そもそも、元気シールの元気って、だーれ?

昨日、若いカップルが蕎麦を手繰りにこられた。
男の子「来年、二十歳になったら、ここでお酒を飲みたい」という。
「え、お里はでこですか?」(このことばは、若者には通じない)ので、
「どこで生まれの?」と聞き直すと、「福岡です」とのこと。
昔は、「福岡で、ひとつでも年が上だと王様で、相手が奴隷」になった。
でも今は、パワハラとかいわれるので、言葉を選んで、
「ぼくは小倉生まれやけど、そのころの福岡は、小学校の6年くらいから酒を飲んでいたばい」
と答えたら、「うちの父も、同じようなことを言ってました」とのこと。どうも条例が変わったらしい?

「元気シールをほしい」と、言いんしゃったので、「よかよ」といって、ワンシート渡し、
おまけに、新しい「UFOコースター」を渡したら、「この犬かわいいですね」という。
「そのコースターのORコードから、天真庵のホームページに飛ぶけん、そこに『元気のアルバム』という部屋が
あるけん、みちゃってんない」というと、すかさずスマホを操作し、「めちゃくちゃ、いい写真ですね」と笑った。
「藤本さんという、知り合いのプロの写真家が撮ったと」と答えると、「ぼくのじいちゃんは、長崎で写真館をやってました」
と返ってきた。

池袋で天真庵を始めた30代の後半から5年くらい、「藤本さんの写真クラブ」に所属し、カメラに凝ったことがある。
ある時、使っていないアップルのPCを先生にあげた。「何かお礼させて」というので、練馬の大きな公園で、元気の写真を
撮ることになった。「元気のアルバム」の1・2は、その時に撮影されたものだ。
ぼくが助手になって、レフ版とか、おもちゃや、水のペットボトルをもって、元気に声をかけると、こちらに喜んでかけてくる。
その横に藤本さんが、カメラをもって腹ばいになったりして、半日かけて撮影した。
ギャラリーがいっぱい集まってきて「あの犬、有名な犬ですか?」などと質問する。「犬といってはいけません。ゲンキサマ、といいなさい」
なんて返しながら(笑)

2007年の春に押上に天真庵を結び、元気は2年ほど副店長をして、2009年のお祭りの後に旅立った。
だから、大半のお客様は、元気の存命だった姿を知らないのだ。
旅立った日に、足形を写真に撮って、トレースしてもらい、「元気ののれん」ができ、その後に、
山田くんに頼んで「元気シール」ができた。
そして、かろうじて、生きている姿を知っている「なつきくん」が、「UFOコースター」をデザインしてくれた。感謝。

珈琲のうまさ・・・とは?

キレがいい。こくがある。香りが立つ。豆の甘さ。舌の残る余韻・・・

缶コーヒーや、コンビニの珈琲の広告にも、同じような「表現」が羅列される。
でも、その実、どれが「うまい珈琲」かというのは、人それぞれの感じるものだし、
あくまで珈琲は嗜好品である。でも「言葉」が美味いを言い得ている場合も多い。
今流行りの「エモい」(情緒に訴える)というのも、
まんざら的を得ているようにも思う。好きな人と「夜明けの珈琲」を飲めたら、
缶コーヒーでも、ホテルに具え付きの簡易珈琲でも、美味いに違いない。
「キモい彼と、エロいことしたら、朝の珈琲がエモかった」(早口言葉?)

自画自賛みたいだけど、今年から「アイスコーヒー」が、おいしくなった。お客さんにも
言われるし、自分も朝はアイスコーヒーを飲むことが多くなってきた。
昨年の夏、能登のカフェがオープンする時、一日店長を頼まれ、桐の茶道具に、「縄文ドリポット」を入れ、
「UFO焙煎器」といっしょにもってでかけた。その時に「ちゃねって」・・・新しいダッチ珈琲(和っち珈琲、と命名)
を発明した。お弟子さんたちには、5台くらい作ってあげて、お店に二個残っている。

