月曜の朝は玉子かけごはん!

2011年から、ずっと「月曜の朝は玉子かけごはん」をやっている。
2018年から、半分能登で暮らしているので、東京に出稼ぎにきている
時の月曜日だけ、能登の珪藻土竈(かまど)に炭火をおこし、羽釜にお米を研いでいれ、
能登から汲んでくる「藤瀬霊水」をいれ、♪はじめちょろちょろなかぱっぱ・・・
で「昔ごはん」を炊く。

一度に6合を炊く。昨日は「いきます」と二組の女子組に言われて
いたので、二回目に4合を炊いて、都合一升の米を炊いた。
アメリカの植民地政策みたいな、遺伝子組み換えの小麦の消費のほうが、国産のお米を
凌駕するようなヘンテコな国の中にあって、月曜日だけが、「日本人にもどった」
ような気分になる。

残った炭を、能登の珪藻土の七輪に移し、手回し焙煎機で珈琲豆を焙煎し、チャフ(薄皮)を
表でフーフー飛ばしていたら、20mくらい先から浴衣美人たちが歩いてきた。しかもこちらに手を
降っている。向島のきれいどころ?と胸に手をあて考えていたら、かなちゃんやった。
♪八時ちょうどの「あずさ2号」で、わたしはわたしは、旅に・・・
で、3人の女子が入店。

♪9時ちょうどの「あずさ3号」で・・・
4人の美女軍団。朝から「いきなり玉子かけごはん」みたいな盛り上がりに
テンションはあがりっぱなし。下手すると、冷房と暖房のスイッチを間違え、部屋の
中で熱中症になる老人の仲間であるのに、朝から「カウンターで女子会」の真ん中で
司会しているような気分だ。

♪10時ちょうどの(3度繰り返すと、認知症のはじめり?)・・・で、いったん閉店し、
買い物をしたり、自分たちの朝食をとったり・・・

12時にまたお店をあけると、浴衣美人のSが入ってきた。「かっぽれ」仲間だ。
4年ほど前に、珠洲でお茶会があったとき、いっしょに参加した茶のみ仲間でもある。
そんなことを談論風発していると、青い目をしたフランスの青年が入ってきて、カウンターに座った。
Sが、「どうして、こんな入りにくい(よけいなお世話)に、たどりついたんですか?」
と、日本語で問うと、「友達にグーグルマップで見て、『このお店いったら』、といわれた」とのこと。
便利な時代だ。「梅おろし、梅ソーダ、そばやのアイスクリン、ホボブラジル」を楽しみながら、
彼のスマホをカウンターにおいて、会話。

今回が二度めの日本の旅。昨年はじめてきて「日本にはまった」とのこと。
一回目に「いきなりお遍路」で四国を旅し、今回も続きで88か所のお寺をめぐるそうだ。
京都・浅草やスカイツリー・・・「なんちゃって、ちゃちゃちゃ」みたいな洗脳された旅行者ではない、
気骨ある旅人だ。
「ふしぎなであいやな~」と日本語でいったら、目を丸くしてスマホをにぎって、「教えてください」
というので、ひとことひとこと、大きな声で「ふ し ぎ な で あ い」と入力しても、変換されなかった。
「え に し と 日本ではいいます」といったら、なんとなく、通じた。
お遍路さんをやるような人は、言葉を超えた「魂」のかたまりを共有しているような気持ちになるもんだ。

今日は、めずらしくIT時代の仲間たちが夕方そば会をやってくれる。
8時からは、6人の「そば会」だ。日中が40度に迫る猛暑が続く。
午前中や夕方に動くほうが、賢明なのかもなんばん。感謝。

吾輩も猫である?

