大恩人。今回の地震で工場も家も壊れ、金沢に避難されている。
ときどき、石川県立図書館にいき、窓辺で遠くを眺めながら「これから」のことを哲している様子が
「ドキュメント72時間」というテレビ番組で8月30日に放映されたらしい。
2018年から、能登と東京の「二股暮らし」を始めた。大谷塩の中前さん(正月に家が崩壊して亡くなられた)
と、そこから車で20分ほど走る、この七輪屋さんのところへは、ほぼ毎月のように通った。
塩や、七輪を買う、だけではない。用事がなくても、顔をだし、土産の「珈琲」を飲みながら、談論風発するのが
ぼくの血や肉になっていった。土産とは、「その土地が産みだしたもの」。わざわざ買うものとは、ありがたさが違う。
能登の珪藻土七輪をつかって焙煎した珈琲を土産にして、海からとれるビタミンミネラルたっぷりの塩や、唯一無二の「切り出し七輪」を調達する。今はどちらも、できなくなったけど、至福の「能登時間」だった。
「今だけ来させてください」が泣ける。政治家の「今だけ」とは、次元が違う。
能登の救済などどこ吹く風のように、自民党・立憲民主党の代表戦がかしましい。
今の政治家は、ほぼ「今だけ 金だけ 自分だけ」の輩ばかりだ。
あまり使わなくなったけど、総理とか、党のトップのことを「宰相(さいしょう)」といった。
「宰」という字は、石の包丁、の象形文字がこんな漢字になった。つまり、家や国のトップに
なる人は、「たべもの」をじょうずに石の包丁で捌いて、みんなに分け与える人が代々なった。
キックバックとかいう裏金で私腹を肥やしているような輩に務まるわけがない。
能登の真脇遺跡にいって、縄文人たちが一万年もの間、争いもなく、平和でなかよく暮らした夢の跡を、
「自腹」で学びにいったらどうだろうか?ついでに、土産は「永田町という土地で生まれたお金」がいい。
地位や権力で汚れちまったお金が、浄化されるかもなんばん。
「瓦礫の撤去作業や、道路の復旧に使ってください」と、匿名で差し出すような政治家がいたら、そんな人が
「宰相(さいしょう)」になればいい。人しれず、人の役にたつことをする。「陰徳」という。・・今は、そんな政治家いないか・・?
今日明日と営業したら、「能登休み」。彼らはいないけど、また珠洲に足を運ぼうと思っている。感謝。