天真庵の「ほぼブラジル」は、シティーローストに焼いた、「ブラジル」「コロンビア」「ガテマラ」+「もう一種」、
のブレンドが基本形。焙煎して、ブレンドしたら、すぐに珈琲を淹れて、味を確かめる。
焙煎したての味は、煎茶と同じく、「雑味」みたいなものが多いけど、それがまた「うまさ」につながる。
そばの「三たて」と同じようなものだが、すべて「できたて」がいいとも限らないのが、味の複雑さ。
お酒も、ワインも、開けたてよりも、空気がまじって「まるく」なったりするのと同じ。
「この花さくや姫」じゃないけど、「開く時間」というのがある。

魯山人は、「器は、料理の着物だ」という名言を吐いた。
焙煎、ブレンドの仕方、淹れ方も大事だけど、「器」も大事だと思う。
天真庵のHPに「縄文ドリポット」という部屋がある。
志野・黄瀬戸・白・焼き締め・・・いろいろ久保さんに焼いてもらったけど、今は「焼き締め」(無釉)
が少し残っているだけ。能登の珪藻土を使って、「令和の縄文ドリポット」が、もうすぐ完成する。
珪藻土は、建材やお風呂場などにもよく使われてきたけど、ついに「珈琲の道具」
としてデビューする。とても楽しみだ。

「天真庵がめざす珈琲の味」は・・・

のみ口 ひと口めが すっきり
人肌に さめても まったり
あと口 余韻が 一時間

その一雫に、けっこう熱量があがっている今日このごろ。感謝。

かぶりつき で美人にかぶりつかれた!

先週の木曜日に、曳舟文化センターで歌舞伎があった。
かぶりつき(正確には、前から二列目だったので、かぶりつきじゃない?)で、観ていたら、
うしろから「ちわっ」と声が・・・・
10年くらい前、まじめにお茶を習いにきてたKだ。相変わらずの美人だ。「ひさしぶり」と挨拶。

「天真庵では、まだUFOを売っていますか?」と問われる。
まわりのお客さんは「?」という顔してたけど、「売ってるよ。」と返事したら、
「一個?一台?とっといてください。月曜日に買いにいきます」とのこと。

そして昨日、彼女がUFOを買いにきた。
「知り合い家族が能登に移住して、今回の地震で東京にもどり、嫡男が大学に入学し、
『将来カフェを開きたい』とのことなので、お祝いにUFOをおくる」とのこと。
風が吹いたら桶屋が儲かる、みたいなキテレツ話だけど、「ありがとうございます」だ。
オマケに、できたばかりの「UFOコースター」を彼女と大学生用に二枚あげた。

小さなガラスのコップをふたつ用意して、珈琲(酒や紅茶でもいい。ビールはへんな味になる)
をつぎ、ひとつのカップに入った珈琲を少し飲み、UFOコースター(真ん中に元気シール)の上に置いて
味の変化を試す。9割の人は「丸くなった。」とか「珈琲の味がすっきりする」とかいわれる。
味蕾が生きていて未来が明るい人。「?」という顔の人は、こちらが心配になるけど、もうひとつのカップ
、つまり元気シールにふれていないほうの珈琲を飲んでもらう。未来が暗くなりかけた人の9割が明るい顔になる。
残った暗い人は・・・?「知らない」(笑)

Kさんはひさしぶりの「元気シールの実験」に楽しそうに笑う。
「ときどき、晩酌の時、元気シールの上に猪口をのせてますよ」とのことだ。

それぞれの人の「気持ちの気」と反応し、数値化されず、その「気」の中に、再現性も即効性もない「気」
が存在する不思議なエネジー。「TQ技術」といわれている。

新しい「UFOコースター」には、ORコードがついていて、そこにスマホをかざすと、「天真庵のHP」
に飛ぶような仕掛けをしている。25年ほど前に、名古屋の山田先生の実験室にうかがった時には、なかった新技術だ。
「天真庵の案内」とかいう部屋には、「ルトロン」という動画の雑誌に掲載された時の動画を張り付けた。
2分くらいの動画に、店内や、珈琲を淹れる動画が紹介されていて、イメージトレーニングになる?
「UFO焙煎器」の部屋には、赤須翔のギターをBGMにUFO焙煎するぼくの「手」が動画ででている。
どちらも顔がでていない。さしずめ「手タレ」だ。

今日は12時から18時まで営業。まだまだ蒸し暑いけど、夕方になると東京でも虫がすだく声がする。感謝。

かなゝの 出番狂わす 暑さかな

秋葉の語源・・・秋はっぱら 空きはっぱら?