能登の家の横の畑で、5月に子猫が3匹生まれた。みんな白黒模様のネコ。
ハクロ、ミクロ、チクロ・・・筆子さんは毎日牛乳やごはんを
やりながら、名付けた子供たちに、それぞれ話かけている。
見分けがつかないぼくは、彼(彼女)らを総称で「サツキーズ」と呼んでいる。

帰る日、彼らがいっせいに、我が家に入ってきた。
「こらこら、ここは寒山拾得美術館だぞ。入場券が1000円いるんやで~」といっても、
馬耳東風で、走り回っていた。やっと追い出して、「元気にいろよ」と声をかけ東京に向かった。

東京の天真庵界隈でも、10年以上前には、よく野良ネコを見かけた。
ラジオが「今夜は強い台風がきます」といった夕方・・野良の母親が、
子猫を3匹加えて、洗濯物などを干すオープンエアーなスペースにやってきた。
そのうちの2匹を、ぼくのそばのお弟子さまが、所沢の家にもちかえってくれた。
天真庵がある「文花(ぶんか)」という地名を一字づつとって、「文(ふみ)ちゃん」「花(はな)ちゃん」
と襲名され、晴れて家ネコに昇進した彼女たちは10有余年埼玉県にゃん?として幸せに暮らした。

家ネコの平均寿命が15歳とすると、野良ネコの寿命は3年くらい。
交通事故、病気が主な原因だが、都会であるほど土や水飲み場がないので、腎臓の弱いネコには住みにくい場所だった。
それに輪をかけて、近頃の「不動産バブル」で、ネコが暮らす空き地が、下町からも姿を消し、野良ネコもめっきり見なくなった。

昨日は「墨田川花火大会」。その洗濯物を干すオープンエアーの場から、花火が奇跡的に見える。
ビールを飲みながら見ていると、おばあちゃんたちがふたり、「お邪魔します」と挨拶され、いっしょに花火を見た。
そのひとりは、最近少し認知がはじまった。みんなそうだけど、同じ言葉を繰り返す。前のアコレというスーパーの定員さん
の話だと「お金をぬすまれた」というのが口癖になったという。この被害妄想も認知症の人たちの共通項らしい。
花火会場は、この界隈と、両国の二か所で交互に打ち上げる。両国であがる間は、こちらはお休み。その間に間に
「もう終わりなの?」を繰り返した。でも、旦那さんが存命の時に、いっしょに橋のたもとまで歩いて花火見物に
いった話などをしているうちに、正常になっていった。ようは「話相手がいない」ことが、認知になる主たる原因かもなんばん。

お開きになって、カウンターで大阪のこいさんが土産にくれた山口の焼酎「平安永寿」をロックで飲む。
「強いな~」と思ってラベルを見ると43度だった。
横で筆子さんが「大丈夫?」と問う。「まだまだイケル」と答えたら、「酒でなく、認知」・・・
この秋68歳になる。平均寿命まであと12年。できたらボケたりセルフネグレクトにならずに真っ当したいと思いながら、
もう一杯強い永寿オンロックをグイッと飲み干みほし、こころの中で
「山川草木悉皆成仏 (さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」と唱える。
ネコたちも、わらわれも、都会や限界集落の厳しい環境の中、たくましく生きている同類だ。
「吾輩も猫である」のだ。

今日も12時から16時まで営業。それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」二階では「ゆるゆるヨガ」
明日の朝は「玉子かけごはん」(8-10)

池袋モンパルナス

昨日、パリで大規模なテロがあった。モンパルナス駅の近くにいた記者の
記事が今朝の朝刊にのっていた。ひさしぶりに芸術の街の名前を聞いた。
池袋にもモンパルナスがあった。貧乏な芸術家たちのアトリエがいっぱいあったなごりで、
昭和と平成のはじめころは、アトリエの跡や額屋などがけっこうあった。

天真庵の二階には、川上澄生さんの版画が一枚飾ってある。着物美人が、優雅にカフェにいるような構図だ。
昭和か平成か忘れたけど、池袋のうらぶれた骨董屋に、壊れかけた額縁に入って飾ってあった。
「これは、ホンモノやで」と主人が言った。彼の版画が売れるようになったら、家族が残った版木をつかって
量産したものが市場にでまわった、ということらしい。生前、まだ売れない時代に、自分で擦ったモノが
いい、という話だった。芸術とは、「その人」がでるもんだから、そうなんだろう、とそのころは、わかった
ようなわからないようなことを思った。

