渤海(ぼっかい)

能登志賀町に「富来」(とぎ)という街がある。今は合併して正式には、志賀町に統合された。
「富が来る」という縁起がいい名前なので、地元の人たちは今だに「とぎ」といい、病院や
商店街にも、名前が残っている。今回の地震では甚大な被害を被った。

そこの一角に、「シーサイドビラ渤海」という入浴施設がある。震災後しばらく閉まっていて、
近くの広場に自衛隊の人たちが「風呂」を設営してくれて、地元の人たちの入浴を支援してくれた。
今は、志賀町は断水はなくなり、そのシーサイドビラ渤海が、被災して風呂の設備が壊れた人たちを
無料で受け入れて、風呂を解放してくれている。昨日はそこのお風呂にはじめて入った。

ネットで「渤海」と検索すると、キッズなんやらと言う子供に歴史を教えるサイトに、
わかりやすく解説してあったので、紹介すると・・・

「7世紀の終わりの中国の唐の時代、日本海の対岸に渤海(ぼっかい)という国ができ、今の中国の東北地方からロシアの沿海地方までにおよぶ広いはん囲で力を持ちました。渤海は、日本と友好関係を結びたいと考え、727年に使節(しせつ:国の命を受けて外交をする人)を送ってきました。
渤海の使節を乗せた船は、ロシアの沿海地方を出発し、冬の季節風にのって日本海を一気に横断、今の秋田県から山口県にいたる日本海側の各地の岸に着きました。そこから陸路を使って奈良や京都の都にのぼり、春になると石川県や福井県などの沿岸から再び季節風にのって帰国しました。
日本と渤海との交流は、渤海の国がほろびるまで約200年つづきました。その間に、渤海の使節は34回も日本を訪れています。
また、日本から渤海へも13回に渡って使節が送られました。そして、熊やトラなどの毛皮、経典や仏具、暦(こよみ)などの貴重な品々を日本にもたらしました。」

そのころは、大陸との交流があり、近くには金山もあって、この界隈は「富がいっぱい来た」街だったのだ。
ぼくは「からすの行水」なので、筆子さんが入浴している間、界隈を徘徊散歩。
住吉神社にお詣りして、「富来病院」まで歩く。明治37年筆子さんのおばあちゃんはこのあたりで生まれた。
日露戦争で勝利した年なので、男の子が生まれると、「勝利」(かつとし)という名前をつけるのが流行ったらしい。

その後、大きなダメージが残る富来の商店街を歩いてみる。ほとんどのお店がブルーシートで覆われ、
営業していない。豆腐屋さんの建物らしき場所に車体に「おからドーナツ」と書いた移動販売車があった。
ちょうど女将さんが金沢から帰ってきたところだった。地元の「どんたく」(能登にいっぱいあるスーパー)や、
金沢あたりまで、曜日ごとに神出鬼没のキッチンカーだ。なんどか「どんたく」の駐車場で食べたことがある。

先月は久しぶりに九州に帰省して、黒崎の商店街で「よかよ」というおむすびのキッチンカーに出会った。
長崎出身の女性が店主。
「気がついたら時代の先端」というところに、元気と感性のいい女性がいるものだ。能登にきて、
「おからドーナツ」の車を見かけたら、迷わず「おからドーナスちょうだい」といってください。感謝。