1984年の秋ころ・・・秋はっぱら?空きはっぱら(秋葉)で、小さな会社が産声をあげた。
今も、小さな会社のままで、古色蒼然たるカフェと、能登に小さな美術館を運営中・・
40年くらい続いているのは、奇跡。鬼籍に入るまで、続いているかもなんばん?

昨日、珈琲のお弟子様が、嫡男くんをつれて、蕎麦を手繰りにこられた。
暑い日だったけど、開店と同時にたくさんのお客さんがこられ、2時過ぎに蕎麦が売り切れになった。
その嫡男さんが、今日からカナダのバンクーバーに留学されるとのこと。バンクーバーと聞いて、
40年前の秋葉でのコトを思い出した。

ソフトバンクを横に卒業して、秋葉原の一階にオカマさんが経営する喫茶店があるビルの3階の
10坪くらいの事務所で起業した。ばったや(意味わかるかな?)さんが、赤字の会社をもっていて、
それを引き継ぐという形だった。その当時は株式会社をつくるのに、1000万の資本金が必要で、
上場前というか、よたよたして潰れそうな会社(日本ソフトバンクのこと)の薄給の若者に、そんなお金はあるわけもなく、
渡りに船とばかりに、その会社の役員を変更して、代表取締役になった。

創業そうそうに「パソコンらくらくレッスン」という学習ソフトが大ヒットして、いきなり全国区になった
のはいいけど、毎月の銀行の返済(といっても、前社長の借金)と、積み立て(小さな会社が小さな銀行と付き合う
場合、これにつきあわないと、信用ができなかった。たぶん、学校では教えないと思うけど、今もおなじ)
で、毎月末に150万くらい払っていた。サラリーマンの月収が20万くらいの時代。

そのソフトを開発してくれた天才少年(青学の大学院に通っていた)は、今は有名な国立大学のえらい教授になっている。
地獄のような創業期の資金繰りだったけど、彼と出会ったことが、人生最大の「運のよさ」だと今も思っている。
彼も「大学院の学費は、そのアルバイトのおかげ」と言ってくれてるのがうれしい。
その後も、株価分析のソフト「兜町」(これは、日経新聞の賞をいただいた)や、データコンバータなどで、順調に
会社は発展したけど、「返済・積み立て」は、きつかった。

完済したある日、銀行の支店長が会社にやってきて、「よく払いきりましたね。ぼくもびっくりしました。」
という。「そのお礼に、バンクーバにご招待したい」みたいなことを言った。
話の筋からいって「あごあし付き」だと思ったけど、結局50万くらい払わされた。なんということはない、
銀行が主催した旅行に欠員がでただけの話だった(笑)。それがバンクーバーで開けれた「交通万博」(誰も知らないと思うけど・・)

*ネットで「交通万博 バンクーバー」で検索すると、下記のような資料が見えた。

開催日程:1986年05月02日(昭和61年)~1986年10月13日(昭和61年)
開催地:海外
会場:バンクーバー
主催:カナダ政府・ブリティッシュ・コロンビア州政府・バンクーバー市
入場者:22,111,578人

カナダ・バンクーバーの市制100周年とカナダ大陸横断鉄道完成100周年を記念して開催した。テーマは「交通と通信 人類の発展と未来」である。「トランスポーテーション(交通)とコミュニケーション(通信)」現代社会に欠くことのできない2つのテーマが、雄大な自然を誇る西部カナダの玄関ロバンクーパーを舞台に開かれたのである。近未来都市になくてはならない新交通システムと、情報伝達のための新しいコミュニケーションシステムがどうあるべきかを目的・・・(略)