先月、久しぶりに九州に帰省した。小倉の駅前に泊まり、いきつけの古本屋を覗いたら、川上澄男の「ゑげれすいろは人物」
という版画本があったので、小倉を飲み歩いた後、ホテルで読んだ。ゑげれす好き、カフェ好きにはたまらない本だ。
19歳の時、小倉から新幹線で京都にいき、6年住んで東京に移住した。それから東京で40年くらい生きている。
その中で、「池袋モンパルナス」に住んだ20年が、自分の精神的な土台になったようにも思う。
最近は、芸術のにおいや、猥雑さが薄れて、ちょっと残念ではあるが・・・

池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が街に
出る
彼女のために、神経をつかへ
あまり太くもなく、細くもない
ありあはせの神経を――。

小熊秀雄「池袋モンパルナス」

今日は「墨田川花火大会」

なにも関係ないけど、今日明日は12時から16時営業。それから「UF0焙煎塾」「そば打ち教室」
明後日、月曜の朝は「玉子かけごはん」(8-10)

明日は、やっぱ浴衣でしょう?

昨日は、暑い東京で仕込み三昧。
妙高高原の道の駅で調達した「枝豆」をゆで、自分もゆであがりそうに汗
がでているので、ビールを飲みながら、そば汁をつくったり、珈琲をUFOで焙煎したり、水出し珈琲をつくったり、
筑前葛でそば豆腐をつくったり・・・カレーそばのスパイスが少なくなったので、イルフィット
に、買いにいく。イルフィオレット・・・イタリア語で「花」。女将はぼくのお茶のお弟子さま。

花屋や花の教室をやりながら、月初めの木曜日は「カレー日」を開催。ここのカレーは、一度食べたら、「一番好きなカレー」にランクイン
しそうなくらい美味い。ブレンドされたスパイスは、戸隠の山小屋のオヤジさんが、ヒマラヤ登山のときに出会った「味」を、再現したもので、山男たちにとっても、いわゆる「山で食べるのに一番のカレー」なのである。
ぼくは、そばの温かい汁の出汁に、野菜やニンニクなどを加え、牛すじを能登塩で煮込んでつくり、つけざるにして食べてもらっている。
まかないでそれを食べることもあるが、もち麦といっしょに炊いたごはんにかけると、美味い。
二階でヨガの日は、ひとりでそば会の準備をしながら、下で黙って食べる。でも、ヨガっている女子たちは、五感が
するどくなるので「今日はカレーを食べたでしょう」とバレバレ。

イルフィオレットは、水木金が「カフェ営業」。「アイスコーヒーをください」と注文したら、熊本の天草
の「なんやら珈琲焙煎所」の豆で、濃くのあるアイス珈琲がでてくる。
その「なんやら珈琲焙煎所」のオーナーは、ぼくのそばのお弟子様である「なつきくん」。
すぐれたデザイナーでもある彼は、「元気シール」のコースターとか、パンフをデザインしてくれた。

UFOは、個人向けの商品で、一度に60gくらいを焙煎できるようにしている。
先月、200gまで焙煎できる中型のUFOが完成した。それをブログに書いたら、なつきくんからメールがきて、「すごく興味があります」
とのことで、九州の珈琲屋さんでは、「第一号」になる「能登の珪藻土焙煎器UFO 友の会」のメンバーになってくれた。
お店も島原から移って、名前も一新。これを機会に「新しいUFOコースタをお互いにつくろう」
ということになり、彼がデザインをしているハズだ。

うちの「UFO珈琲」の一番のおとくいさまは、銀座にあるカフェ。
もうかれこれ5年くらい、毎月多くの珈琲を注文してくれているのに、正式名がわからず、
「銀座の隕石カフェ」とか「隕石直売所カフェ」とか呼んでいる。場所が場所だけに、けっこうな
有名人たちも、「UFO珈琲」が浸透してきた。

このままだと、熊本のなんやら珈琲焙煎所が、正式名称になりそうなので、ブログを中断して、調べてみた。
「ぼうし岳珈琲LAVO」が正式な名前。
そのうち、「UFOが頻繁に見られるぼうし岳」になるかもなんばん?

そんなわけで、今日から営業。12時から18時。
明日明後日は12時から16時。明日は「墨田川花火大会」。
ころな前は、花火の前座のような「浴衣ライブ」を10余年やって、演奏者もお客さんもぼくたちも
浴衣を楽しんだ。感謝。

能登くらし一週間もあっという間!

同じ30度でも、東京の30度とは違って、この能登くらしの
一週間の滞在中にエアコンは使わなかった。
夜も網戸をあけて寝ると、タオルケットが欲しくなるくらい夜中は涼しくなる。
ひぐらしの「かなかな」というすだく音が、昔の「夏休み」を彷彿させる。

畑がふたつあって、駐車場の後ろの里山つづきの畑に、秋に「辛み大根」の種をまく。
それまでは、雑草でぼうぼう。このぼうぼうが、新しい土になり、自然の命の循環で
新しい命を育てる。昨年までは、半分耕し、半分は耕さない「自然農法もどき?」でやってきた。
今年は、ぜんぶ「耕さない」で種をまく予定だ。昨日は、竹など、ほったらかしにしとくと、
あとが大変なので、抜いたり、さつきにまとわりつく蔓類の植物を抜いて、畑にまいた。
そこにある栗と柿も、秋の実りの準備に入った。近づいたら、まむしが一匹いた。
田舎暮らしには、ながくつ、軍手、蚊よけの帽子、が必需品。
先日は、油断して、短パンでキス釣りをしたら、ぶよにやられて、ひざ下に赤いポチを10個くらい
つけられた。

家の横にも、10坪くらいの畑がある。この季節はやっぱりぼうぼう状態。
そのぼうぼうの中で、子猫の声がする。サツキーズとはまた別の命が産まれたい。
飼い猫を最近なくした友達が「子猫をひきとりたい」というので、先日サツキーズたちの
写真をおくった。
そろそろ、雑草とりをやりたいけど、もう少し待つことにした。
こちらのぼうぼう、も、新しい命を育んでいる。

明日の朝、霊水を汲んで東京に向かう。
あっという間の一週間。毎日いろんなお店から、珈琲豆の注文がきたので、
毎日焙煎した。そろそろ東京のお店を閉めても、ねこまんまくらいの粗食と、のらちゃんのねこまんまくらいは
まかなえそうな気がしてきた。
もっとも、今回は近所の漁師さんから大きな「ひらまさ」が2尾きたので、野村家の食卓も、野良ちゃんたちも、
「料亭の料理」レベルだった。感謝。

渤海(ぼっかい)

能登志賀町に「富来」(とぎ)という街がある。今は合併して正式には、志賀町に統合された。
「富が来る」という縁起がいい名前なので、地元の人たちは今だに「とぎ」といい、病院や
商店街にも、名前が残っている。今回の地震では甚大な被害を被った。

そこの一角に、「シーサイドビラ渤海」という入浴施設がある。震災後しばらく閉まっていて、
近くの広場に自衛隊の人たちが「風呂」を設営してくれて、地元の人たちの入浴を支援してくれた。
今は、志賀町は断水はなくなり、そのシーサイドビラ渤海が、被災して風呂の設備が壊れた人たちを
無料で受け入れて、風呂を解放してくれている。昨日はそこのお風呂にはじめて入った。