あまり万博のことは覚えていないけど、バンクーバーで知り合ったレストレンの日本人シェフが、赤いホンダのシビックで、夕陽が沈むバンクーバーの景色のいい海岸線を走って、ホテルにおくってくれたこと。その車の中でかかっていたのが、五輪真弓の「恋人よ」だったのと、3日ほど
滞在したバンフの空気感がたまらなく新鮮だったこと。次にくる時は、「鉄道の旅がしたい」と思った・・・思ったまま40年。

10年どころか、40年も「ひと昔」だ。人生は迷ったり、悩んだりする「時間」はなく終わってしまう。
命短し恋せよ乙女。旅せよ青年・・・                感謝。

親が認知症になったら・・・

昨日は、英語の岩本先生の家族が、夏休み最後の土曜日、ということでかき氷を
食べにきてくれた。
当時先生は、北区に住んでおられ、豊島区と北区の境にあった「天真庵」に英語を
教えにきてくれていた。普通の英語では、おもしろくないので、岡倉天心の「茶の本」
の英語版を訳しながら、実際の茶のお点前をしながら、英会話をする、というスタイルだった。

天真庵が押上に移った2007年からしばらく、北区から通って英語を教えにきていた。
そのうち、押上の下町人情なんかが気にいり、京島の長屋に住むようになった。
引っ越しされて、一週間くらいして、カウンターに若い女性がとまった。
「わたし、長屋に住むのが夢なんです」と目を輝かせた。
おせっかいにも、ほどがあるけど「英語の先生が、近くの長屋に引っ越してきた。まだ部屋は散らかっていないし、
ビニ本なども飾ってないと思うので、見学しますか?」というと、「ぜひ」という返事。
すぐに、先生に電話して、「今から長屋に住みたいという若くてべっぴんさんがそちらにいく」と伝えた。

後で笑い話になったが、電話があってすぐに、不動産やが、おばあちゃんをつれて、見学にきたらしい。
先生は「野村にはかられた」と思って苦笑していたら、若いおねえさまがやってきたので、あわてたらしい(笑)
けっきょく、それが縁で、ふたりは夏に結婚し、毎年結婚記念日に近い夏に、天真庵に挨拶にくるのが、ならわしになった。

長男は、ぼくのそばのお弟子様であり、珈琲のお弟子さまであり、筆子さんの味噌のお弟子様。
将来は寿司の職人になるのが夢らしく、昨日は寿司のまんが本を23冊もってかえった。
母親に「しばらく、学校の成績は下がるかもなんばん」といったら、「OK牧場です」とのこと。
次男は、天真庵にくるたびに元気の写真に頭を下げる。「ひょっとして生まれかわり?」と思ったり
することがあったけど、犬が人間に生まれかわることはない、とシャンタンさんがいっていた。
みんな健やかに成長している。できたての「UFOシール」を子供たちにあげた。
生まれる前、お母さんのお腹にいたころから天真庵にきていたふたりは、さっそく水の入ったコップを
UFOコースターの上において、味の変化を楽しんでいた。

ら、ふたりのおとうさん、つまり英語の岩本先生が「ぼくもほしい」という顔をしている。
彼には、昔から変な癖があって、ぼくがカウンターの中で、骨董の蕎麦猪口で珈琲を飲んでいると、突然
「その蕎麦猪口、譲ってほしいのですが」といったりする。「これは、江戸後期の伊万里でちょっと高いよ」
といっても、猪口を恋人みたいに見惚れていて、「いいです」といって、買っていかれたりするタイプ。
きっと、彼女が長屋にきた時も、同じようにビットがたっていたに違いない。
突然、「元気シールは、認知にもいいんじゃないですか?」という。「そんなこと答えると、薬事法違反に
なるけんいえないけど、その人の気と感応すると、いい効果があるかもなんばん」と答えた。
「買います」といって、元気シールを1シート買った。渡すと、自分の頭の上にのせた。
「え、若年性認知?」と問うと、「母親に渡します」とのこと。
結婚すると、親が4人になる。ふたりにひとりがガンに罹病する時代。長生き時代なので、「認知」に
なるのも日常茶飯である。そして、いつどこで、罹災するやもわからないような時代。
いろんな意味の「おまもり」になって、元気はまだまだ生きているような、そんな気分の今日このごろ。

今日も12時から16時まで営業。それから「UFO焙煎塾」「そばうち教室」、二階では「ゆるゆるヨガ」
明日の朝(8-10)は「玉子かけごはん」

UFOが天草から飛んできた!