ネットで「渤海」と検索すると、キッズなんやらと言う子供に歴史を教えるサイトに、
わかりやすく解説してあったので、紹介すると・・・

「7世紀の終わりの中国の唐の時代、日本海の対岸に渤海(ぼっかい)という国ができ、今の中国の東北地方からロシアの沿海地方までにおよぶ広いはん囲で力を持ちました。渤海は、日本と友好関係を結びたいと考え、727年に使節(しせつ:国の命を受けて外交をする人)を送ってきました。
渤海の使節を乗せた船は、ロシアの沿海地方を出発し、冬の季節風にのって日本海を一気に横断、今の秋田県から山口県にいたる日本海側の各地の岸に着きました。そこから陸路を使って奈良や京都の都にのぼり、春になると石川県や福井県などの沿岸から再び季節風にのって帰国しました。
日本と渤海との交流は、渤海の国がほろびるまで約200年つづきました。その間に、渤海の使節は34回も日本を訪れています。
また、日本から渤海へも13回に渡って使節が送られました。そして、熊やトラなどの毛皮、経典や仏具、暦(こよみ)などの貴重な品々を日本にもたらしました。」

そのころは、大陸との交流があり、近くには金山もあって、この界隈は「富がいっぱい来た」街だったのだ。
ぼくは「からすの行水」なので、筆子さんが入浴している間、界隈を徘徊散歩。
住吉神社にお詣りして、「富来病院」まで歩く。明治37年筆子さんのおばあちゃんはこのあたりで生まれた。
日露戦争で勝利した年なので、男の子が生まれると、「勝利」(かつとし)という名前をつけるのが流行ったらしい。

その後、大きなダメージが残る富来の商店街を歩いてみる。ほとんどのお店がブルーシートで覆われ、
営業していない。豆腐屋さんの建物らしき場所に車体に「おからドーナツ」と書いた移動販売車があった。
ちょうど女将さんが金沢から帰ってきたところだった。地元の「どんたく」(能登にいっぱいあるスーパー)や、
金沢あたりまで、曜日ごとに神出鬼没のキッチンカーだ。なんどか「どんたく」の駐車場で食べたことがある。

先月は久しぶりに九州に帰省して、黒崎の商店街で「よかよ」というおむすびのキッチンカーに出会った。
長崎出身の女性が店主。
「気がついたら時代の先端」というところに、元気と感性のいい女性がいるものだ。能登にきて、
「おからドーナツ」の車を見かけたら、迷わず「おからドーナスちょうだい」といってください。感謝。

能登の銀座通り・・・

天気がいいと、麦わら帽子をかぶり、近くの海まで釣りにいく。
今日も、錦糸町の釣具屋で買った「ちょい投げ」の仕掛けで、キスと、
それを狙いにくるヒラメを釣りに、かもめや浜ヒヨドリなどと会話しながら砂浜を歩く。

今日は日曜日なので、金沢ナンバーのワンボックスカーが一台岸壁にとまっていた。
海に一台のボート。カヌーのような手漕ぎのかい?で、優雅に海の上を
走っている。しばらくしたら、釣っているところから5mくらい左の砂浜に上陸。
「おはようございます」と挨拶した声が女子だったので、びっくりした。
世の中、男女同権というか、男とか女とか区別するな、の方向に舵取りされているけど、
まさか、「おひとりさま海遊び」(そんな言葉があるかどうか知らんばってん)が
もしやこの夏の流行か?とか思ったりした。
街で女子をナンパすることを「おか釣り」という。海岸でナンパするのは「何釣り?」
などと、へんなことを思う「ちょい悪じいさん」がちょい投げでキス釣りか・・これまた一楽だ!

先々週書いた「ひらめが釣れた」というブログを見た大阪のこいさんが、
「秋にひらめを釣りにいきたい」とメールをよこした。こいさんは、一昨年「タコ釣り」の弟子入り
して、一匹釣る瞬間までいった。逃がした魚(タコ)は大きかった、の悔恨よろしく、
「釣りキチこいさん」になったらしく、タコの恨みをヒラメではらす(これも一種のハラスメント?)
つもりらしい。これまた一楽。秋も楽しみだ。

帰りに神社の脇を通って歩いていると、家が全壊になって、公費解体待ちで家の片づけを
している知人にあった。正月の地震の時は、畑にいたけど、足っていられなかった、という。
この通りは、全壊の家が多く、みな避難所暮らしをされている。
「能登の銀座通りが、わやくちゃや(能登弁  めちゃくちゃ、という意味」と笑った。その笑いに、能登人の「力」を感じた。
みんな「ゆるゆる」と、歩きはじめた。感謝。