昨日は、朝はやくから、焙煎したり、そばの汁をつくったり・・・・
汗びっしょりになりながら、仕事をしていたら・・・

クロネコが、UFOを運んでくれた。
熊本の天草に「ぼうし岳珈琲 LAVO」というのがある。店主のなつきくんは、7年くらい前に
墨田区から移住した。
TQ処理研究所の山田くんの勉強会にも参加してくれ、「元気シール」のパンフや、「不思議コースタ」
のデザインをやってくれた。

「元気シール」も令和版ができて、パワーアップしたので、その不思議なコースタを「令和版」にして
とお願いしたら、昨日届いた。天真庵のHPの「元気シール」のところに紹介してあるけど、「UFOコースタ」と
いいます(笑)
昨年大ヒットした「UFO焙煎器」は、能登の珪藻土を使ってつくっている。
今年の正月の地震で、珠洲の工場や、珪藻土の鉱脈が甚大な被害を受けた。
まだまだ奥能登は復興まで道遠しの感はあるけど、一歩一歩進んでいる。
シールには、そんな思いをメッセージにしてもらった。

夕方、熊本の木庭さんから暑中見舞いのようなメール。
彼らがつくった「骨なし灯篭」が、名古屋の映画館と天草の映画館でも放映がきまったらしい。
名古屋がミッドランドスクエアシネマ」(10月18日~10月24日)と「ミッドランドシネマ名古屋」(10月25日~11月7日)
天草は「本渡第一映劇」( 11月11日〜11月18日)

今日・明日は12時から16時まで営業。それ以降が、「UFO焙煎塾」「そば打ち教室」・・・明日の夕方は「ゆるゆるヨガ」
26日(月)の朝は「玉子かけごはん」

中村梅乃が泣かしてくれる!♪涙ふくハンカチーフください!

ほんとうは、今日の夕方を目指して、ゆっくり東北から帰ってくる予定だった。
「曳舟文化センター」にて、歌舞伎があり、チケットを買っていたから、昨日東北から
急いで帰ってきた。「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」他

10年くらい前・・・店の前を着物姿のハンサムボーイが、「はいろうか?どうしようか?」
と寅さんが、団子やの前でうろうろして歩いている風な感じで迷ったすえ、入ってこられ、そばをかっこよく
手繰っていかれた。あまりにイナセないい男なので「なにやってはんの?」と聞いたら、
「中村梅乃という歌舞伎俳優です。」とのこと。歌舞伎座よりも、歌舞伎町に月謝を多く払ってきたので、
チンピラの「海老フライ(今は団子や?)」みたいな名前の先代や、大塚産業地出身の女形の「たまちゃん」たちがでる歌舞伎や、
吉祥寺の前進座の「鳴神」なんかは見にいったことはあったけど、彼のことは知らなかった。

いわゆる「海老フライ系」みたいな名門に生まれたサラブレッドではなく、「養成講座」みたいなところで、
たたきあげられた人だ。ある意味血統外の若者たちが、がんばって歌舞伎を広げようと
頑張っておられる。政治も芸能も世襲制がハバをきかせて、マンネリズムが横行している。みんなガラガラポンせにゃあかん。
歌舞伎は名門の出の俳優を見るもんじゃない。演ずる俳優の「人間性」や「生きざま」を観るもんやと思う。落語もしかり。
結局、その人の「素」がでるもんやと思う。でなくては、おもしろくもなんともない。
解脱したみたいな顔して「〇〇の勧進帳すてきだった~・・ボリボリ」みたいな話をして、そばを手繰るようなお客さまには
「なんか胡蝶蘭がみみず食ってるみたいななあ」と思ったり、そのままそう伝えたりしてきたので、天真庵には、
胡蝶蘭みたいな華やいだ人は少なくなったけど、俳優さんや、義太夫さん、三味線や邦楽をやられるお客さん
は増えてきたように思う。

その梅乃(うめの)さんと、義太夫の鶴澤繋二さんが、歌舞伎の勉強会「縁糸乃会」(ふたりの名前を使った)
を結成し、初のこころみとして、本日と明日、曳舟文化センターで、初公演をやるこにあいなったしだいでございます!