珈琲ルンバ

♪昔アラブの偉いお坊さんが恋を忘れた あわれな男にしびれるような 香りいっぱいのこはく色した 飲み物を教えてあげました やがて心うきうきとっても不思議 このムード …

西田佐知子さん、陽水、荻野目洋子さん・・・と歌い繋がれた「珈琲ルンバ」
高速道路のパーキングあたりの珈琲の自販機にコインを入れると、歌詞なしの珈琲ルンバの
曲が流れる。

その中にでてくる「モカ・マタリ」が、輸入されなくなった。中東の紛争が原因。
珈琲がおいしく飲めるのは、「平和」という言葉がいらないくらい平和な時だけである。
能登の家の茶箱に、一俵買ったマタリを小分けにして保存しているが、残りわずかになった。

陶芸家の久保さんに、新しい「珈琲ポット」を注文した。今回の大地震で甚大な被害がでた珠洲の「珪藻土」
を使って作陶をお願いしている。先日、愛用の「縄文ドリポット」で、珈琲を淹れた時に、ちゃねって、電話。
「令和版珈琲ドリポット」が、秋くらいにはできあがりそうだ。
珪藻土でつくる「UFO焙煎器」、縄文ドリポット、隕石の器・・・みんな能登に住むようになって、できあがった。

今朝も、藤瀬霊水でごはんを炊き、同じ霊水を薬缶でわかして、昨日焙煎した「ほぼブラジル」を飲みながら、この駄文を
書いて(打って?)いる。今日は「寒山拾美術館」に、来客希望のメールがきて、2人が遠方からこられる。

「UFO焙煎器友の会」の会長は、ギタリストの赤須翔。今はニューヨークでライブをやっているらしい。
各地でライブをやる時に、UFOで焙煎した珈琲をお客さんにサービスしながら、活動している。
UTOができた時に、「珈琲ルンバ」の替え歌をプレゼントした。
陽水や荻野目ちゃんの歌唱力に遠く及ばないのか、歌っている形跡はないが・・・がんばっているようだ!

♪昔 押上のコーシーやさんが
夢を忘れた あわれな男に
しびれるような 香りいっぱいの
琥珀色した コーシー焼酎を
教えてあげました
やがて こころうきうき
とっても 不思議 このムード
たちまち 男は 若い娘と 昼寝(シルネ)した・・・

なにかと、ささくれ立ったようなニュースが多いけど、ときにはスマホやPC
の電源を切って、「ゆるゆると」生きたいものだ。

せくなあせるな天下のことは しばし美人の膝枕

「猫の領分」・・・子猫が産まれた!

南木佳士(なぎけいし)さんのエッセイ集に「猫の領分」というのがある。
正月の大地震で、二階に置いてあった文机の窓際に、「なんども読み直したい本」を並べていた。
文机の上に置いてあった「文房四宝」の硯や墨などは雨漏りでぬれ、「言海」という日本で一番古い
辞書も雨でパリパリになったので処分した。
並べていた本は、少し濡れていたが、なんとか読み直しはできそうだ。

今朝は朝から雨で釣りができず、少し濡れた「猫の領分」を読み直した。「トラ」と言う野良ネコを座敷にあげ、
15年間暮らした思い出を綴ってある。著者は、長野の佐久で、医者と作家(芥川賞受賞)の二刀流。帯の文がいい。

「十五年の天寿をまっとうしたトラは、晩年、寒い朝のテリトリーの見回りは家のなかで済ますようになった。
窓辺で、いかにもなにか考えていそうに見えるそのうしろ姿は、きっといまの自分のように何も考えてはいなかったのだ。
そういうことがありありと実感できる歳になった。」

昨日の昼過ぎ、能登の家の玄関先に、黒い野良の母親が、3匹の子猫を連れて挨拶にきた。5月に生まれた「サツキーズ」。
限界集落の田舎で、大地震に見舞われ、人口のさらなる流出がとまらぬ場所で、3つの命が誕生したのは、
考えようによっては、おめでたいことだ。
筆子さんが、「蚊に食われてかゆいのでムヒを買いにいこう」というので、車で15分ほどの「GENKI」というスーパに
いく。車つきの買い物籠を押しながら、ムヒをそこにいれた。「ムヒだけなら、買い物籠いらないんじゃない」
というぼくの声を無視して、ペットフードのコーナーにいき、「ネコ元気」「煮干し」「牛乳3本」・・を、買い物籠に
入れる。4000円也。我が家のエンゲル係数の分子の7割は、サツキーズたちの食費が占めている(笑)

能登の家の玄関には「四睡図」(しすいず)の大きな絵が飾ってある。南條さんが描いたものだ。
寒山拾得と、トラ、豊干、の3人と一匹が、体を寄せ合って眠る構図の絵だ。
「人間の一番幸せな姿」を表す、ということで、禅林や絵描きたたちが好んで描いた。

夕方、GENKIで買ってきた牛乳を玄関先に置いたら、サツキーズたちが、元気に飲んだ。
まだ乳飲み子なので、その後、母親の乳首を吸いながら眠っている。まさに「四眠図」さながら。
腐敗しきった政治のせいもあり、能登の復興はなかなかすすんでいない感が強い。
こざかしい人間世界よりも、自然の中で自足で、有り体(ありてい)でゆっくり生き暮らしているサツキーズたちの
ほうが、ほんとうは幸せなのかもなんばん。
能登弁で、「ゆっくり生きていきましょう」というのを「ゆるゆると」という。これからは「ゆるゆる」がいい。感謝。

ひぐらしの 子守歌かな ゆるゆると

昔からの「金運グッズ」?ぞくぞくと集まってくる(笑)

今日の能登は朝から晴天なり。
「ちょいなげ釣り」をしに、海へ・・・「きす」が一尾(笑)
銀座の王子、陶芸家の久保さんと、「新製品」の打ち合わせを、メールでやり取りしながら、
砂浜のある海岸まで歩く。都会で散歩する時は、きょりょきょろしながら、ときどき立ち止まったり、
カフェに入ったりの気まぐれ徘徊散歩。能登での散歩は、左手に釣り竿、右手でメールしながらの
散歩になることが多い。「ほろつき歩き」といったところか?自然に寄ろ沿いながら、鳥や虫のすだく声を
聞いたり、四季折々の野花を愛でながらの歩きは、「歩くことは考えること」だと痛感。「哲」してる気分になる。
老いてからは、この「ほろつき歩き」がたまらない。

港で、もぐりの名人にあった。あわびとりの名人。
地震後も、あわびの生態はさほど変わっていない、という話に安堵。
近くのおばあちゃんたちも、天気のいい日には、海にもぐり、大漁の時?は、
我が家に到来もののさざえが、たくさん届く。都会のスーパーで買ったら、
新しい渋沢栄一翁のお札をだしても買えないくらいやってくる。

越後で晩年を過ごした良寛さん。田舎でも「さざえ」は貴重だった話が残っている?
托鉢三昧の精神で、いろんな人のお世話になった。その恩返しみたいな感じで和尚の「墨書」
は、いたるところに残っていて、その書体は、やさしい人間味にあふれている。
ある職人さんが、彼にお金を貸した。お金よりも、墨書がいいという思いで、返せとはいわなかった。
それを察した和尚の詩が、また酒脱でいい。

このごろの恋しきものは浜辺なる さざえの殻のふたにぞありける

さざえの「ふた」を、小判にみたてた!

昨年の秋に新潟の燕三条にいって、銅のパンを注文した。
大人気でほぼ「一年待ち」らしいが、秋あたりに出来上がると思う。
能登から新潟の海岸線を旅すると、「良寛さんゆかりの地」があちこちにある。
これもまた「老後の楽しみの旅」のひとつだ。感謝。