縁とか、つながりを大切にされている方、これまではそうでもないけど、これからそうしたい方
は、どうぞ、明日の当日券が、多少残っているようなので、お申込み、いってください。
若者を応援するというより、ご自分の「精神的文化力の糧」にきっとなると思うしだいいでございます。老婆心ながら・・感謝。

曳舟の 水面(みなも)をはしる 梅の香な

お問い合わせ

enishinokai@googlegroups.com

8月23日(金)13時開演  17時開演   A席7000円 B席5000円    ハンカチを忘れないように!

東京にたどり着いた。

日曜日に能登を出発。
富山・新潟・山形・秋田・青森の弘前をめぐる旅。
秋田の酒蔵と、O社長の「このほし」がある秋田の地名が五城目(ごじょうめ)という。
最近、よく熊がでるらしいので、リュックの中にまたぎよろしく、鉈にもなる能登の「マキリ包丁」
を忍ばせていった。Oくんは、その熊がよくでる山を買って、子供たちが自然の中でサバイバル力を
つける場所をつくろうとしている。押上に住んでいた20代のころは、IT企業につとめる現代っ子だった
けど、今では日焼けして、釣りや山菜取り、山仕事修行中の「またぎくん」みたいにたくましくなった。

大鰐温泉の夕食も、山菜の鍋がでた。シェフみずから、熊がよくでる山にいって摘んでくる山菜。
冬眠からさめた熊は、しばらく食べていない胃を慣れさすために、ふきのう、などの山菜を食べる。
熊が冬眠から覚めさせる力をもった山菜の「おながれ」をぼくたちもご相伴にあずかっている、ということでもある。
たぶん、ぼくたち人間のエゴから、どの地も温暖化がすすみ、海の生態系や、山の環境が激変し、熊たちの
ごはんが少なくなって、人間が生活するエリアに出没せざるをえなくなった、というのが実情だ。

東京にいると、世界中から飛行機にのって「魚くん」がやってくる。
だから、すしやにいっても、「旬」はなく、タッチパネルをおすと、タコやヒラメやマグロのにぎりが、
自動的にできあがってくる、という仕組みだ。ほとんどが「冷凍もの」なので、寄生虫が生きる環境
ではないので、生で食べても七転八倒することはない。
これまでは、海温の高い太平洋側の魚を刺身で食べる時は注意が必要で、日本海側の魚は安全、
という神話があった。残念ながら、最近は日本海側の魚も要注意になってきた。温暖化のしわざである。

今回東北の山々を巡ってきた時、栗やブナの木から、まだ小さな実がたくさん落ちていたのが気になった。
台風のせいではなく、水が足りないのだと思う。
能登の家にある栗の木も少し枯れぎみだったので、甕に「うめ星」をいれた宇宙水を毎日かけてきたけど、
はたして秋に実がなるかどうかが、気になる。

昨日の夜、東京につくやいなや、エアコンを生命線のようにつけて、ビールを飲みながら、
そんな「反省会」をした。感謝。

大鰐温泉・・・太宰治が長逗留した宿

そんな宿が奇跡的に残っている。あまり教えたくないけど・・・「ヤマニ仙遊館」

五代目の当主が、がんばって改装して、「津軽100年食堂」
の温泉宿版よろしく、これから100年、知るし人や知る名旅館として
残ると思うようないい宿。特にいいのが、お風呂。大正ロマンというか、
そのころ大流行したマジョリカタイルを、美濃の陶器屋にたのんで復興。
なかなかいい感じだ。

ちょっと変則的なのは、宿のご飯は近くの居酒屋など、何店か選べる。
迷わず「居酒屋」で予約した。ちょう盆休みで、当主がニヤリと笑いながら、
「横の蔵をリノベしたので、そこにしませんか?」というので、OK牧場。

ひとっぷろ浴びて、浴衣のまま、ゲタをカランコロン慣らして、隣の蔵へ・・・
それからの料理とか、酒とか、太宰の話・・・
などをすると、明日も明後日も、太宰よろしくここで過ごしたくなるくらい・・・
なので、どうぞ、「斜陽」の日本を憂うことなく、太宰の本(「斜陽」でなくてもいい)を一冊以って、この旅館に
くると、人生の後半がめちゃくちゃ楽しくヒントになると思う。

もう一度、風呂に入りたいので、ここで「おしまい」にします。感謝。

能登から弘前まで徘徊し、豊盃を飲んでいる

まさに、ヘベレケな徘徊旅。

筆子さんのじいちゃんは、弘前出身。明治25年生まれ。
おばあちゃんが、能登の富来出身。明治37年生まれ。
このふたりが、東京で出会って、筆子さんのお父さんが生まれ、
そのお父さんと群馬出身のお母さんが結婚して、筆子さんが生まれた。
ひとりの人間が誕生するには、壮大なロマンというか歴史がある。

平成7年、ぼくが39歳の時、大きな転機があった。
それまで順調だったかどうかわからないけど、少しITの世界に飽きて、
「ほかの生き方」を模索していた。ネット21いう、ITの業界団体の理事長を
おおせつかって(これはまったくの手弁当だった)けど、その仕事を半分、
自分の会社(その当時、3つの会社の社長やった)を半分、と、新しく「画廊」というか
「ギャラリー」みたいなことを始めた。「天真庵」の源流というか分水嶺みたいな時代。

そのころバブルが崩壊して、上池袋に、お化け屋敷みたいな大きな家が「短期間、貸します」
という看板をだした。家賃50万。
画廊をやるには、茶室もあり、廊下も広く、うってつけだったけど、どう見ても「何かがでそう」な家だった。

ぼくの故郷の北九州に「皿倉山」という山がある。霊山ではないけど、北九州の富士山。
その麓に、英彦山(ひこさん 霊山)で修行した「霊媒師」さんがいた。90歳まじかの仙人みたいな人だった。
その池袋の「お化け屋敷」をみてもらった。
「ここは何もでらんばい。いい家やけん、住んでもよか。何かが始まりますばい」・・・結論的にはそんな感じで、安心して、
近くの寿司屋で寿司をつまみ談論風発していたら、「あんたの奥さんやけど、弘前の神社の加護を
うけとるけん、一度お詣りにいきなさい」とことだった。

それから、毎年のように、東北に旅し、神社をめぐり岩木山を仰ぎ、岩木山神社や、胸肩神社などに参拝し、
じいちゃんが好きだった豊盃(青森の地酒)を飲むようなことを繰り返した。

今年は、新年に能登の家が罹災した。瓦がこわれ、水浸しになったけど、ボランティアさんやいろんな人
の援助もあって、なんとか住めるようになった。たぶん奇跡的に守られた感がある。
そこで、久しぶりに「岩木山にいこう」
ということになって、日曜日の朝から、ぶらぶらと車で弘前にやってきた。

今朝は、「雪の茅舎」の齋彌酒造店 と「一白水星」の福禄寿酒造をまわって、お酒を調達。(その酒蔵
の近くに、天真庵の常連さんが移住して「このほし」というおもしろいことをやっているO社長がいる。子供たちが
この難しい時代を輝きながら生きていけることを学ぶ学校みたいな会社。明日からキャンプらしい。
今日のお昼はO社長と食べた。)
どちらも、秋田の代表的な酒蔵。そして、そのまま弘前にやってきて、駅前のホテルをチェックインして、
近くの老舗の居酒屋で豊盃を飲んだ。二件目では陸奥八仙人、田酒を飲んだ。どれも青森のお酒は美味すぎる!

今、ホテルにもどって、メモ書きよろしく、ブログを書いている。
明日は大鰐温泉に泊まって、東京に出稼ぎにいく予定だ。日記にすると簡単だけど、濃い一日やった。感謝。